あちらとこちらをつなぐ場所
おそるおそる、ゆっくりと目を開いた。あの時海の中で見たと同じ、キラキラとした光が吹き出している方向へ向かって、船は前進を続けていた。
「今は安定しているが、まだ手を離すなよ。浮上する時が一番危ねえから」
シンは真面目な顔で、言い聞かせるように言った。お腹のあたりに回した両腕から、シンの体温が伝わってくる。ぱっと見はそんなに筋肉質に見えなかったが、服の上からでも厚い腹筋が感じられた。
(これは……二十七歳処女には……刺激が強すぎる……)
自分に自信のない私は、まともに恋愛したことがなかった。自分が好きになることで、相手に嫌悪感を示されるのが怖くて、自分から引いてしまう癖があるのだ。結論、こんなふうに男性に抱きついたこともなく、高鳴る胸の鼓動をおさえるのに私は難儀していた。
「そらっ、浮上するぞ!」
凄まじい勢いで正面から降り注ぐ光の雨に、目が眩みそうになりながら、もう一度シンの胴体に巻きつけた腕に力を入れた。その瞬間――船は勢いよく船首から水面に突き出し、天にも届く勢いで水飛沫が上がった。
「ぷはっ、ハァ……ハァ」
知らぬ間に息を止めていたようで、自分の鼓動が、小動物のように早くなっていた。
(浮上の間、船は軋むし、マストも折れんばかりの勢いでしなるし、生きた心地がしなかった……)
船が海上で安定するのを確認すると、シンは船の設備の無事を確かめに行く。私はというと、あまりの出来事にその場にへたり込んでしまい、指一つ動かすのも厳しい状態で。自分で自分が情けない。
(落ち着け、落ち着け、まだ始まったばかりなんだから。とりあえず深呼吸をしよう……)
深い呼吸を繰り返し、鼓動の速度が少しずつ戻っていくのを確認しながら、ようやく視線を船の外へやった。
「うっ……うひぁぁ。なんだこれぇ……」
小さい声ではあったが、自分史上最大の感嘆から出た言葉だった。
――目の前に広がっていたのは――今乗っている船がアリンコに思えるほど、大きな島だった。それよりも何よりも驚いたのは、目の前の島には天に続く階段が繋がっており、その上にはタージマハルを彷彿とさせるような、白く美しいアラブふうの宮殿が浮いていたことだった。
海の中を旅する旅船の段階で、もう「異世界うんぬん」は現実味を持ってきたわけだが。目の前に浮かぶ大きな城を見て、もはや信じるしかないということを悟った。
「どこがこじんまりした国よ……確かに日本列島ほどは大きくはないけど」
船の無事を確認したシンが、こちらへ戻ってくるのが見えた。
「ちえ、大丈夫か? 港に向かうから、レールに連結しなきゃならねえ。もうちょっとそこで待っていてくれ」
船の航行の際に聞くようなワードには思えなかったので、普段の自分ならまず他人に質問なんかしないのだが――思わずシンに聞き返していた。
「レール? レールって、船に?」
「そうだ。光の航路はな、決まった場所にあるんだ。昔の人間が、行き来する際に航路を見失わないように、海底に港から光の航路までのレールを作ったんだな。俺はそれを利用させてもらってんだよ」
得意げな顔をしながら、シンは続ける。
「航路から出た直後に、錨を下ろして船が動かないようにしたあと。海底のレールに、強力な磁力を帯びた鎖を下ろすんだ。レールの支点に鎖が引っ付いたら、鎖の先端についてるフックを引っ掛ける。すると、レールが勝手に港まで船を引っ張ってくれるんだよ」
(だからマストをたたんだのか。海底から引っ張られて航行するなら、風に煽られたらまずいものね)
しかし、いったいどうやって海底の支点を見つけるのか。フックを引っ掛けると言っても相当難しそうだ。
「そんなこと……どうやって……」
ニヤリと笑ってシンは言った。
「それは企業秘密ってやつよ。誰でもあっちとこっちと、行き来できるようになっちゃ困るだろ。技術と特殊な機械がいるんだよ。俺とジジイだけの、独占権だ」
なるほど。たしかに広く活用されている航路なら、もっと行き来があるはずだ。そうだとしたら、幻の国なんて言われるはずがない。
「まぁ、光の航路以外にも、どうやって流れ着いたのか、あっちの世界からやってくる人間はいるみたいだけどな。ただそっちは、やってきた本人たちも含めて、誰も出入口を知らねえんだ」
