悪意の返報性
暗い部屋の奥で、足元に横たわる血まみれの死体を見下ろしながら、日下部真由は息をのんだ。
そして、自分の手に握られたナイフの存在をはっきりと自覚した。
血の滴が腕を伝い、床に落ちる。
その一瞬が永遠のように感じられ、真由は思考を停止しかけた。
それでも逃げるようにナイフを放り出し、倒れた男の顔を見据える。
にじむ視界の中で、その男――元夫である荒木遼一の表情は苦悶にゆがんでいた。
「もう、これ以上は……」
言葉にならないうめき声が、真由の口からこぼれる。
警察が到着したのは、それからわずか五分ほど後だった。
隣室の住人が悲鳴を聞き、すぐ通報したのだろう。
遼一の心臓はすでに止まっていて、蘇生措置も虚しく息を吹き返すことはなかった。
部屋の明かりがまばらに照らす中、真由は遺体のそばに座り込み、肩を震わせていた。
捜査官は慣れた手つきで現場を撮影しながら、真由に話しかける。
「荒木遼一さんが亡くなっています。
あなたが発見者であり、容疑者でもあります。
何があったのか、お話できますか」
真由の唇は震え、すぐには言葉が出てこなかった。
やがて落ち着きを取り戻した彼女は、か細い声で状況を説明しはじめた。
「ここで会う約束をしていたんです。
話し合わなきゃいけないことがあって……」
だが、その説明は曖昧なまま途切れた。
事件当夜、何が起きたのか。
詳細は捜査官たちにもまだ掴めていないようだった。
翌朝、所轄署の取調室で、真由は改めて取り調べを受けていた。
しかし、その口から語られる内容は要領を得なかった。
「私が、憎くて……やってしまったんです」
そうつぶやく以外、はっきりとした経緯を語ろうとしない。
捜査官は根気よく質問を続ける。
「あなたと荒木さんは離婚されていたとか。
どちらが原因だったんですか」
「私にも、あの人にも。
お互いに、いろいろ問題があったんです」
深く追及しても、真由の表情には曇りが募るばかりだった。
一方、捜査を担当する刑事の一人、柿沢は真由の高校時代からの友人だった。
とはいえ、捜査で私情を挟むわけにはいかない。
彼は淡々と進めながらも、心の底では、何か真由を助ける手がかりを探したいと思っていた。
荒木遼一の職場や知人をたどると、彼の離婚後の生活にはさまざまな悪評やトラブルの噂が飛び交っていることがわかる。
元上司からはこう聞かされた。
「荒木くんは離婚してから、すごく性格が尖ってしまったね。
特に元奥さんの悪口をしょっちゅう言ってたよ。
でも、それが本当かどうかは分からない」
別の同僚はこう話す。
「いや、むしろ気の毒なくらい悩んでたんだと思う。
慰謝料が高すぎるとか、彼女の要求がきついとか……」
証言はまちまちで、一貫性がない。
ただ、二人の間に深いわだかまりがあったことだけは確かだった。
柿沢は真由が何か隠していると直感していた。
しかし、普通なら離婚した元夫をわざわざ殺すというのは、余程の理由がないかぎりできないだろう。
それほどの怒りや憎しみが、どうして芽生えていたのか。
そんな中、柿沢の頭には以前、書籍やウェブサイトで目にした「悪意の返報性」という心理学の法則が浮かんでいた。
これは相手の悪意を感じるほど、自分も相手を嫌悪し、憎しみの連鎖が止まらなくなる現象だという。
柿沢はこのキーワードが、真由と遼一の間で何が起こったのかを解き明かすヒントになるのではと考えた。
捜査が進むにつれ、いくつか新しい事実も浮かび上がった。
真由には大学時代からの友人がおり、その人物が心理学の研究をしているという。
彼女の名は遠藤理恵。
理恵は一度だけ真由を通じて遼一とも顔を合わせていた。
柿沢は理恵を訪ね、話を聞くことにした。
実験や文献の山に囲まれたオフィスで、理恵は落ち着いた表情で応対してくれる。
「確かに、私は『悪意の返報性』という現象をテーマに論文を書いています。
ただ、真由がそれにどこまで関心を持っていたかは分かりません」
彼女はノートパソコンを開いて画面を見せてくれた。
「要するに、相手が自分を嫌っていると思うほど、自分も相手を嫌悪するようになるんです。
お互いにその感情を増幅させ合い、憎しみが止まらなくなる」
柿沢はメモを取りながら、静かに聞いていた。
「そこで気になるのは、なぜ真由さんが殺害にまで至ったか、という点です。
悪意は膨張しやすいとはいえ、普通は暴力や殺人にはなかなか進まないはず。
真由さんは極限まで追い詰められていたんでしょうか」
理恵の問いに、柿沢は答えられなかった。
真由の母親にも訊いてみたが、離婚後に二人が何度もトラブルを起こしていたという話は出てこなかった。
