誘い
「ジロジロ見てんじゃねーよ。ぶっ飛ばすぞ」
(そんなこと言われましても。こんな状況になって、見たことない船に、見たことないファッションの大男が現れたら見るでしょ普通)
茶色がかった短い髪の男の頭には、スカーフのような布が巻かれている。服装はといえば、中東の民族衣装のような、綿素材のカットソーに鮮やかな刺繍の入った紫色のベストを羽織っており、裾の膨れたズボンを履いていた。
怒られてしまったので、しかたなく視線を伏せる。
「お前、名前は」
相変わらずぶっきらぼうに男は訊いた。
「……ちえ」
男の顔色を伺いながら、ぼそり、と答えた。
「あ?」
私の返答が気に入らなかったのか、男は眉をひそめた。
「あ……えっと。黒瀬、ちえ、です」
(そんな怖い顔しなくても。なんなのよ、もう。とりあえず、助けてくれたお礼はちゃんとして、とにかくこの船から降ろしてもらおう)
男の顔をちらりと見上げると、相変わらず眉間にしわを寄せて、今度はなにやら考えているようだ。数拍あいたのち、男は私のほうに向き直り、口を開いた。
「ちえ、お前、もし今この世界で死ぬほど辛いんだったら――」
(別に自殺しようとしたわけじゃないんだけどな。まあいいか、別に今後関わらなきゃいけない人というわけでもないし)
適当に会話をやり過ごそうと、とりあえず聞く姿勢をとったところで、男が放った次の言葉に度肝を抜いた。
「俺と来い」
「はぇ?」
(ちょっとまって。何を言いだしたのこの人。初めて会った男と駆け落ちしろってこと? いや、こいつの表情をどの角度から見ても、恋とか愛とかの発想からでた言葉ではないのは断言できる)
「えーと、あの、それは、どういった……」
私が言い切るのを待たずに、さも当然のように男は答えた。
「俺は異世界から来たんだけどな」
あまりのトンデモ発言に、現実逃避からか、近くにいたウミネコの群れへ視線が泳いでしまった。ウミネコの家族に気をやっていたことがバレたのか、男が怒鳴った。
「おい、聞いてんのか!」
「あ、はい、すいません、聞いています」
男はチッ、と舌打ちした。
(あー、もう、早く帰りたい……何でいちいち怒鳴るのよ)
怯えていることにようやく気付いたのか、短いため息をついた後、男はまた口を開いた。今度は多少穏やかな口調で。
「まあ……そうだな。頭おかしい奴だと思われても仕方がないか。でもな、本当にあるんだ。お前も見ただろ? 光が流れてくる進路を。あの先には、幻の国、ネトピリカがあるんだよ」
(え。何なのこの男、いい年こいて中二病なの? 異世界って。幻の国って)
はっきり言って戸惑いしかなかったが。とりあえず、疑わしい態度などしようものならまた怒鳴られそうなので、空気を読んでものすごく神妙な顔を作った。
「ネ、ネトピ……えっ、なんですか」
「ネ・ト・ピ・リ・カだ。日本――というかこの世界とは全く違う空間に存在する国だ。さまざまな民族が入り乱れて暮らしている。生活に使われているエネルギー源や技術、文化もこことは違う。こぢんまりとしていて、平和でいい国だと俺は思っている」
新手の人身売買目的の誘拐だろうか。怪しい、怪しすぎる。だが一方で、ネトピリカの話をする彼のまっすぐな眼差しが嘘をついているとも言い切れず、もう少し話を聞きたくなった。
「で、でもっ、なんで……あなたと一緒に……来いと」
一つ一つ、確かめるように言葉を並べた。
「お前、どうせこの世界でうまくいってないんだろ。何やってもダメなんだろ。だからこんな所で、入水自殺しようとしてたんだろ」
「ぐっ」
自殺をしようとしていたわけではないが、何もかもうまくいかずに落ち込んではいたので、この言葉はグサっときた。
「だったら一度、全部リセットして、新しい世界でがむしゃらに生きてみたいと思わないか。これまでの自分を誰も知らない、全く新しい場所で」
これまで男の話を、話半分で聞いていたのだが――その言葉を聞いて、ときめいてしまった。正直、怪しさはまだ拭えないのだが、最後の言葉が響いてしまったのだ。
きっと誰かが、そんな言葉を投げてくれることを待っていたのかもしれない。「もっと努力しろ」「自信を持て」「なんでできないんだ」――踏み切れない自分にイライラしながら、そんな言葉を他人からぶつけられ続けた。結果、この世界で否定されながら頑張り続けることに、疲れてしまった自分がいた。
「ネガティブで自信のないあがり症の私」を知らない世界で、もう一度一からチャレンジするチャンスがもらえるなら――。
「い……行きたい……です」
考えるよりも先に言葉が出ていたことに、自分でも驚いた。
「だからさ、もっとでかい声で言えよ」
イライラを抑えたような声で男が言う。
「い、行きたいです! 一緒に……連れていって下さい!」
疑いや、不安や、戸惑いがなくなったわけではない。だが、本心からの言葉だった。ちょっと裏返ってはしまったが、思い切り大きな声で叫んだ後は、目の前に横たわっていた重たい暗雲のようなものが晴れて、不思議と清々しい気持ちになった気がする。
ニヤッ、と男は笑った。
「よっしゃ、その意気だ。今のその勢い、忘れんなよ」
――おそらく、人生で五指にはいるであろう――いや、もしかしたら人生で一番、思い切った決断をしてしまったかもしれない。自分が発した言葉に、後悔半分、高揚感半分といった感じだったが、もうあと戻りはできない。
