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海辺の老人

 

 船から下を見下ろすと、故郷のコンクリート製の桟橋とは異なり、陸から海に向かって木製の赤い桟橋がのびていた。砂浜は真っ白く、エメラルドブルーの海は日の光を受けて宝石のように輝いている。浜の近くだけ海面が緑色になっているので、おそらくあの辺りは海藻が生えているのだろう。


「いつまでぼぉっとしてんだよ。ほれ、手え貸してやるからさっさと降りろよ」


「あ、はい」


 シンが渡したはしごを使って陸へ下りるのだが、船と桟橋の合間が結構開いているので、また海に落ちやしないかとひやひやした。もたもたしていたら、どでかい両の手で子どもを抱き上げるように持ち上げられ、桟橋に降ろされる。再び驚いて身をすくめたが、つかまれた衝撃よりも何よりも、今は目の前の異世界の風景への関心が勝っていた。


 シンの先導に従い、桟橋から砂浜のほうへ向かっていく。近づいてきてわかったが、砂浜にはごみひとつ落ちていない。砂の白は間近で見たほうが鮮やかで、いつだかテレビで見た、南国のリゾート地の風景を思い起こさせた。


 うっかり風景に見とれていて、シンとの距離がだいぶ開いてしまっていたようだ。すこし離れた先で、シンが手招きしている。うなずいて小走りで駆け寄ると、彼は右手に見えていた、ほったて小屋に私を案内した。


「ジジイ、帰ったぜ」


 ほったて小屋の前に置かれた椅子に腰掛け、キセルのようなもので煙を蒸していた老人にシンは声をかけた。


 老人の目の前には、金属の物干し竿が大量に立っていて、それぞれの竿にたくさんのワカメらしき海藻が干されている。私の故郷でも見慣れた風景だ。ここでもワカメが食材として食べられているのだろうか。


「おう、帰ったか」


 シンに声をかけられた老人は、キセルの中身を足元に捨て、つっかけサンダルのような履物を履いた足で、それをグリグリと踏み潰した。見た感じ、六十代か七十代くらいだろうか。


「うしろの兄ちゃんは誰だ? なんとまぁ、長い髪をした男だな。まるで神官様だ」


 老人は片眉をあげて、珍しいものを見るように私の顔を覗き込んだ。


「お前さん、名前は。ちなみにオレはこの港で、観光船と海産物で飯を食ってる、エルメってもんだ」


 私はエルメに向かって、地面を見つめながら、極力声のボリュームを上げて答えた。


「黒瀬ちえと申します……。あの……私……」


 いきなりやってきた自己紹介の機会に、自分のことをなんと説明すべきかわからず、なかなか言葉がでてこない。もごもごしている私を見かねて、シンが言った。


「ジジイ、こいつは男じゃねえ、女だ。港で溺れてるのを拾ってきた。……あっちの世界のやつだ。ここで生きる場所を見つけてぇって言うんで、世話してやろうかと思ってな。とりあえず、今日一日だけ、俺の隣の部屋使って良いか?」


 シンの話を聞いて、何か察したのか、じっとシンの顔を見つめたエルメは、「そうか」と言って、私に向き直った。


「嬢ちゃん、悪かったな。男モンの服を着てたもんで……。一日でも一週間でも、部屋は好きに使ってくれ……っておい、これオレの服じゃねえか! おいシン、女もんなら観光船に踊り子用のやつが積んであっただろうが!」


 そう言われて、「あー」と、今気づいたような顔でシンが言った。エルメのパンツまで履いてしまったことは、黙っておこうと思った。

 


 身体が冷えているだろうからと言って、エルメは早々に風呂を沸かしてくれた。


 街のほうの住宅にはちゃんとした風呂がついているらしいが、シンとエルメが住む海沿いの家にはついておらず、海辺のほったて小屋の中に作られたドラム缶風呂しかなかった。それでも海水に頭から浸かってしまった体は、やはり冷え切っていたので、お風呂に入れるのはありがたい。


(このあたりは、このドラム缶しかり、私の地元で見かけるようなものが多いなぁ。光の航路から流れついてくるのかも)


 風呂に浸かりながら、海辺のさざなみの音を聞いた。海辺にある、木造の私の実家でも、皆が寝静まる時間になると、波の音がかすかに聞こえた。


 子どもの頃から聞き慣れたこの音は、私の疲れた心を癒してくれる。寄せては引く波の音を聞きながら、じんわりと体があたたまり、こわばった体がほぐれていくのを感じた。


(勢いで来ちゃったけど、私、ほんとに変われるのかな……)