頭の上にハテナが浮かんだ。
「え……やってきた本人たちも?」
前方に広がる不可思議な景色を美しい切れ長の目で見つめながら、シンは答えた。
「ああ。どこからこちら側へ来たのか、覚えていないらしい。まあそもそも、こちらへ来た人間も、そんなに多いわけじゃないんだが。……寒くなってきたな。港へ向かうから、お前はそこのベンチへ座っとけ」
私は言われるがまま、忙しく働くシンを横目にベンチに腰掛けた。船に揺られながら、心地よい風を受けて――緊張の糸が切れたのか、見知らぬ男の――しかも異世界の船の上で、眠りに落ちてしまった。
⌘
「おいちえ! 起きろ、港に着いたぞ!」
シンの大きな声が、実家で穏やかに食卓を囲む夢を見ていた、私を現実に引き戻した。
「わぁっ」
目を開いて驚いた。シンの透き通った瞳が、目と鼻の先にあったのだ。あまりに驚いて、腰掛けていたベンチからずり落ち、尻餅をついてしまった。
「ぐっすり寝やがって。意外と神経図太いやつだな、お前」
「やっ、ちょッ、なんですか! パーソナルスペースが狭いタイプなんですかあなたは! 近づきすぎでひょ!」
驚いたのと恥ずかしかったので、思わず大声が出てしまった。男性の顔を、こんなに間近で見たのは初めてで。
しかも寝起きということもあり、当社比二倍の衝撃だった。おまけに最後のほうは噛んでしまった。最悪だ。真っ赤になりながら、困った顔をしたり、なんとか平常心の顔に戻そうとしたりと百面相をしていたら、シンが吹き出した。
「ぶわはははは。お前、純情すぎるだろ、いくつだよ!」
大笑いされて、あっけにとれていたが、いくつだよ、のひと言にムッとしてしまった。
「だって……しょうがないじゃない! この歳まで男性とはご縁がなかったんだから! びっくりしちゃうのよ! そんな綺麗な顔が、起き抜けに目の前にあったら! 純情で、わるかったわね!!」
言った。言ってやった。最高に落ち込んでいる状態から、海に転落して、よくわからない男に拾われて。おまけによくわからない世界に――自分で納得してだが――飛び込んできてしまった。混乱の最たるところにある状態で、途端に馬鹿にされたので、私も気が立っていた。
この男と過ごしてまだ三時間もたっていないはずだが、私はここ二十七年間で一番の大声を出している気がする。そしてここまで感情をむき出しにして怒ったのも初めてだ。しかもこんな些細なことで。
ある意味、シンは、私から大声を引き出す天才なのかもしれない。大笑いしていたシンが、私に怒鳴られた瞬間だけ、一瞬笑いを止めたが、また笑いながら応えた。
「ははっ。お前、ちゃんと感情を表に出せるんじゃねえか。もじもじして、相手の顔色伺ってビクビクしているくらいなら、そうやって相手に自分の気持ちをぶつけてみろ。そのほうがずっと人間関係うまくいくぜ。それに自分の気持ちをストレートに表現した方が、相手も心を開いてくれるぞ」
――シンの何気ない言葉に、ハッとさせられた。
自分の今までの行動を振り返る。どう振舞えば相手が自分を気に入ってくれるか、嫌な印象を受けないかばかりを気にして、上手に会話をすることばかり考えていた。
だから、うまくできているかばかりが気になって、できない自分を恥じてしまう。うだうだ考えているうちに赤面して、逆に不審に思われるくらいなら。自分の気持ちや思いをストレートにぶつけた方が、彼の言うとおり、もっとちゃんと相手と腹を割って話せるのかもしれない。
一瞬、光が差したような気持ちになったが。自分が越えねばならないハードルの高さを認識したことで、またうしろ向きな気持ちが頭をもたげる。
(そうは言っても、それを実践するのが難しいんだけどね)
しゅんとして急に押し黙ってしまった私を見て、シンはようやく笑うのをやめた。
「それにさ」
今度は、意地悪な笑みを浮かべてこう言った。
「俺は、今みたいなお前のが好きだぜ」
「な……っ」
せっかく冷静になって普段の体温を取り戻していた頬が、一瞬でまた熱を帯びた。その様子を見て、またシンは吹き出した。
(……こいつ、絶対狙ってやってる!)
我を忘れて、ムキになってキーキー怒る私を、華麗にいなしながら、シンは下船の準備を始めた。




