少しずつ綻ぶ結び目
衝撃の出来事の連続で、なかなか寝付けなかった私は、太陽の高さを見るに、どうやら昼前まで寝てしまったらしい。
寝入るのが遅かったのでスッキリとは言えないが、疲れは取れたような気がする。シンが今日は住み込みの仕事口を探してくれると言っていた。いつまでもくさくさしてはいられない。物事は前へ前へと動き始めているのだ。フワフワした気持ちを入れ替えるために、両手で頬をたたいた。
「頑張れ私! 今日から生まれ変わるんだから」
着替え終わる頃には、太陽が真上から燦々と大地を照らしていた。この時間になっても誰も上がってこないところをみると、気を遣ってくれているのかもしれない。 急いで一階の居間へと続く階段を降りていった。
「おはようございます」
そっと居間の様子をのぞきこむ。窓際の、月桂樹の飾り模様の入ったロッキングチェアに、エルメがいた。一仕事終えたあとなのか、少し気だるそうな様子にも見える。
「おそようさん。よく眠れたか?」
気だるそうな顔だけこちらに向け、ゆったりとした様子で立派な髭を蓄えた老人は言った。
「あ、はい……。おかげさまで……。」
ちらりと、座布団のような敷物にどっかりと座る、シンのほうへ目をやる。こちらもひと仕事終えてきたのか、昨日のような着古した衣服ではなく、外出着らしきこぎれいな服を着ていた。
いくら疲れていたとはいえ、ひとりだけこんな時間までごゆっくりしていたのが、ちょっと気まずい。申しわけなさそうに佇む私の様子を気遣ってくれてか、エルメが声をかけてくれた。
「まァ、昨日の今日だもんなァ。無理もねえ。とりあえず今日はゆっくりしとけ。シンがこれから住み込み先と話しつけてくる予定だからよ」
(そっか、それで外出着なのか。いくらなんでも、私だけ家でゆっくりしてるなんて、できないし。せめて一宿一飯の恩は返さなきゃ……)
「あの……なんでもいいので、手伝わせてください。この国のこと、何もわからないので……足手まといになっちゃうかもしれませんが……」
「桟橋で会ったときは、ネガティブが人の形して歩いてるみたいな感じだったのに、随分前向きになってきたじゃねえか」
ちゃちゃを入れてきたのはシンだ。こういうふうにからかわれると、どういう反応したらいいのかわからないので困る。何も反応せずにその場で硬直していると、つまらなそうな顔をしてそっぽを向かれてしまった。
「だったらよ、わかめの乾燥作業でも手伝ってもらうかな。ひたすら干すだけの単調作業だけどよ。あともうちょっとしたら出発するつもりだから、さっさと昼飯を食べちまえよ」
気づくと、いつの間にか席を立っていたシンが、握り飯と簡単な惣菜を皿に盛ったもの、そしてお茶を私の前に出してくれた。どうやら、そっぽを向いたのではなく、私の分の食事をとりにいくために立ってくれたらしかった。
(ついつい悲観的に考える癖をなんとかしないとな……親切にしてくれる人たちに対しても失礼だよね)
握り飯は、白米に塩を降って握ったシンプルなものだったが、塩の味が濃くておいしい。聞けば、シンの家で使われている塩は、自分たちで海水から作っているそうだ。日々生きていくために必要なものを、自分たちで手作りするっていうのも、「生きている」という感じがして素敵だなと思った。
太陽が真上からやや西に傾いた頃、シンは街へ、私とエルメは午前中に下処理までを終えたわかめを干しに、砂浜へ降りていった。
「それで……お嬢ちゃんはどうして死ぬほど追い詰められてたんだ?」
こちらに視線を向けず、わかめを干すついでに聞くような感じで、エルメに尋ねられた。
「ああ……実は自殺しようとしていたわけではなくて……まあ、すごーく落ち込んで、もうこんな人生やだなあーとは思っていたんですけどね」
エルメは眉毛をハの字にして、困ったような顔をこちらに向けた。
「……あいつの早とちりか。しょうがねえやつだな。シンは勢いだけで生きてるみたいなところがあるからよ」
「あ……まあ勘違いではあったんですけど……。でも連れてきてもらって、よかったです。自分では絶対踏み切れなかっただろうし……。ずっとあっちの世界でくすぶったままだったと思うので。新しい世界で、心機一転頑張ってみようって、思えたので」
「そうか……」
「私、ものすごいあがり症なんです。人前で話す機会が多い仕事なんですけど、緊張しちゃって赤面したり、どもっちゃってうまく話せなかったりして……それでよく失敗してしまうんです」
寂しげな顔を一瞬したのは、暗い顔をして仕事の話をする私の様子が、亡くなった息子さんを思い出させたからなのだろうか。エルメは、エメラルドグリーンの海辺を見ながら、自分に言い聞かせるように話した。