 一度決断しても、グズグズと悩み続けるのは私の悪い癖だ。こうやってぐるぐる考えて「やらなくていい理由」を探している。結局、変わらないほうが楽だから。


「……そろそろ出るか」


 考え事を長々していて、思いがけず長い時間風呂に使っていたようで、すこしのぼせてしまった。


 ドラム缶から上がり、フワフワする頭をおさえたまま、ほったて小屋の壁に―― おそらくシンによって――無造作に、かつ乱雑にかけられた、ガウンのような着物と、カラフルな民族柄をしたウールの上着を羽織る。

 

 外で待ってくれていたシンに連れられて、丘を上がったところにある母家(おもや)に歩いていった。横に長い木造の母屋には、たくさんの部屋があるようだった。赤土色の塗料で塗装された建物は、やはり日本とはどこか違う、異国の雰囲気を醸し出している。


「民宿みたい……」


 部屋数の多さから、その表現がしっくり来ると思った。


「昔宿だったとこを改装したんだ。部屋はたくさんあるんだが、ほとんどの部屋が物置になってるな……。お前は二階の客間を使え。隣が俺の部屋だから、何か必要なものがあれば俺に言ってくれればいい」


 引き戸になっている玄関の扉を開けて中に入ると、木戸が開く音がして、奥からエルメが出てきた。


「風呂は気持ちよかったか? メシができてるから、こっちへおいで」


 部屋の中に入ると、そこにはいかにも海の男の手料理という感じの、海鮮丼と味噌汁が用意されていた。


 海鮮丼にはぶつ切りのマグロのような赤身の魚がたっぷり使われていて、脂が乗っているのか上品に照っている。味噌汁はおそらくわかめの味噌汁で、素朴ながらも鼻をくすぐる磯の香りが食欲を誘った。緊張からか全く空腹を感じていなかったが、美味しそうなご飯を見たとたんに腹の虫が鳴る。


「おかわりもあるからな。汚ねえとこでわりぃが、我慢してくれ。ちょっとの間だと思ってよ」


 エルメは穏やかな笑みを私に向け、座布団のほうへ促してくれた。


「ありがとうございます……」


 私は差し出されたふかふかの座布団に座った。日本でよく目にするものに比べると、もっとたくさん綿が詰まっていて少し高さがある。


「連れてきておいてあれなんだが、うちはあんまり裕福じゃねえし、女が生活するには不便なところだ。ちょうど住み込みの仕事の当てがあるから、明日話をつけてくる」


 シンが向かいに座りながら説明した。

 いただきます、と両手を合わせ、目の前に置かれた味噌汁をいただく。わかめの味噌汁は、疲れた胃に優しく、塩気もちょうど良かった。失われていた食欲が戻ってくるのを感じる。


(なんだかひとりで民宿に骨休めに来たみたいだな……)


 私の食べる様子を満足そうに見ていたエルメが、単調ながら、気遣わしげな口調で言った。


「以前住んでた国で何があったかは知らねえが――。嬢ちゃんはまだ若えから。生まれ変わったつもりでなんでもやってみるが良い。ここは幸い、いろんな国から人やものが流れてくる。人種による差別もねえし、気のいいやつが多い。嬢ちゃんが頑張った分だけ可能性が広がる。……とにかくなんでもいいから、やってみることだ」


 そう言うと、少し俯いてなにやら考え込んだ後、エルメは「オレぁ寝る」と言って、廊下に出ていった。エルメが部屋の戸を閉めた音を確認したところで、シンが口を開いた。


「――ジジイはよ、ネトピリカの外の国の出身なんだが。息子を一人亡くしてんだ」


「え……」


「エリートだったらしいんだがな、仕事で濡れ衣着せられたらしくて。……自殺だったらしい。それ以来、たまーに、お前みたいに死んだような目つきをした奴を拾ってきてよ。落ち着くまで、面倒をみることがあるんだ。ま、女は初めてだし、俺が連れてきたのも初めてだけどな」


 淡々としていたが、どこか祈るように、私に対して重ねられたエルメの言葉を反芻した。


 ――死んだら意味がねえ。世界は一つじゃねえ。土が合わなけりゃ、他の場所で咲けばいいんだ――


 そう、言っていたような気がした。


(……場所が変われば、新しいチャンスも可能性もあるかもしれない……よね。せっかく思いきってやってきたんだから、ポジティブに考えてみよう)


 私は、エルメが作ってくれたご飯を、噛み締めるように、全てたいらげた。

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