頑張るよ
テルメトスのある辺りは、「ビトレスク」という街なのだそうだ。既に日の落ちた通りには、ピンクや緑や様々な色合いのランタンが街を彩っていた。建物は中世ヨーロッパふうで、レンガ造りの店や住宅が並んでいるのだが、複雑な模様が施されたランタンによる幻想的な光が、エキゾチックな雰囲気も醸し出している。
(さすが、さまざまな民族の文化が混じり合った国だなあ。すごく綺麗……)
美しい風景に見とれていると、シンが口を開いた。
「お前さ、大丈夫か」
その言葉に、一瞬たじろいで、俯いた。
「……頑張るよ」
気丈に振る舞ったつもりだったが、出てきたのは弱々しい声。小石に躓いた程度でも、すぐあと戻りしてしまう自分の豆腐のようなメンタルには、自分自身嫌気がさす。
「あんまり構えるなよ。まぁ、初対面だし、初めのうちは礼を尽くすのも大事だけどな。思っていることは口に出せ。困ったときはちゃんと言え。『模範的な人間』でいようとするな。お前はお前でいいんだから」
「わかっているんだけどね。まぁ、なんというか、色々考えすぎちゃうんだよね」
地面を見ながら、歩きながら答えた。
「でも……私、頑張るよ。だって、こんなところまで来たんだもの。ここで、おどおどして、自分の殻に籠もって、前の世界の繰り返しをしていたら意味ないもの」
自分に言い聞かせるように、シンに向かって応えた。横から、シンの大きな手が伸びてきて、ガシガシと頭を撫でられる。
「……俺の取り越し苦労だったかもな。ま、気張らず頑張れや」
「……うん」
正直、想像でしかなかった私の「新しい職場」がリアルなものとなって目の前に現れた時、本当に自分が変われるのか、足元が揺らいでしまった感じがした。しかし、親切にしてくれている、私に新しい居場所を提供してくれた人たちに報いるために、今は自分のできる最善を、自分を変えるための一歩を頑張ってみたい。
「まー、なんてーの? その頼りなさげで、俺にしか心を開けない! みたいな感じも割とそそられるけどな!」
ガハハと笑うシンを見て、もう、いろいろ考えるのはやめた。
「また、そんなこと言って!」
ちょっとだけ愚痴をこぼして、少し軽くなった心と共に、私たちは目的のお店に入っていった。
⌘
パン屋の一日は早い。「初日は早朝から手伝ってくれなくていいよ」と言われたのだが、一人だけ働かないわけにもいかないし、早く仕事も覚えたかったので、空が白み始めたのと同時に起きて、仕込みを手伝う。
昨晩の夕食の際に初めてテルメトスのパンをいただいたが、オーソドックスなパンが多く、素朴な味わいだが、丁寧に作られていて、とても美味しかった。特に美味しかったのはクロワッサンらしきパン。軽い口あたりで、中までサクサク、噛めば噛むほどバターの甘味が口の中にじゅわっと広がる。一度食べただけで、すっかりファンになってしまった。
残念だが、素人がいきなりパンを作る作業には関われないので、店内の掃除や昨日仕込んでおいたパンの運搬、店番など、できる作業から手伝う。紹介者として私の仕事ぶりが気になったのか、ランチタイムが終わるまで、シンも一緒に手伝ってくれた。
「また、そのうち様子を見にくるからな! それまでに、その張り付いたような笑顔、直しとけよ!」
ある程度客がはけた頃、店の周りにいた人間が全員振り返るほどの、大きな声でそう言って帰っていった。どうやら声のボリュームの調整はできないタイプらしい。
(こういう大きな街で、あの声のデカさは目立つなぁ。海沿いの町にいたときはそんなに感じなかったけど……)
嵐のようなあの男の勢いに乗せられて、この世界にやってきてからまだ一週間もたっていないのが信じられない。毎日が走り去るように過ぎていた東京の日々とは大違いだ。
(また、会えるといいな)
そう思いながら、彼の大きな背中を見送った。
それから初めの一週間は、ひたすら教わったことをメモし、何度も読み返した。いまは目の前の仕事を頑張ることで、少しでも「以前よりはましになった自分」になりたい。
相変わらず、砕けた会話をすることや、自分の考えを伝えることには躊躇がある。でも、テルメトス一家に対して、少しずつ、少しずつ、自分の言葉で表現することにトライしていった。
――しかし、パン屋勤めを始めて二週間が過ぎた頃、仕事人生再出発後初めての、「自分を変えることの難しさ」を実感する出来事にぶち当たることになった。