「……真面目なやつほどよ、生きにくい世の中だよな。お嬢ちゃんも、そんなに思い詰めるなよ。苦しくなったら、少し離れて周りを見てみることも大事だ。ゆったり構えて、自分を見失わないようにすれば、きっと大丈夫さ」
私を気遣うような眼差しを一瞬向けてくれたあと、エルメは再び黙々とわかめを干し始める。私もエルメの作業をひたすら手伝い、今はお手本通りに作業を終えることに集中した。
悩み続けて凝り固まった頭には、この単純作業の繰り返しが、なんだかとても心地よかった。がむしゃらに走り続けて、こんがらがってしまった心の結び目が、少しだけ緩むのを感じる。
わかめを干す作業が完了し、あと片付けを終えると、エルメが「おやつでもいただきに行くかな」と言って、私を商店のある方へ連れ出した。
「息子がまだ小さかった頃はよ、こうやって二人でおやつを食べにいったんだ。嫁さんには内緒でよ。あとでバレて、夕飯前におやつなんか食べさせるもんじゃないって、ようくどやされたなあ」
この老人は大きく表情を変えることが少なく、淡々と話し続けることが多いのだが、息子さんの小さい時の話をするときだけ、顔がほころんでいるように見える。楽しかった時代の思い出なのだろう。
エルメに案内されたのは、「商店街」と呼ぶには店が少なすぎるが、広場を囲んで五・六軒の商店が寄せ集まったような場所だった。
そのうちの一角にある屋台の店員にエルメは声をかけた。店員は気のいい感じの男性で、堀が深くてくっきりとした眉をしている。私たちの世界で言えば、中東系の容姿に近いだろうか。何を売っているのかと覗き込むと、短いチュロスのようなものが山のように盛られていた。
「これは……なんでしょうか」
「お嬢ちゃん、見かけない顔だねえ。ほれ、一口味見でやるよ。食べてみな」
男性は、トングで掴んだそのお菓子らしきものを、ひとつ私の手にのせてくれた。かじってみると表面はサクサクしており、噛むとじゅわっと蜂蜜のような甘みが口の中に広がる。シロップ漬けにしてあるらしく、表面とは反対に中はしっとりしていた。
「……甘くて、おいしいです」
ボソボソとではあるが、せっかく味見をさせてくれたので、なんとか感想を絞り出した。日本にいるときだったら、たぶん軽い会釈と愛想笑いで済ませて、話しかけられても適当に相槌を打って、さっさと買って立ち去っていただろう。
「息子はこれが好きでな。『トゥルンバ』っつう、屋台や店先で売ってるこのへんでは定番のおやつなのさ。小麦粉をねった生地を揚げて、最後にシロップにつけるんだ。できたてが一番うめえ。旦那、ふた袋つつんでくれるか。もうひとりでっけえ子どもがいるんでな」
「あいよ!」
「でっけえ子ども」、という表現がぴったりハマって、ふいににやけてしまった。体は大きいのだが、豪快で思うままに振舞うシンは、たしかに生意気な少年のような印象をあたえる。初見は怖かったが、「でっかい子ども」と捉えれば、ちょっぴり親しみが湧く気もする。
店先の広場でトゥルンバを食し、夕食用に惣菜などを商店で買ったあと、私たちは帰路についた。……帰りながら、途中からずっと気になっていたことを、エルメに尋ねてみた。
「あの……道中も、広場にいたときも、すんごい見られていた気がしたんですけど……。私、そんなに異質なんでしょうか、ここで……」
町中を歩いている間、すれ違う人々にものすごく見られた。特に男性は露骨に、頭の先から足の先までじっと見てくる人もいる。人の視線を敏感に感じ取ってしまう自分としては、その視線が何なのか気になって、正直途中からエルメの話が頭にはいってこなかったのだ。
「あぁ……すまねえな。ちいせえ町だからよ。町の人間はみんな顔見知りなわけよ。ご婦人方は、お嬢ちゃんがどこから来た人間なのか、気になったんだろ。今頃井戸端会議の話の格好のネタになっているだろうよ。……男どもはまあ……この辺は若い女がほぼいねえから。嫁候補の標的にでもされてたのかもなァ」
(あの居心地の悪い視線は、そういう意味だったのか…)
とりあえず、嫌な意味での視線を向けられていたわけではないことがわかり、少しホッとした。来て早々、「よそ者は出ていけ!」なんてプラカードを掲げられて追い出し工作をされた日には、立ち直れそうもない。母屋の前に到着し、扉を開くと、奥からシンが出てきた。
「おう、遅かったなジジイ。……お、トゥルンバってことは、マーケットまで行ってたのか」
シンはこちらにもちらっと視線を向け、日に焼けた満面の笑みで「おつかれさん」と声をかけてくれた。
「もう六時回ってるし、さっさと夕飯作って食っちまおうぜ」
そうシンに促されて、私たちは早速食事の準備に取り掛かった。
