出立
窓から降り注ぐ朝日が、私が横たわるベッドの上に落ちてきた。不意に向けられた優しい笑顔へのドキドキでしばらく覚醒してしまっていたが、お酒のお陰もあってか、いつの間にか眠っていたらしい。昨日手をのせられたあたりに手を当てると、ほんのり頬が色づくのを感じた。
フワフワとした気持ちを抱えたまま、服を着替え、自分が使ったリネンをはぎ、洗濯場へ持っていく。洗濯機らしき機械はあるのだが、全く構造がわからなかったので、自力で使うのは諦めた。掃除用具のありかは昨日聞いておいたので、箒とちりとりを使って、部屋はきれいにしておく。
(シンとエルメさんはわかめ漁かな……結構遅くまで飲んでいた気がするけど、シン、大丈夫だったのかな)
頭に彼の顔が浮かぶと、また熱がぶり返してきた。ブンブンと頭をふっていると、そこへ、漁から帰ったシンとエルメが帰ってきた。
「おはよう。おお……廊下も掃いてくれたのか。わりいなあ、ありがとよ。用意しておいた朝飯には気づいたか?」
「あ……すいません……。先に掃除をしていて。気づきませんでした」
(むしろ、朝食を食べるという考え自体頭から飛んでいました……)
「食べないと元気でねえぞ」と言うエルメに促され、居間の座布団の上に座る。
チラッと、絨毯の上の、座布団のような敷物にどっかりと座り、水をグビグビと一気飲みをするシンを横目に見る。私の視線を感じたのか、急にこちらを振り返った。
「なんだよ?」
「いえ、なんでもないです」
「……なんか、急によそよそしくねえか、お前。昨日あんだけケタケタ笑ってたのによ」
「……ケタケタは笑っていません」
ちょっとだけこの男に好意を持ってしまったせいか、なんだか落ち着かない自分がいる。不思議そうな顔でこちらをじっと見るシンを横目に、エルメが私に声をかけた。
「今日もう行っちまうんだよな。オレはよ、嬢ちゃんに、もうちょっとここで休んでもらっても、全く構わないんだが。まだこの国に来たばっかりなんだしよ」
エルメも、チラッとシンを見た。
「ウチには猛獣がひとりいるからよ。若い娘さんになんかあっちゃあ困るからなあ」
ちょうどコップから水を口に含んでいたシンは、豪快に吹き出した。
「ゲボッ、ガハッ……ジジイ、俺を何だと思ってんだよ」
表情が変わらないのでわかりづらいが、今のはエルメなりの冗談だったらしい。若干口角が上がっていたので、おそらく。
「お嬢ちゃんはこれから自分探しの旅に出るんだろ。せっかくなんだから、ここだけじゃなくて、広い世界を見てこい。そしてたくさんの人間にもまれて、新しいことをたくさん体験してよ、いろんな生き方があることを知るんだ。この人の少ねえ、閉鎖的な港町じゃあ、それはできねえからな」
そう言って、エルメはふわりと微笑んだ。押し付けがましくない、老人なりの優しいエールが、私の心に確かに光を灯した。
「頑張ります……」
言葉は少なくなってしまったが、これがエルメのエールに応える、今の自分の精一杯の決意表明だった。
「とりあえず、それ食ったら支度しろよ。ここからちょっと離れた街のほうだが、トルシェで行きゃあまぁ、昼飯食って、ゆっくりした後に行っても、夕方には着くだろう」
そう話したシンは、すこし眠たそうだ。今朝も三時には出立したらしいので四時間くらいしか寝ていないはず。
「……ありがとう……。ちなみに、どんな仕事なの? あとトルシェって?」
普段はあまり自分から質問しようという気も起きないのだが。本当に興味を惹かれたものには、質問は自然と出てくるものなのかもしれない。そう考えると、これまで仕事に対しては、あまり興味を持つ努力ができてなかったのかもしれない。
「パン屋のテルメトスだ。夫婦と一人娘が切り盛りしている。下働きが最近やめて、人が足りないそうだ。トルシェってのは、まあ、自動で動く乗り物だ。あとで見ればわかるさ」
「嬢ちゃん、とりあえず飯を食べちまえよ。話はそれからだ」
⌘
トルシェは、私の世界で言う、三輪駆動の大きなバイク――言うなれば、タイなんかで見られるトゥクトゥクのようなものだった。ただ、トゥクトゥクとは違い、座席は運転席と助手席しかなく、後方には荷物を載せるスペースしかない。
「……お世話になりました。また落ち着いたら、改めてお礼に伺います」
私は、エルメに深々と頭を下げた。
「しばらくは困ることも多いだろうから、オレたちに手伝えることならなんでも言えよ。パン屋の親父んとこは、たまにだが買い物に行くこともあるからなあ。シン、おめぇ、ちゃんと嬢ちゃんを無事に目的地につれてくんだぞ。道中嬢ちゃんに手を出すなよ。まぁ、職業柄嫁さん探しにはオレも苦労したがよ。この国じゃ俺らみたいなのはもてねえからな」
