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見知らぬ男と船

「またやっちゃった……。」


 底の見えないエメラルドグリーンの海面を見ながら、深いため息が漏れ出た。


 二十七歳、社会人五年目、広報代理店勤務。広「告」ではなく、広「報」代理店。数少ない友人には、しょっちゅう聞き間違えられているが、広報代理店は、広告代理店とは、まったく業務内容がぜんぜん違うのだ。


 クライアントから依頼を受けて企業の広報業務――具体的には、新聞社や雑誌社などとの取材を組んだり、記者会見の企画運営などを請け負ったりする会社が広報代理店だ。


「コミュニケーションのプロ集団」なんていう、気が重くなるような看板をかかげている今の広報代理店に勤めて、だいぶたった。だがしかし、どうにもこうにも仕事がうまくいかない。「あなたにはうちの会社の広報業務は任せられない」と、クライアントから担当変え要請を食らった回数は現在四回、いや、直近を含めると五回を数える。


「なんで、うまくいかないのかなぁ……」


 五回目の担当変えに、もはやメンタルはノックダウン寸前。都心の狭いワンルームで独り鬱々(うつうつ)としているのが嫌で、今週末は実家に帰ってきた。今日はもう帰らなければならないのだが。東京に戻るのが億劫で、近くの港に寄り道し、こうしてぼんやりと海を眺めている。


 五年目ともなると、コンサルティングチームのリーダーとして、クライアントの既存の広報活動へのアドバイスをすることだってある。それにもかかわらず私は、相手を目の前にすると顔が強ばり、頭が真っ白になってしまい、まともに話ができなくなってしまう――かなり程度のひどい「あがり症」なのだ。だいたい、業をにやした先輩が、しどろもどろになった私の言葉の後を引き取ってくれる。


「知識も経験も積んでいるのだから、もうちょっと自信持って喋りなさいよ。あんたの態度じゃ、まるで何もわからない新人が台本読んで喋っているみたいに聞こえるわよ」


慰めるような先輩の言葉が頭の中でこだまする。彼女いわく「分析力も企画力も申し分ない」らしいのだが。極端に低い対人スキルのせいで、全てが台無しになっていると、もはや耳がタコになるほど言い続けられている。


 おとといも、一週間かけて準備した渾身のプレゼンを、どもりまくって盛大に失敗してしまったのだ。企画書の内容は気に入ってもらえ、契約まで至ったのだが、担当チームから私だけはずされてしまった。上長は何も言わなかったが、おそらく「役不足」だと判断されたのだろう。


 私の暗澹(あんたん)たる気分とは裏腹に、目の前に広がる海原は昼下がりの太陽を浴びて、キラキラと輝いていた。


「私だって、努力してないわけじゃないのになあ……」


 自分がこうなってしまった原因をたどっていくと、その一因は母にある気がする。私の母親は、とても過保護な人だったのだ。


 一人っ子で病弱だった私を、母は常に気にかけてくれていた。心配してもらえるのはありがたいのだが、先々母が気を回すせいで、私が何か言う前に母がすべて話を進めてしまう。そのせいで、人前で誰かと話す機会が、ほとんど与えられない幼少期を過ごすことになった。


 中学にあがる頃には、さすがに母の干渉は少なくなった。ただこのときになって、自分が絶望的に「対人コミュニケーション能力がない」ことに気づいたのだ。どうしても空気が読めなくて、うまく会話の輪に入ることができない。


 おまけに話を振られて自分に注目が集まると、「うまく話をしなきゃ」という気持ちが強く出て、赤面してどもってしまう。


 自分のコンプレックスをすべて母のせいにするつもりはないが、子どもの頃の過干渉が「空気を読んで会話をするスキル」が培われなかった原因なのではないかと、私は思っている。



 会話がうまくできないコンプレックスから、どんどん自分に自信がなくなり、出来上がったのが、今の残念な私。学生時代からこれまで、あがり症とこの極端な自信のなさで失敗続きだった。


 今も、やめておけばいいのに、先日のプレゼンの失敗の場面を何度も反芻し、もはや使い古した石鹸くらいしか残っていない、自尊心を削るような作業をしていた。


 ――そのとき。


 すさまじい勢いの強風が港を襲った。ロープで桟橋に繋がれた漁船の群れが、大きく波打つ海面に、打ち付けられんばかりの勢いで上下に振られた。桟橋に面して植えられている樹木も、へし折られんばかりにしなっている。


