嫉妬
広間を辞し、廊下に出た瞬間、冷や汗がどっと出てその場に崩れ落ちた。――なんとか首はつながった――まだ、始まってもいないが。周りにいた書記官たちがその場に座り込んでしまった私にぎょっとして、そのうちの一人が腕を持って立たせてくれた。
しかし、完全に気が抜けてしまったのか、どうやら腰を抜かしてしまったようで、一人では立てなかった。
「お前ほんと、災難だったなあ……。この時期に、こんな大役を無茶振りされて……。しかも異世界から来たんだろ? 右も左もわからない上に……」
「エドワードに捕まったのが運の尽きだったな。あいつは、出世のためには手段を選ばない鬼畜野郎だからな。あいつと仲いいやつ、俺、見たことねえもん」
エドワードの出世欲と性格の悪さは筋金入らしい。その場にいる誰も彼をよ良く言う人間はいなかった。
「しんどそうだし、俺、部屋まで連れていきますよ」
腕を支えてくれていた書記官がそう申し出てくれ、私を背負って西棟まで送ってくれることになった。見知らぬ男性の背におんぶされることは気恥ずかしかったが、それ以外自室に帰る方法はない。恥を忍んで、運んでもらうことにした。
私の緊張を察してか、大柄な書記官の彼は他愛ない世間話を私に振ってくれている。人見知りなので大した話はできないが、なんとか穏やかに会話のラリーを続けていたのだが。見覚えのない場所にやってきているのに気づき、私を背負う男に向かって、疑問を口にした。
「……あのう、なんか、私の部屋のあたりとは、なんだか様子が違うような……ていうか、これ、城の外ですよね……?」
気づくと私は、王城の裏門に連れて来られていた。どう考えても西棟に行くのに、こんな通路は通らなかったはずだ。
「あれ? 気づいちゃった?」
そう言うと男は、裏門の外にある馬小屋の方角へ足早に向かっていく。
「ちょっと! 下ろしてください!」
身の危険を感じ、なんとか逃げようとバタバタするが、この体格の良い男にとっては屁でもないようだった。足は両腕でがっちり固定されているし、足を固定されている以上、両手でどんなに男を叩こうとも意味はなかった。馬小屋につくと、私は積まれた藁の上に、乱暴に放り投げられた。
「ウッ!」
男は素早く近づいてくると、私の両手を片手で掴み、動けなくした上で、私の上着に自分の手をかけ、思い切り引きちぎった。
「きゃあああ!」
男は馬乗りになり、ポケットから取り出したハンカチを、私の口に詰め込んだ。
「騒ぐんじゃない! 殺してやってもいいんだぜ。……女のくせに、ポッと出のやつが調子に乗りやがって。身の程を知れ!」
ねっとりと生暖かい男の舌が、首筋を這っていく。「やめて」という言葉にならない懇願も虚しく、ブラウスも無残に引きちぎられ、胸があらわになった。
(どうしよう、動けない)
涙がボロボロとこぼれ落ちた。もうだめだと諦めそうになった瞬間――急に男が気を失い、馬小屋の壁に向かって吹っ飛んだ。開放された両手で涙をぬぐいながら見上げたその先には――鬼の形相で息を切らしているエドワードが立っていた。
手に持っているかんぬきらしき木材を見るに、男の後頭部をそれで思い切り打った後、どうやら足で蹴飛ばしたらしい。
「まったく……気をつけてくださいよ。こんなことであなたが再起不能になったら、俺も困るんです。あなたは、俺の出世の道具なんですから」
エドワードは私の口に詰まっていたハンカチを取り除き、ポンポンと頭を撫でた。よくよく考えればこんな目に合わされたのも、もとはといえばこの人のせいなのだが、あまりの恐怖と、その恐怖から開放された安堵に、エドワードにしがみついて泣き崩れた。
「うわーん……怖かったよぉおお」
本当に、最後までやられなくてよかった。こんな場所で、誰だかよくわからない男の手で――。
「えーと、ちえ……ちえさん……。落ち着いて……そして、服、着ましょうか」
エドワードは私を引き剥がし、自分の上着を肩からかけてくれた。
「ちょっと……流石に……そんなもの押し付けられたら、俺でも抑えがききません……」
顔から耳まで真っ赤になっているエドワードのその言葉で、自分の服が引き裂かれていたことを思い出した。
「ぎゃあ! す、すいません」
「……とりあえず行きましょう。この不届き者のことは、俺から陛下へ通報しておきます」
全身から力の抜けた体をエドワードに支えられながら、部屋に戻った。まだ体が震えている私を心配したのか、そのまましばらく、エドワードは部屋の中にいてくれた。
「アンに頼んでホットミルクを用意したので、少し飲んでください。温まりますよ」
洋服を着替え、先程よりは落ち着いているものの、未だ真っ青な顔で佇む私に、エドワードはホットミルクを手渡しながら、話を続けた。
「ちえ、男というのは嫉妬深い生き物です。あなたのような、まだ若い、しかもよそ者の女性が大役を任されたということで、さっきの男のように嫉妬に狂う人間もいるんです。
この国では男女平等を歌っていますが、書記官に女性がなることはあまりありませんし、ましてや皇帝の側付きに抜擢される女性なんて皆無です。なるべく俺と行動を共にしてください。……今日のような暴力や嫌がらせが、再び起こらないという保証はありません」
震える手を見つめながら、そのまま押し黙っていた。――また、さっきのようなことが起こるかもしれない――その言葉が恐ろしくて、今は何も考えられない。
「皇帝陛下はあんなふうにおっしゃっていましたが、結局は成果がすべてです。あなたの勝負はこれからです――負けないで。これまであなたがやってきたことを思いだして。俺はあなたを利用しましたが、それはあなたが、皇帝陛下の側付きになれるくらいの実力を持っていると思ったからです。
こんな――卑怯な、人を虐げることでしか優越感を得られない、仕事もできないクソみたいな人間の手で、こんなところで終わらないで」
氷のように冷え切った手を、エドワードは自分の両手で包み込んだ。
「そんなこと、言われても……。今は、怖くて……どうしたらいいかわからないです……」
「……そうですよね」
気遣しげな眼差しをこちらに向け、一瞬ためらったあと、うつむきがちにエドワードは言葉を続けた。
「――では、寝物語に、少し昔話をいたしましょう」