夕食後、「明日も早いから」と言い、エルメは早々に部屋に引き上げていった。シンと二人きりにされるのは気まずすぎるので、私もすぐに部屋に行こうとしたのだが、「晩酌に付き合え」というシンに、首根っこをつかまれて捕獲された。「支度をするから座っとけ」と、座布団に座らせられてしまったが、この豪快な男との共通話題がまったく考えつかない。
気づけば正座をし、膝の上で両手を結んだまま、眉間にしわを寄せる自分がいた。
「……おまえは……。これから裁判にでもかけられるかのような表情だな」
「すみません……」
とりあえず謝ってしまうのは、自分の悪い癖だと思う。しかし残念ながら、それ以上に気の利いた返答が思いつかない。
「しょうがねえな。とりあえず飲め。飲んだらその、ガチガチにこわばった顔も多少ほぐれんだろ」
シンが差し出してくれたのは、無色透明のお酒で、切子のような装飾が入った赤いガラス瓶の中に入っている。同じような装飾の入ったお猪口のようなガラスの器に、二人分のお酒を注ぐ。アテは白身魚を干したようなものと、佃煮らしきものだ。
(日本酒みたいなものかな……? あんまり得意じゃないけど、せっかくだから頂こう)
口に運んでみると、ふわっと果実のような香りが薫った。やはり系統としては日本酒に近いが、癖がなく、甘口で飲みやすい。ただ、のどごしがピリッとして、体が熱くなるような感覚があるということは、結構度数が高いのだろう。
「……おいしい。これならいくらでも飲めそう」
「うめえだろ。街に出たついでにな、癖の少ない、ちょっといい酒を調達してきたんだよ。ジジイは下戸だから、普段は一人で飲んでるんだけどよ。久々に誰かと酒がのめるかなと思って」
そう言ってお酒を呷った後、なにかに気づいたような顔をして、シンは真顔になった。
「あれ……お前、酒、飲めるよな? あ、無理すんなよ! これ結構強えやつだから。よく考えたら、ちえが酒を飲めるか確認してなかった!」
わざわざおもてなしをしてくれる気遣いは嬉しかったが、確認を怠ったと焦るシンがあまりにおかしくて、クスクスと笑いが漏れた。エルメが、「あいつは勢いで生きてる」と言っていたのは、こういうところから来ているのだろう。
「あはは……大丈夫、大丈夫。結構いける口だから。ありがたくいただきます。もう一杯もらってもいい?」
「お……おう! いくらでも飲め! ただ、無理なときは無理って言えよ。変に気を回して嫌なのにうまいとか、まだ飲めるって言うんじゃねえぞ」
不器用だが、優しい彼の言葉や態度に、「イケメンだから」「男だから」「言葉がきついから」というだけで、フィルターをかけて彼を見てしまったことを申しわけなく思った。苦手なタイプだと決めつける前に、きちんと目の前にいる人物を知る努力を今後はしていかなければ。
「ああ、あとよ。住み込みで働く先、決めてきたからな。もう遅えし、詳しくは明日説明するからな。午前中には出るから、そろそろ寝るぞ」
無口な私のために、ひたすらくだらない話をし続けてくれていたシンだったが、話しながら結構飲んでいた気がする。よろよろと立ち上がり、若干フラフラしながらも、部屋まで引率してくれるようだ。
「今日はちょっと冷えるかもしれねえから。もし寒ければ、これも上からかけとけよ」
隣にある自分の部屋から、シンは私が借りた上着と同じような、赤やピンクや青といった、カラフルな民族模様の毛糸の上掛けを手渡してくれた。
「ありがとう……。まさか、ここまで良くしてもらえると思わなかった……」
普段は人の目を真っ直ぐ見てお礼を言うのが苦手なのだが、彼の人柄を知った今、自然に目を合わせて感謝を口にすることができた。
「お前は俺をなんだと思ってんだよ! こんなに優しい色男に向かって……」
すねたような顔をするシンを見て、ブッ、と吹き出した。
「自分で色男って、普通言う? だって、はじめは怖かったんだもん。怒鳴るし」
他人に向けての笑顔は、ほとんどが作り笑顔だったが。今は自然と頬が綻んで、心から笑えた。本当に、この男といると調子が狂う。くすくすと笑っていると、目の前に大きなごつごつとした手がにゅっと伸びてきて、私の頭をぽんぽん、と優しくなでた。
「はじめは大変かもしれねえけど、頑張れよ。じゃ」
頭にのせられた手が、私の顔のラインをなぞるようにして、頬に下りてきた。大きな手のひらで、私の頬に優しく触れた後。初めて見せる、少し憂いを帯びた優しい笑みを残して、彼は自分の部屋に戻っていった。
――今までとは違う、自分に初めて向けられたシンの暖かい笑顔に、気持ちが高揚する。男性に頭をポンポンされたのも初めてで、恋愛経験値の少ない私のキャパシティは、臨界点をとっくに超えて。しばらく呆然と立ち尽くしていた。