テルメトス
目的のパン屋に着いたのは、空が朱色を帯びた頃だった。
「トルシェを広場に停めてくるから、お前は店の前で待ってろ。動くなよ」
パン屋の近くには、トルシェを停める場所はないようだった。広場が日本で言う駐車場みたいな場所になっているんだろう。海辺の集落とは違い、東京の街のように、建物と建物の間がほとんどない。空に浮いたタージマハルのような城を見ていたし、シンの服もどことなくアラブふうだったので、街並みもそちらに近いのかと思いきや、ヨーロッパの旧市街の街並みに近かった。石畳の道路や、石を積み重ねて作られた重厚な建築群を見ていると、なんだか観光旅行に来ているような気分になる。
今日から私がお世話になるパン屋は、「テルメトス」という店らしいが、カタカナやアルファベッドで、テルメトス、とは書いていなかった。話し言葉は日本語と変わらないが、扱う文字は違うらしい。私から見ると、記号のような文字が看板に踊っている。
「文字は一から勉強しないとかぁ……これは大変だなぁ」
看板をしばらく眺めていたが、なかなかシンが戻ってこないので、ショーウィンドウの中を覗いてみることにした。てっきり本物のパンが並べられていると思ったのだが、そこに置かれていたのは、粘土細工のパンだ。
「あれ。もったいないなぁ。ここからすぐ本物のパンが見えた方が、食欲を掻き立てられるのに」
しかもしばらく飾ったままなのか、うっすらだがホコリも被っている。また、粘土細工のパンが並べられた棚の後ろに、薄手のカーテンがかけられていて、店内は見えないようになっていた。
「これじゃあなんだか入りにくいよね……。レイアウトを変えた方が、絶対に人は入るのに」
そんな事をぶつぶつ一人で呟いている間に、トルシェの駐車を終えたシンが広場から戻ってきた。
「待たせたな」
戻ってきたシンは、呼吸を整えていた。土地に不慣れな私を心配して急いで来てくれたのかもしれない。
シンの優しさに、自然とふっと、笑みがこぼれた。すると一瞬、シンがたじろいだように見えたのだが、そんなに恐ろしい笑い方をしたのだろうか。気を持ち直すように咳払いをして、シンは言った。
「いいか、これからテルメトスの主人のアルフレド、女将のアドラ、娘のテトラを紹介するが――お前のことは、他の国から来た外国人、ということにしてある。異世界のことを話すと、ちょっとした騒ぎになるからな」
(確かに、異世界から来た人はそんなに多くないって言ってもんね)
「あと、光の航路のことは言うなよ。テルメトス一家は気のいいやつらではあるんだが……何せ口が軽い。あいつらから、うっかりあまり良くない筋に情報が漏れたら、あの航路が悪用される可能性もある。とにかく、絶対に話すな」
「わかった」
色々詮索されても回答に困るので、もともと言うつもりもなかったが、改めて気をひきしめた。
「じゃあ、入るぞ」
キィと、木の扉を開けると、扉に括り付けられてある鈴が、カラン、カランと、私たちの来店を告げた。残り少なくなったパンを、割引コーナーらしき箇所にまとめていた、店主らしき男が振り向いた。背丈はあまりなく恰幅の良い、パーマヘアの男だ。
「おお、来たか! シン、昨日ぶりだな。そちらの女性がちえかな? 今日からよろしくね」
店主は、店の奥に向けて叫んだ。
「おい! アドラ、テトラ! 新しい下働きの子が来たぞ!」
奥から、女将さんらしき女性が、娘を連れ立ってやってきた。
「あら、よろしくね! 本当に良いところに来てくれたわ。実家のお父さんが病気だとかで、前の子が急に辞めちゃって。シンも紹介ありがとね!」
アドラは、声はシンといい勝負なくらい大きかったが、どこか品のある優しそうな女性だった。濡れた手を、エプロンで拭きながらでできたところを見ると、奥で片付けでもしていたのだろうか。
「シン、こんばんは! ちえって言うのよね? 珍しい名前だけど、どこの国から来たの?」