「へっ……ぷし」
思い切った決断をして気が抜けてしまったのか、途端に寒さが襲ってきた。
「おっと。いけねぇ、いけねぇ。お前、全身ずぶ濡れだったよな」
男は、船の後方のシェードのようなものが張られた屋根のあるあたりへ向けて走って行った。
「お前もこっち来た方が早いな。来い」
手招きされるがまま、ゴワゴワのタオルを肩から巻いて、ヨロヨロと立ち上がり、男のほうへ向かって歩いていく。
歩きながらキョロキョロとあたりを見渡したが、船室のようなものは無く、男がいるシェードのエリアが唯一屋根のある場所らしい。シェードの下には、大きなペルシャ絨毯のようなものがひかれ、壁沿いに造り付けのベンチが設置されている。航海用の船というよりは、観光船か、日帰りで漁をする漁船のようなものなのかもしれない。
「日本の人間からしたら珍しいだろうな。ほれ、好きなものをここから選べ」
キィ、と、男はベンチの座面を上に開いた。どうやらスツールのようになっているらしい。中には服が雑多に収納されている。この男の性格がよく現れた収納のされ方だった。
「言っとくけど、女ものはねえぞ。俺とジジイのしかねえからな。俺のじゃあサイズが合わねえだろうし、ジジイのから選べ。お前より、ちょっとだけデカいくらいだから」
ジジイの、という言葉が引っかかったが、確かに見る限り女ものらしき衣服は見当たらない。ぐちゃぐちゃに詰め込まれた衣類の中から、男が着ているのと同じような、白い綿のカットソーと、裾の膨らんだニッカポッカのようなズボン、若干色の褪せた藍色のベストを借りる。
服は、男が目隠し用のついたてを持ってきてくれたので、その裏で着替えた。下着も濡れていたので、胸はサラシのようなもの、パンツは泣く泣く「ジジイ」のパンツを借りる。
ついたての向こう側で着替えている間、こちらに背中を向けながら男がようやく名乗った。
「名前、言ってなかったな。俺はシン。この小さな観光船の船長だ」
(日本人の名前にも聞こえるし、他の国の名前にも聞こえるなあ)
「よ……よろしくお願いします」
おずおずとそう言うと、ニカッ、と男が笑った。初めて笑った顔を見たかもしれない。口は悪いが顔だけはいいので、笑顔の破壊力が凄い。
「呼び捨てでいいから。あと、敬語やめろ、たいして歳変わらねえし。たぶん」
確実に三十は超えていそうなのだが、数歳の違いは気にならないのかもしれない。
「あ……はい」
正直、顔のいい人間は苦手だ。優しくされたり、親切にされたりしても、どこかで自分のことを下に見ているのではないかと、卑屈な考えが頭をもたげてしまう。自分でも嫌になるが、ネガティブ思考は染み付いてしまうと、なかなか払拭できないものだ。あがり症も、ルックスのいい人間に対してのほうが、ひどくなる気がする。
お得意のうしろ向き思考をぐるぐるまわしているところに「ボンボンボンボン」という低音のエンジン音が耳に飛び込んできた。――知らぬ間に船が動いていたのだ。
「えっ……まさか今すぐ出発するの……?」
「勢いが大事っていうだろ!」
シンは無邪気な、いたずらっぽい顔をして笑った。ふいにそんな顔を向けられては、ドキドキして、なんだか居心地が悪くなってしまう。よくよく思い返せば、仕事以外で、こんなふうに男の人と会話を交わすこと自体がだいぶ久しぶりだった。
船のエンジン音を聞きながら、着替えがない、スマホの充電器がない、とか色々考えたが、異世界なんて、何が役立つのかわからない。服だって、向こうのものを纏っていた方が、余計なトラブルに巻き込まれないかもしれない。
(……下着の替えだけは欲しかったけど)
チラッと、ジジイのパンツに目をやった。
父と母になにも言わずに出ていったことが気がかりだったが、実家から、東京のアパートに戻る前に寄った桟橋での出来事だったので、ちょっとの間なら心配されないかもしれない。
捜索願とか出されないといいな、と思いながら、「そのうち戻れるから、たぶん」という、曖昧な男の言葉を信じて、今は考えないことにした。
「ちえ、見ろ! あれが光の航路の入り口だ。しっかり俺につかまってろよ!」
「俺に捕まれ」と言われて躊躇していると、グッ、と抱き寄せられた。
「死にたくないならつかんでろ! 吸い込まれるぞ!」
今までの私なら、恥じらいと色々な葛藤で、絶対こんなイケメンにいきなりしがみついたりはできなかったが、「死ぬ」と言われたら掴む他ない。人生を悲観してはいたが、死にたいわけではない。恥を忍んでガッツリ掴ませていただいた。
素人知識だが、船の操縦って、それなりに人数がいるものなのではないか、と思っていたのだが。
どうやらこの航路に限っては、入り口がブラックホールのようになっていて、航路に近づくと光の流れがシンの言う、「ネトピリカ」に流れ着くよう引っ張ってくれるようだった。
前を向くと、海で溺れた時に見た宝石のような光の粒が、海面に集まっている箇所が見えた。あそこがこの吸引力の中心のようだ。
船が光の塊の目の前まで来た瞬間、海面に向かって船首から海の底に向かって引っ張り込まれた。
(沈没する!)
海面への衝突を覚悟した瞬間。予想していたのとは違い、顔に触れたのは海水ではなく、暖かで心地よい、だが、力強い風だった。