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開店!

 テルメトスの開店時間は午前七時。収穫祭の期間は飲食店や観光業を除き、ほとんどの会社や公的機関が休みを取るので、通常時の平日と比べ、朝は比較的静かだ。広場の簡易劇場が十時からイベントを始めるため、九時前位を境目に人が増え始める。テルメトスも、八時半ばを過ぎた頃から混雑してきた。来店した常連客の何名かが、ビトレスク・タイムズを片手に、アルフレドに「記事、読んだよ!」と声をかけているのを見て、私は会心の笑みを浮かべた。


 その後も記事で紹介しているパンはどれかと聞かれることが何度もあり、究極のクロワッサンは開店から三時間で売り切れてしまった。記事の効果は上々だ。


「想像以上のはけ方ね! ちえ、焼こうと思えば焼けるけど、本当に今日はもう出さなくていいの?」


 アドラがこっそり聞いてきた。


「いえ、出さないでおきます。いつでも買える、って思うと、途端に需要は下がってしまいますから。限定数は変えないでいきましょう」


 いつになくはっきりものを言う私を見て、アドラは少々驚いたような顔をしたあと、フッと顔をほころばせた。


「ふふふ。ちえがそんなに力強く言うなら、きっと間違いはないのね」


 そう言われて、いつもとは違う自身の威勢の良さに気づき、自分でもおかしくなって、アドラと二人でくすくす笑った。うっかりアドラと和んでいたら、ちょっと目を話した隙に、会計の長い列ができていた。焦ってカウンターに戻る。


 と、ここで気づいた。シンとエドワードが撒いてくれているビラを持って来店してくる人たちが目を目に止まったのだが。予想通りそのほとんどは若い女性やマダムだったのだが、パンは買ってくれるものの、少々がっかりした様子が見て取れる。パンを袋に入れながら、思考をめぐらしていると、一つの考えに行き着いた。


「テトラさ、これ、もしかして……お店にもかっこいい人がいるかもっていう期待もあったのかな……」


 会計の合間に、視線は前を向いたまま、テトラに呼びかけた。


「……確かに、あたしがもしお客さんだったら、『イケメン店員がいたからお店に来たのにー! 店舗にはいないじゃーん!』て、超がっかりする」


「……なるほど。これは、昼前にエドワードかシン、どっちかに戻ってきてもらったほうがいいかもね……収穫祭のあとのこともあるから、あまり彼らを目当ての客を増やしたくはないんだけど。今日はとにかく新店舗にたくさんの人を呼び込みたいからね」


 その言葉を聞き、テトラは「あたしに任せて!」と思い切りウインクをし、昼の混雑が始まる前に、ダッシュでシンを呼びに行ってくれた。その後テトラに呼ばれて戻ってきたシンは、店舗が大盛況している様子を見て、「俺様のビラ配りの成果だな!」と満面の笑みを浮かべていた。



 昼前後は惣菜パンやサンドイッチを中心に売れ、順調に売上は伸びていった。改装前の客数の減少が嘘のようだ。シンが戻ってきてくれたことで、青いビラを持って来店するご婦人方のご機嫌もとれている。やっぱり戻ってきてもらってよかった。


究極のラスクは、朝のうちはあまり売れ行きが良くなかったものの、昼を過ぎた頃から売れ始め、店舗前のテントの列がどんどん伸びていった。


 だがここで問題が起きたのだ。


「お前いま、オレのこと抜かしただろ! 俺はここでもう十分以上も並んでんだ、ふざけるな!」


 列に並んでいた一人の客が、列に割り込んできた男の胸ぐらを掴んだ。


「はあ? 俺はちゃんと最後尾にならんだつもりだったけど」


「列が壁に沿って折れてんだよ。ちゃんと並べよ!」


 争う大声を聞きつけて、私は最後尾へ走った。十四時を過ぎたあたりから、小腹が好いてくるタイミングだからか、ラスクの列がぐんぐん伸び始めていた。レジに人員を割くことを優先した結果、最後尾の管理ができていなかったのだ。


