134話 シュウちゃん
一面真っ白な広い部屋。
ほんのり香る消毒液のニオイ。
風でカフェオレみたいな色をしたカーテンがそよそよと揺れている。
なぜかドアの横にあった観葉植物の葉っぱも真っ白。これって造花かな?
そう。アタシは気づいたら病院の待合いらしき場所に居た。
なんでだろうと考えて、胸元を見て思い出す。
ポッカリとサラミの断面みたいな穴が空いていて、そこを覗き込むと背もたれのソファーの縫い目がよく見えた。
そりゃそうだ。胸に穴があいちゃったから病院に来たんだよね。
「ハァハァ…おい!」
なんか荒い息づかいが聞こえてくる。
「ハァハァ…お前も来たのか!」
声のする方を見やると、アタシの向かいの席にオッサンがいた。
角刈りのグラサン。上半身裸で赤パン一丁、なんでかミカン箱の上に座っている。
「アンタ…は?」
「俺? 俺は武神ゴッデムッ!」
オッサンは左手首を右手で押さえつつ、空に向かって拳を突き出す……どっかで見た覚えのあるポーズを取る。
「武術と脇の下とフンドシを司る神! 創生神ニューワルトの双子の妹の隣に住んでいたババアの知り合いの家電屋の息子だ!」
アタシがポカーンとしていると、ゴッデムっていうらしいオッサンは眉間にシワを寄せた。
「……なんだ? この鉄板のギャグに笑わないとは、“理外者”じゃないのか?」
「“りがいしゃ”?」
「貴様のように異世界に転移した者をそう呼ぶのだ! そんな外的要因を幅広く受け容れたせいで、我々の世界の秩序は随分と乱れてしまったようだな!」
「?」
「お笑いは人の心にゆとりがある証拠だ! しかし、過ぎた笑いは混乱と無秩序をもたらす! それでは世界は崩壊してしまう!」
「???」
なにを言ってるんだかさっぱり…
「憐れだな! 貴様も“道化の神”に惑わされた“狂った世界”の犠牲者なのか…」
「ゴッデムさーん」
「はーい!!」
看護師さんに呼ばれて、ゴッデムは手を上げた。
「今日はどうしたのかしら?」
「アニマルどもを異世界異動させてたら、お腹の調子が悪くなっちゃって〜」
「あらあら。頭のお薬たくさん貰わないといけませんねぇ〜」
看護師さんに連れられて、ゴッデムは廊下の先の脳外科の方の診察室へと消えていった。
はあ。
アタシはいつ呼ばれるのかな?
トイレの方にあった鏡を見ると、そこには陰気なデヴが映ってた。
ああ、もう、アタシはあの褐色肌の…美少女とまでは言わないけれど、そこそこ可愛いレディー・ラマハイムじゃないのか。
ボサボサのパサついた黒髪、度の強い分厚いレンズ、ニキビだらけの脂ぎった顔。前も横も同じ幅のビア樽みたいな体型。
我ながら見るだけでイヤになってくる。
でも、こんなアタシが少しでも夢見れたんだからいいよね。
あー。そうか。そういや、胸に穴空いてるんだからアタシはやっぱ死んだのか。
うん。レディー・ラマハイムは死んだんだ。
あれだけ死にたくないって思ったのに、死んだら意外とあっけない。
ならここは死後の世界?
だからアタシは……元の身体に戻っちゃった?
死後の世界が病院だなんてのも変な感じ。
バッターン!
いきなり、眼の前の診察室の扉が勢いよく開く。
あそこは何科だろう…なんか、モザイクみたいなのかかってて科名が見えない。
ゴッデムの入った診察室はハッキリ見えたのに。
中から出てきたのは…凄いボリュームの黒アフロをした年配の女看護師さん。
周りや服が真っ白なんで、頭と日焼けした色黒の顔がやけに目立っていた。
「糞尿さん! 糞尿 垂実さん!!」
は? 名前?
とんでもない名前だ。
女看護師さんは血走った眼で、唾液をそこかしらに撒き散らしながらカルテの名前を連呼し続ける。
いやー、世の中、変わった名前の人もいるもんなんだな。
「糞尿さん! 糞尿 垂実さん!!」
こんな名前じゃ呼ばれても恥ずかしくて出てこれないんじゃないかしら。
「糞尿さん! 糞尿 垂実さん!!」
そんな大声で呼ばないであげても……
ん? なんかアタシの目の前に立って……
「呼ばれたら返事をしなさぁい!!」
「へ?」
「他に患者なんていないでしょ! 糞尿さん!!」
「い、いや、アタシは糞尿なんて名前じゃ…」
た、確かに待合所にはアタシしかいない…みたいだけれど……
「糞尿さんじゃない? 名前は?」
「も、もちろん! あ、アタシの名前は……」
あれ? アタシの名前って……
あれあれ? なんだっけ……
なんで出てこないの……
「名前は?」
「え、えっと……レディー・ラマハイム」
つい褐色の少女の名前を使っちゃった。
デヴで陰気なアタシが使っていい名前じゃないのに……
看護師さんは片眉をクイッと上げて、カルテをペラペラとめくる。
「まあ、“そっちの名前”でもいいでしょう。正しいようで間違っていない。間違っていないようで正しい。魂に刻印された本質は変わりないようですからね」
「え?」
「さあ、診察室へ! 先生がお待ちよ!」
「先生って…」
「はやくしなさぁいッ!!」
怒り狂う看護師さんに追い立てられるかのように、アタシは診察室へと入った。
──
診察室も真っ白だった。
でも、なんか診察室ってより床屋さんみたい。
赤と青と白がグルグル回る“アレ”だって部屋の端にあるし、レントゲンフィルムを貼るシャウカステンの上にカット用のマネキンの首がズラリと並んでいてまるで晒し首みたいだ。
手術トレーの上には、メスや注射器の代わりにヘアカットバサミやクシ、カミソリが置かれている。
目の前の雪の塊…いや、さっきの看護師さんとは対象的な、真っ白なボンバーヘアーが振り返った。
「ウヒヒッ! いらっしゃいじゃーい♡」
良い笑顔をしたおじいちゃん先生だ。
「えー、転移失敗で養豚場で事故死…こいつはツイてないのぅ!」
あー、やっぱりそうなんだ。
ここは死後の世界。
つまり、次に転生する場所を選ぶとこなのね。
「転移は失敗かどうか知らないけれど…養豚場ってのは間違ってます」
そこは訂正しとかないと。トンペチーノに殺されたんだし。
「ほえ? …ま、どっちでもいーわい!」
なによ。どっちでもいいのかよ。
「ここに来たからには、次の転移先は素敵な場所にしてやるわーい!」
それはありがたい。
次は陰気なデヴじゃなきゃ、もうどこでもいいわ。
「えー、次はアイドルじゃな!」
「アイドル? あの…歌って踊る?」
「そうそう。ユニットを組んでもらうわーい!」
えー。なんか今のアタシとは真逆だな。
うーん、上手くできるかしら?