「うわっ……何これ! 早く戻らないと」


 海に近い場所にしゃがみ込んでいた私は、後ろから来た強風に、押し出されるように海へ放り投げられた。


「うっわぁぁぁぁ、うっ」


 大きな水しぶきを立てながら、頭から海に突っ込んだ。驚いてぎゅっと目をつぶってしまったが、なんとか陸に戻らねばと、目を開いてあたりを伺う。目の前に広がる海は透明度が低く、海の底は見えない。恐ろしく暗い緑色が、ただ続いているだけ。


 船が泊まれるくらいなので、桟橋のあるあたりは水深が深いのだ。体を桟橋のほうに向け、必死に戻ろうともがいたが、思うように泳げない。水流が海の底に向かって勢いよく流れているようで、どんなに足掻いても下へ下へと吸い寄せられるように沈んでいく。


 いよいよ息も苦しくなり、パニックになった。手足をがむしゃらに動かして、なんとか水流に逆らおうとしたが――無駄な努力だった。


(怖い怖い怖い! 私このまま死んじゃうの? こんな、人生の面白みも何もわかんないまま死ぬのはイヤー!)


 意識を手放しかけた瞬間。地鳴りのような音ともにゴボゴボと音を立てながら、まるで入道雲のような大きな泡のかたまりがこちらに迫ってきていた。


(今度は何……?)


 先程まで海の底に向かっていた水流が、逆噴射したようにこちらへ向けて流れを変える。なすすべなく泡に飲み込まれると、まるで宝石のようなキラキラとした光が自分のほうに向けて噴き上げてくるのが見えた。


(あれは?)


 光が噴き出してくる中心から、なにやら大きな塊のようなものがこちらに向かってくる。眩しくてよく見えないが――人の姿が見えた気がした。


(もしかして、ついに天国のお迎えが……)


 そんなことを考えたのもつかの間。目の前に迫った光の塊に、イルカショーのボールの如く、思い切り水上に突き上げられた。吹っ飛ばされ、何が起きたのか状況が理解できないまま、今度は下方へ落下していく。恐怖で声を失っているところへ、追い討ちをかけるかのごとく、ものすごい剣幕の怒鳴り声を浴びせられた。


「早まるんじゃねー!」


 地面か海面かどこかにたたきつけられると思っていた私の体は、そう大声で叫んだ何者かの大きな両手に、しっかりと抱きとめられた。


「お前何やってんだよ! まだ若いだろ! 死のうとか考えんなよ! しっかりしろ!」


 はっきり言ってぽかん、だった。だって、さっきまで死にそうだったのだ。わけの分からない光の塊に吹っ飛ばされるし。おまけに見知らぬ男にお姫様抱っこされているわけで。放心状態の私を見て、男は一旦怒鳴るのをやめ、ため息をついた。


「あぁ。まあ……無理もないか。びっくりしただろ」


 男は私を下ろした。地面だと思って着地すると、想定外の不安定な足場によろよろしてしまう。


「わ、わ」


「おい、せっかく助けてやったんだから、また落ちるんじゃねえよ」


 もうちょっとで再び海に落ちるところだった私の腕を、男はがしっとつかむ。着地したそこは、船だったのだ。周囲を確認すると、もといた漁港は漁港なのだが、今まで見たことのないような船に自分は乗っていた。


 ツンとした匂いのするその船は木造船で、大きな三角の帆をかかげている。子どものころにみた、アラビアンナイトの絵本に出てきた船に似ているかもしれない。少なくとも、日本でよく見かけるタイプの船ではないようだ。


 まじまじとこの異質な船を観察していると、顔面にバサッ、と、ゴワゴワしたタオルが降ってきた。


「ぶっ」


 不意を突かれて、意図せず変な声が出る。


「それでふいとけ。風邪ひくぞ」


「あ……ありがとう……ございます」


 理解できない状況に戸惑いながらも、タオルというには硬すぎる布を使って、びしょ濡れになった髪の毛をふく。その様子を見ながら、男はしかめ面をした。


「声がちっちぇーよ。もっと腹から声出せ、腹から」


「あ……はい」


 色々言いたいことはあるのだが、いつもの通り言葉が出てこない。初対面の人間とはどういう話し方をするのが正解なのか、嫌な印象を与えないためにどうしたらいいのか、ついついそんなことを考えて、言葉を発することをあきらめてしまう。


 加えて男性は苦手だ。何を考えているかわからないから。こういう豪快な感じの人は特に。


(しかも、この人めちゃくちゃイケメンだし。言葉は乱暴だけど。私みたいな暗くてめんどうくさそうなやつ、嫌いだろうなぁ。余計何話したらいいかわからないや……)


 船はアラブふうのデザインだったが、男はアジア人のようだった。体は大きいが、顔が小さくてモデルのよう。鼻筋が通っていて、切れ長の澄んだ目をしている。劣等感の塊のような自分にとっては、普段なら絶対にかかわらないタイプの人間だった。

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