後編
その日、僕はラーメン屋の深夜バイトを先輩と二人で回していた。本来ならば帰宅して大学図書館で借りてきたミステリでも読もうかと思っていたのに、直前になって欠勤した他のバイトの穴埋めをすることになったのだ。
キッチンの床に水をぶち撒けて掃除用具が入らないような隙間からホコリを流して、モップがけしている深夜一時にドアベルがカランカランと冷たい店内に鳴り響く。
「っしゃーせー」
僕は、モップを壁に立て掛けて客に駆け寄った。
「一人なんですけどまだいけますか?」
腰までのロングヘアを一房耳にかけ、申し訳なさそうに女が尋ねる。
「ああ、はい、いけますよ」「良かった」
あの赤いロングスカートの女だった。
ギラついた油の匂いのする暖色の照明の下で見ても女の赤いロングスカートは、あの自動販売機が発する光の横で佇む姿となにも変わらなかった。
「注文は?」とメニューを差し出す。ラミネートと油の二重コーティングのメニューを女は両手で受けとり、それから悩まずに言った。
「豚骨ラーメン背脂ニンニクマシマシ、野菜マシマシで」
僕は驚いて、なんの不思議もない注文を書き留めることも忘れて、女の口元からするりと飛び出してきたカスタムを棒立ちのまま見つめた。すると、女は涼しい顔でもう一度注文を繰り返した。
「豚骨ラーメン、背脂ニンニク野菜マシ」
そして僕はハッとして答える「はいよー」
時間をかけて綺麗にした厨房で先輩が麺を茹で、僕は器にスープと背脂を投入してかき混ぜる。その傍らで女は脂ぎったテーブルに両肘をついて、スマホをいじっていた。時折、意味深なため息を吐いて、お冷を啜るようにしてちびちび飲んでいた。
「おまちどうさま、豚骨ラーメン背脂ニンニク野菜マシ」
山盛りに盛られたもやしとキャベツ、三枚のチャーシューに煮卵が一つ乗った深夜の背徳ラーメンを女の前に提供する。流れるような合掌からパキリと割り箸を割って、もやしを口いっぱいに頬張り山を崩していくのは見ていて気持ちが良かった。
「ごちそうさまでした」と小さく呟いた声が店内にいる全員の耳に入る。
女はものの十分で豚骨マシラーメンを完食した。そしてハンドバッグの中からポーチを取り出し、その中から百均で見たことがあるような半透明のトラベル用のおくすり入れを取り出すと、黄色のタブレット一錠手のひらに乗せ、ぐいと首を上げて、勢いよくお冷で流し込んだ。
「すみません、お会計お願いします」
「はいよー」僕は足を滑らせないように慎重にレジに向かう。
「千五百円になります」
「ちょうどで」とディオールの折りたたみ財布の中から千五百円をちょうど、青いトレーの上に置く。僕はそれを受け取って、レジに打ち込んだ。出てきたレシートを女に渡そうとすると、「あ、いらないです」と首をゆるりと振るので、手元にあるゴミ箱に彼女が食べた豚骨ラーメンマシのレシートを丸めてくしゃくしゃにして捨てた。
「ありがとうございましたー」
深夜二時、パンパンに膨らんだ足を引きずりながら泥のような眠気を叱咤し体を家へと運んでいく。バイト先と自宅マンションは目と鼻の先だが、その一歩が今の疲れ切った体には遠い。結局あれからシフトが終わるまで赤い女以外の客は来なかった。
先輩は客がもう来ないと悟ると、店内最奥のテーブル席に腰を深くしてだるんと座り、堂々と前掛けに忍ばせておいたスマホを取り出すと動画サイトを漁り始めた。
「バレたら不味くないっすか?」
たった今磨き終わった床に水をぶちまけもう一度ビシャビシャにする。今日で三回目のモップ掛けになる。
「まあ、要はさ、バレなきゃいいんだって。死角だし、常連でもなければ告げ口されない。同じ給料出るならお前もサボれば?」
「いや、僕はいいっす」「はあー真面目だねえ、ま、俺はどうせ今月で辞めるからなにやったっていいんだよ」
と先輩は、今度はワイヤレスイヤホンを装着した。
赤い自動販売機の横には相変わらず赤いロングスカートの女がぬぼっと立っていた。手にはそこの自動販売機で売られているピンクのエナジードリンクが握られている。僕は、これからの徹夜のお供にそこでピンクのエナジードリンクを買おうとボタンに指を差し出す前までは決意していたが、出勤前に見たボタンは今は売り切れになっていた。エナジードリンクのボタンに伸ばしかけた不自然な人差し指を引っ込め、気まずさから咳払いを一つしてから、僕はその横のブラックコーヒーのボタンを押した。
深夜に響く、労働のためのガコンという音は、スマホで何かを必死に確認しながら、缶に口をつける女には響いていなかった。
お互いの間で流れるニンニクの香りで目配せをして、オートロックの鍵を開け、僕は誰もいないエレベーターに乗り込んでから「まあ、人間だし、精をつけたい日もあるよなあ」と独りごちた。