健康的で快活な印象のテトラは、鼻の上にそばかすのある、二十代前半くらいの女性だ。感じの良さそうな人だったのだが、一番聞かれたくない質問を真正面から投げてくれた彼女に、少々怯んでしまった。
「こんにちは……。えーと」
なんと答えたら正解なのか分からず、なかなか言葉が出てこない。シンと二日ほど過ごす中で、だいぶコミュニケーションが上手くなったような気でいたが、そんな簡単に改善するわけはなかった。
「海辺に……いた時に流されまして。よく、おぼえていなくて……なんと言いますか、その」
モゴモゴ話しているうちに、緊張して自分が何を話しているのか分からなくなってきてしまった。上手く話せない恥ずかしさから、また顔が真っ赤になってしまう。やはり、自分に注目が集まる場面になると、心にプレッシャーがかかってしまうようだ。眉間にしわを寄せ、地面に視線を落としてしまった私を見て、やれやれ、といったため息をついたシンが助け舟を出してくれた。
「一昨日の朝、桟橋のあたりに流れ着いてるのを運良く見つけてよ。自分がいた国のこと、あんまりよく思い出せないみたいなんだ。助け出したはいいものの、ほれ、うち、むさ苦しい男二人暮らしだから。若い女を住まわせるにはどうだかなーって話になって。それで、ここへ相談に来たわけよ」
シンも、私の状況を詳しくは説明していなかったらしい。三人は、気遣わしげな視線を私に向けた。
「大変だったのね。なんだか無神経な質問をしてしまったわね。ほんと、ごめんなさい」
テトラはしゅんとして言った。
「あ、シン、私はちなみに、あなたと一緒なら、どこでも住めるわよ!」
場を和ませるためなのか本気なのか分からなかったが、テトラは悪戯っぽく、シンにウインクをした。
「シンがうちの娘と結婚してくれるなら、大歓迎だよ! ただ、海の商売をやめて、うちでイケメン店主として活躍してくれることが条件だがな!」
ハハハ、と店主のアルフレドは笑った。アドラも頷いている所を見ると、異論はないらしい。困ったような表情を浮かべたシンだったが、「いやー、お気持ちは嬉しいですが、俺は海の仕事が好きなんで、ちょっと無理っすね」と、バッサリ断っていた。テトラが、ショックを受けたような顔をしたのが見えたので、多少シンに気があるのかもしれない。そのやりとりを真顔で見ていたら、横に居たシンに、脇腹を小突かれた。
「立ち話もなんだから、みんなで夕飯にしよう。シン、今日は君も泊まっていきなさい。夜の運転はオーラを消費するし、危ないから」
「えっ、シンも泊まるの? 」という怪訝な顔でシンの顔を見上げると、不機嫌そうな顔をされる。口の動きだけで「なんだよ」と言ったのが見えた。
パン屋のテルメトスは、三階建てになっており、一階が店舗とパンを焼く工場、二階がLDK、三階部分に部屋がまとまっている作りになっていた。私の住む場所として、三階の北側にある部屋を提供してもらった。四畳半くらいの広さだろうか。ベッドでほぼ半分埋まるくらいの部屋だったが、収納は大きく、フカフカの布団やボリューム感のある枕は、思わず飛び込みたくなる衝動に駆られるような、気持ちよさそうなものだ。寝具のカバーは可愛らしい朱色をベースにした小花柄、ベッドサイドの収納の上には、華奢なガラスの小瓶に、黄色い花がいけられていた。
「夕飯の支度をするから、とりあえず荷物の整理でもしておいで。もし足りないものがあるようなら、これで買ってきなさいな」
私の手首をガシッと掴み、アドラはお金の入った袋を私の手のひらにのせた。
「え……でも、まだ働く前ですし……お金をいただくわけには……」
「律儀ねえ。でも、生活するなら色々必要なものもあるでしょう? 気になるなら、前借りってことにしておくわ。シン、女の子一人だと心配だから、ついていってあげて」
ニッコリと微笑んだアドラは、シンの肩を叩き、階段を降りていく。急いでお礼を言うと、アドラは後ろ手に手を振って答えてくれた。
(見ず知らずの、しかも素性のよくわからない私に、こんなに良くしてくれるなんて……。ホント、頑張らないとなぁ)