「えー、糞尿 垂実と糞尿 漏固で…『汚物シスターズ』って名前で活躍してもらうぞーい♡」
「……んー。それはちょっと」
どうしよう。色々とヤバそう。
そんな名前で活動したら、まずイジメられるんじゃね?
あー、なんか嫌なこと思い出してきちゃった。
あれは小学生?
いや、中学生になった時だっけ?
トイレの個室に押し込められ、イジメっ子たちに「臭いからキレイにしてやんよ!」って水ぶっかけられたことあったっけな。
「……はー」
「それ、中学に入ったばかりの頃だよ」
あー、そうだった。
ん?
今の声、目の前のお医者さんじゃない。
なんかおじいちゃんはニカッと笑ったまま止まってる。
声がしたのは下の方から…
「うわッ!」
ベッドの下から頭が出ていた。
黒髪の短髪、モミアゲとやけに下睫毛の長い子供だ。
「あ…。シュウちゃん?」
「そうだよ。お姉ちゃん」
そこには、アタシの弟の修一がいた。
「え? なんでシュウちゃんが? なんでそんなとこに? え? 横から頭だしてるってことは身体の方どうなってんの? しかも小さい時のままで…」
シュウちゃんは…たぶん小学生高学年くらい?
いやいや、おかしいから。もう成人しているし。
でも、小学生だったとしても、弟の身長はそこそこ高かったから、ベッドの幅からはみ出るはずなんだけれど、身体を折り曲げてる感じはない。頭だけが出てる。
「お姉ちゃん。現世と隠世の狭間に意味なんて訊ねても無駄だよ」
「シュウちゃん?」
「全ての事象に意味があって、全ての事象に意味がない。泡沫のように現れては消えて往くだけ…お姉ちゃんに関わったものがいま見えているだけなんだ」
この子、こんなこと喋る子じゃないのに…
「でも、これだけは言える。魂の在り方は、その実在の在り方を変えるものじゃない。魂の姿こそが真実の自分たらしめる。自分を偽ることは他人になってもできはしない」
「なにを言ってるの? シュウちゃん…」
シュウちゃんは腕を伸ばして指を差す。
指差した先には薬の戸棚があって、そこのガラス板にアタシの姿が映り込んでいた。
そこに映ってたのは、陰気なデヴなんかじゃない。
あの褐色の少女レディー・ラマライムだ。
「ほら! イジメられる前の、小学生の時のお姉ちゃんだ!」
シュウちゃんが笑う。
「え? そんな…私は……」
次の瞬間、白い空間が黒や紫のまだらに歪む。
「……お姉ちゃん。どうやら迎えが来たようだよ」
「迎え?」
「世界と世界の狭間にまでやって来るなんて、お姉ちゃんの世界の神様はなんとも熱心なんだね」
「神様?」
──レディー! 戻って来て!!──
「この声…まさか、ユーデスなの?」
「お姉ちゃん。戻ってあげるといい」
戻ってってこんな状態で………
あ。アタシの胸の穴が……消えている?
「シュウちゃんは?」
「オレはお姉ちゃんの記憶の中のオレでしかない。現世のオレはオレで上手くやってるよ」
「ホント? 姉ちゃんは…」
──レディー! ボクの手を掴んで!!──
天井から、白くほっそりとした腕が伸びてくる。もしかして、これがユーデスの……
「さあ、はやく! 神様とはいえ、異世界の神様だ。世界の狭間に干渉できるのはそう長くはないよ」
「……えー、糞尿 垂実と糞尿 漏固で…『汚物シスターズ』って名前で活躍してもらうぞーい♡」
あれ? お医者さんがさっきと同じセリフを……
「聞いちゃダメだ。お姉ちゃん」
シュウちゃんが、お医者さんの脚を掴んで……
「そうはいかんぞーい♡」
お医者さんがニターッと笑う。
なんかイヤな感じだ。
「さあ! 行って!」
シュウちゃんがそう言った瞬間、黒い渦のようなものに診察室が呑み込まれる!
──レディー!!!──
アタシは咄嗟にユーデスの手を掴んで──