「だーッ、おい! ジジイ、何言ってんだ! あーもう、ちえ、行くぞ!」
ハハ、と私は苦笑いをした。エルメの面白いところは、こんなふうに、表情ひとつ変えずに真顔でシンをおちょくるところだ。エルメが定期的にイジるおかげで、私もシンに対する心のハードルが下げられている気がする。もしかしたら、場を和まそうとして、狙ってやっているのかもしれない。
「では、また!」
助手席に乗り込む。バイクにしては小さなエンジン音を立てて、私とシンを乗せたトルシェは走り出した。どんどん小さくなるエルメの姿を見て、これから飛び込んでいく新たな場所への不安が、胸のうちで静かに広がっていった。
シンが運転するトルシェは、海沿いの開けた道をしばらく進んだ。私が元いた国の深い緑色の海とは違い、陸から見える太陽の光をキラキラと反射するネトピリカの海は、サファイアを思わせる青だった。真っ白な浜辺が海を囲み、浜辺と車道の合間には、ススキのような植物が生い茂っていた。
初めは景色に見惚れていたが、そのうちトルシェの構造が気になった。動力源はなんなのだろうか。
操縦席の雰囲気は、車のそれに似ているが、見たところガソリンの残量を示すようなメーターがない。興味津々な様子でじっくりと観察していたところ、ずっと黙りこくっていたシンが、口を開いた。
「構造が気になるのか」
エルメの家を出てから、ずっと会話がなかったので、トルシェの構造はちょうどいい会話の糸口かもしれない。シンの横顔をチラッと見てから、景色に顔を戻して答えた。
「……うん、これ、何で動いているの?」
「ネトピリカの機械は、人間のオーラによって動いてんだよ」
空に浮いた城以外は、これまで割と、元の世界のどこかの国の風景みたいな要素が強かったので、急に出てきたファンタジーワードに、反射的に疑問を口にした。
「えっ、オーラ?」
「そうだ。人間の体表からは、常にオーラっつー、まぁ、エネルギー源みたいなものがでてるわけだ。それを特殊な装置により収集して、機械の動力に利用してるんだ」
なるほど、そういう仕組みなのか。ただ、仕組みはわかったが、でもオーラという存在は俄かに信じ難いし、機械を動かせるほどの動力になるというのもイメージしづらい。それに。
「人間から発されるエネルギーを使うって、大丈夫なの?」
「まぁ、体に全く影響がないと言えば嘘になるな。オーラの活用は、二百年ほど前に開発された技術だが、やはり当時は短命者が続出したらしい。エネルギーを機械に吸い取られすぎちゃうんだな」
私は途端に不安になった。
「それって……大丈夫なの……?」
シンはニカッと笑う。
「なに? 俺の心配してくれんのかよ」
また軽口をたたいている。でももう、そんなセリフで動揺するような私ではない。徐々にではあるが、こういう彼の態度にも慣れてきた。
「シンがどうなってもかまいませんけど」
ちょっと憎まれ口を叩いてみる。他人とこんなやり取りをするのは初めてで、なんだか楽しくなってきている自分がいた。少し私の頬が緩んだのを見て、シンも満足げな顔になった。
「短命者が続出していたのは、ずっと昔の話だ。それから、オーラのエネルギー効率を改善する研究が進んで、寿命への影響については、今は限定的だ。……まぁ、それでも二・三年は縮まるみたいだけどな。あと、一日中使い続けるのは体への負荷がかかりすぎるから、適度に休憩を入れながら使うことが推奨されてる」
ガソリンとか石炭とかも、環境への影響とかあるわけだし、エネルギー利用って何かしらギブアンドテイクが発生するものなのかもしれない。その点、機械を使う人間のエネルギーを使う分だけ消費して、環境負荷がゼロなのであれば、石炭やガソリンなどに比べたら、理にかなっているような気がした。
「面白いね。もっともっと、この国のことを知ってみたいな。街で働くのも楽しみ。私、パン屋さんって、一度やってみたかった仕事の一つなんだよね」
シンと話すうちに、少し緊張がほぐれたのか、前向きな言葉が自然とこぼれた。まるで親や兄弟と話すかのように、するすると言葉が出てきている。今日の私は饒舌だ。
「そう思えてきたなら、よかったな。世界は、お前が過ごしてきた世界だけじゃねえ。前の世界で上手くいかなかったからって、お前がどこに行ってもダメな奴ってわけじゃねえんだ。今の前向きな気持ちのまま、素直な心のまま一生懸命目の前の仕事にぶつかっていけば、きっとうまくいくさ」
「……そうだね」
塩の匂いを含んだ、柔らかな南風を受けながら、私の不安と期待を乗せてトルシェは進んでいった。