摂氏58度
独立国家サチの続き
摂氏58度。
それが、最後に測定された東京の地上気温だった。
大気は濁り、空の色はかつての青さを失って鈍いオレンジ色をしていた。
空を覆うスモッグの隙間から、太陽が燃えるように照りつける。誰もが知っていた。
“外”はもう、人間の住む場所ではない。
かつて街だった場所。
崩れた高速道路の下、黒焦げの車体と白骨化した動物の群れが転がる中、アスファルトの隙間にわずかに咲いた草花は、まもなく枯れた。
「……クソッ、もう限界だ……!」
ひとりの若者が、使い古された防護スーツの内側で叫んだ。
アオイ・シラカワ(18)。逃げ遅れた被災都市の出身。
今では使い捨ての測量員として、崩壊都市の表面温度やガス濃度を測る“生きたセンサー”のような扱いを受けていた。
「戻るぞ、もう酸素が……って、聞こえてんのか!?」
隣にいた男は、返事をしなかった。
顔を覗き込んだ瞬間、アオイは息を呑んだ。
スーツの内側が蒸気で曇り、その奥で男の顔が赤黒く腫れ上がっていた。
光熱病の初期症状だ。
「ふざけんなよ……!俺たちに何させてんだよ、クソ政府が……!」
その叫びは通信機を通して地下施設に届くが、誰も答えない。
数時間後、アオイは地下の隔離室でひとり静かに泣いた。
生き延びた罪悪感と、逃げることのできなかった絶望が、彼を押し潰していた。
地下100メートル、《第0区》司令室
かつては地下鉄の制御センターだった場所が、今は人類最後の拠点の中枢だった。
仮設の光源が天井から下がり、モニターに映るのは世界各地の壊滅状況。地球全土が、もはや災害地域だった。
その中央で立っていたのが、ハルト・アズマ(42)
元都市インフラの技術者であり、第0区を立ち上げた男。
熱の檻(2050年)
「……地表は、もう生存可能域を完全に超えた。今後は一切の地上活動を禁止する」
そう言った彼の声は、冷静に聞こえるが、その拳は震えていた。
モニターの端に、CNNの緊急放送が流れている。
アメリカの脱出艦が火星圏へ向けて発射されたというニュースだった。
豪華な船内には、セレブや上級政治家の姿が映っていた。
「またか……」と、横にいた女がつぶやいた。
リン・タカミネ(17)。地下光源の発明者であり、元・工学高校生。
「この星を壊した奴らが、最後には逃げてくんだ。どの面下げて避難してんだよ……」
「火星でも月でも、同じだ。適応できるはずがない。所詮、地球の庇護がなきゃ生きられない体なんだ、俺たちは……」
ハルトは言いかけて、モニターに映る宇宙船の姿を見つめた。
それはまるで“責任”から逃げ出すメタファーそのものだった。
《第0区》地下広場
数百人の避難民たちが、焦げた服、汚れた顔で肩を寄せ合っていた。
水は1日250mlの配給。食料は合成タンパク。娯楽は、もうない。
「なんで……俺たちだけ、取り残されたんだ……」
ぼそっとつぶやいたのは、元コンビニ店員の男だった。
その声が、隣の老婦人に火をつけた。
「あんたねぇ、あのとき政府が何て言ってたか忘れたの? 『居住選定は公平に行われます』ってさ……何が公平よ。私たちみたいな年金暮らしの年寄りは、真っ先にリストから外されたのよ」
「俺の弟なんて、宇宙飛行士試験通ったのに、“健康不適格”って嘘つかれて落とされたよ。金がなかったから……それだけだよ!」
「金持ちたちは自分だけの脱出ロケット持ってたって話だぞ! 政府は“選別”したんだ、優良な遺伝子、金を持つ人間、利用価値のある技術者だけを救った!」
そこかしこから怒声と罵声が上がった。もはや誰も希望なんて口にしない。ただ生き延びたという事実が、皮肉のようにのしかかっていた。
ハルトの独白
「俺たちは、選ばれなかった側の人間だ」
夜、人工光が落とされたあと、ハルトはリンとケイを前にそう口にした。
「この状況を作ったのは俺たちじゃない。国連も、先進国も、企業も、誰も温暖化に本気で向き合わなかった。二酸化炭素? 環境税? そんなもの、 “都合のいい正義” だったんだよ」
「今さら……言っても仕方ないよ……」
ケイがつぶやいた。
「でも、言わなきゃダメなんだよ」
リンが鋭く言った。
「このままじゃ、 “地球に殺された” って、そう思って死んでいく人ばっかりになる。違う。 “人間が、自分たちの星を殺した” の。ちゃんと、それを言わなきゃ」
沈黙のあと、ハルトが口を開いた。
「……その言葉を、残そう。これからの世代があるかは分からないが、最後に残すべきは、事実だ」
地球は、誰のものだったのか
この地獄を引き起こしたのは、自然ではない。
人間だった。
その中でも、富と力を持ち、責任を放棄し、正義を偽り、逃げた人間たちだった。
地球は「温暖化」という名の病に冒され、いまや「死」の時間を迎えつつある。
人類が育ててきた“熱の檻”は、誰も逃げられない。
地球は、もう怒ってなどいない。
ただ、壊れかけているだけだ――。