ただ、やりとりの中で真由が頻繁に心療内科に通っていた事実が判明した。
そこで処方された薬も見つかったが、犯行に直接結びつくような事情は見当たらない。
真由は黙秘を続ける。
しかし、柿沢はふと、事件当夜の部屋の状況を思い出した。
遼一の足元には、踏みつけられたスマートフォンが落ちていたのだ。
画面は粉々に割れていたが、修復すればデータが取り出せるかもしれない。
その依頼を急ぎ、解析を進めると、メールの下書きフォルダにいくつかの文章が残っていた。
「もうお前の存在を許せない」と書かれたメッセージ。
「金を返せ。
裁判で争う」といった一方的な文言。
そして、その最後には、「お前が俺を憎むなら、俺はもっと憎んでやる」といった言葉が並んでいた。
この文面を読んだ柿沢は、胸の奥が痛んだ。
離婚の際、何らかの行き違いがあり、遼一の怒りが激化していたのは明らかだ。
それが真由にも伝わり、互いの悪意が増幅していたと考えられる。
もし真由が「自分こそが憎まれている」と確信してしまったのなら、そこから逃げ場がなくなったのかもしれない。
取調べの席で、柿沢は思い切って真由に問いかける。
「もしかして、遼一さんからの言葉や態度が辛かったんじゃないか。
それがきっかけで、あなたも彼を憎むようになったのかもしれない。
そうだろう」
真由は、じっと柿沢を見つめた後、かすかにうなずいた。
そして震える声で、ようやく言葉をつなぐ。
「最初は小さな口論だったんです。
子どもの養育費の件とか、生活費の清算とか……。
でもあの人は、私の文句を聞くたびに、どんどん攻撃的になっていった。
私も負けじと相手を責めるようになって……気づいたら、憎いとしか思えなくなっていたんです」
真由の証言は、いくつかの事実と合致した。
事件当夜、会って話し合おうとしたのも、完全に関係を断ち切るための最後の話し合いだったらしい。
しかし、そこで遼一が激高し、スマートフォンを投げつけ、真由に暴言を浴びせた。
引き金を引いたのは、その言葉の数々だった。
「あなたは一生苦しめばいいんだ」と言われ、真由は逆上したという。
「殺すつもりなんてなかったんです。
でも、あまりにも酷くて……気づいたら、手を出していました」
そう語るとき、真由の瞳には、涙がこぼれた。
捜査官たちは、真由の言葉と現場の状況から、激情殺人の線が濃厚だと判断した。
ただ、彼女をここまで追い込んだのは遼一自身の言動でもあった。
まさに、互いの悪意をぶつけ合ううちに高まり、誰も止められなくなったのだろう。
柿沢の頭にあった「悪意の返報性」という心理学のキーワードは、まさにこの事態を象徴していた。
結局、真由は殺人の容疑を認め、起訴された。
裁判の場で、彼女は「自分も悪意を増幅させてしまった責任は逃れられない」と語った。
一方で遼一の周囲にも、彼の悪意を抑える手だてを考えていた者はほとんどいなかった。
お互いを思いやる気持ちは、いつのまにか負の感情に塗り替えられていたのだ。
判決が下る前日、真由は接見室で柿沢と会った。
薄いガラス越しに、柿沢は静かな口調で話しかける。
「きっと誰にも止められなかったんだろう。
だけど、もし少しでも話せる相手がいたら、結果は違ったかもしれない。
君は彼を本当はそこまで憎んでいたわけじゃないはずだ」
真由はわずかに目を伏せ、かすかにうなずく。
「本当は、あの人を恨むより、忘れたかったんです」
その言葉は悲痛に響いたが、どこか救いにも思えた。
悪意の返報性――小さな憎しみが大きくなり、やがて大切なものを奪っていく。
悲劇の根底には、もっと早い段階で気づくべき断層があったのだろう。
互いが互いを敵と見なし、正当化してしまった時、憎悪は雪だるま式に膨れ上がってしまう。
そして、最悪の結末を招く。
柿沢は殺人という結果を免責するわけにはいかないと承知していたが、真由が苦しんできた経緯を思うと、胸が痛んだ。
彼は小声でつぶやく。
「どうか、これからは悪意に囚われず、生きてほしい。
たとえ罪を償ったあとでも」
真由は涙を拭きながら、かすかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。
いつかきっと……そう思える日が来ることを願っています」
そして、静まり返った接見室を後にする。
積み重なってしまった憎しみは、取り返しのつかない悲劇を生んだ。
しかし、同じ過ちを繰り返さないためにも、真由は自分が向き合ってきたものを受け止めるしかない。
悲しみを胸に、彼女は扉の向こうで、きっと新しい一歩を踏み出すだろう。