「お客様、すみません、お待たせしております……あ、あの後から来た方はこちらに……」


 必死に仲裁しようとしたが、通りづらく小さな私の声は、二人の怒鳴り声にかき消されてしまっていた。


「キャッ!」


 どつきあいに発展していた男性客の肘が顔にクリーンヒットし、尻もちをついてしまった。痛む頬をさすりつつ、立ち上がらねばと前を見上げると――そこには大男の姿があった。


「お客様! 大変申しわけございません。コチラの誘導が行き届いておらず!……ただ……女の子突き飛ばしちゃぁいけねぇなあ」


 冒頭はかろうじて体裁を保つような声だったが、後半にかけて地獄の底から這うような声に変わった百八十センチ超えの大男の登場に、二人の男性客は完全に怯んでしまった。パキポキと指を鳴らす様子は、とても堅気の人間に見えない。ひと言で表現するなら、マジでキレちゃう五秒前という感じだ。


 シンの怒気をはらんだ誘導に従い、割って入った男性客は、最後尾に誘導された。ひとまず怒りを収めたシンが、尻もちをついたままのポーズの私に、手を貸してくれた。


「立てるか」


 握った手から、シンのぬくもりが伝わってきた。この間のキスの余韻が呼び戻され、たちまちに鼓動が早くなる。


「俺はこの列がもうちょい捌けるまで、ここで番しとくわ。明日はロープ張るなり、最後尾に看板持つやつが立つなり、人員の配置を考え直したほうがいいかもな。混んでくると、列が乱れがちになるから」


「そうだね。そうしたほうがいいかも。……それで……あの……」


 私は繋がれたままの手に目をやった。立ち上がったときからそのまま、シンが手を離してくれないのだ。


「手を離して……くれる……かな」


「あのさ」


 私の言葉に、シンは食い気味にかぶせてきた。さきほどの怒り顔とは打って変わって、真顔で、少し緊張したような面持ちで、しばらく口をつぐんだ後、シンが再度言葉を発した。


「最終日、ちょっと夜、遅くなっちまうんだが――時間、空けといてくんねぇかな」


 私は全身に緊張が走るのを感じた。シンは、つないでいた手にキュッと力をこめる。


「俺、お前に話したいことがあるんだ」


 緊張で自分の唇が震えている。シンは私に、何を伝えるつもりなのだろうか。好意? それともなにか別の重要な話? 握られた手から伝わる熱が、さらに頭を混乱させる。


「……うん。わかった」


 そう返事をすると、シンが、パッと手を離した。


「よかった。じゃ、俺はここに残るから。お前は店舗へ戻れ。あとでな」


 シンの声のほうにうなずきつつ、そのまま目を合わせずに彼に背を向けた。まるで知恵熱にでもなったかのように熱くなった体を、自分の両腕でキュッと押さえた。恋愛している社会人は、こんな熱を抱えたまま、平然と仕事をしているのだろうか。極度の人見知りから色恋には距離をおいていた自分に、突然にやってきた遅い春。嬉しいと同時に、どうしていいかわからない自分がもどかしい。


 自分の顔をパタパタと両手で仰ぎ、呼吸を整えてから、私は足早に店舗に戻った。


「只今戻りました」


 まだぼんやりとする頭を両手で抱えながら、気を取り直して顔を上げた先には。


「おかえりなさい。ビラ、全部配ってきましたよ」


 そこには――爽やかな笑顔のイケメンパン屋店員――いや、書記官のエドワードが立っていた。


(……しまったぁあ!)


 エドワードの顔を見た瞬間、最終日にダブルブッキングをしてしまったことに気づいたのだ。ロスタイムにゴールを決められた日本代表のような顔をした私を見て、エドワードは困惑の色を浮かべていた。


(うわあああ、どうしよう。用件が用件なだけに、どっちも断りづらい! どうする、私?)


 大混乱の心をごまかすように、エドワードに軽く会釈をして即会計カウンターに入り、長蛇の列が並んだ店舗内で、自分の失態を考えないようにしながら、ひたすら就業時間まで会計をし続けた。

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