105話 魔獣ライー
魔物の上位存在たる狼の魔獣が出現したとの報を受け、腕の立つレンジャーを数名派遣したがいずれも帰って来ることはなかった。
これ以上の事態になるならば本部に連絡しなければならなったが、コルダール領主並みの権限、そして名誉ある家柄、さらにギルド長としての立場…そんなしがらみ、なにより元パープルのレンジャーだったという自負がそれを許してはくれなかった。
そんなわけで、エスドエム・ローションは単騎、魔獣の住むコクント深森という場所へやって来ていたのである。
当初、彼の実力があれば、その辺の自然発生した魔獣如き、瞬殺となる簡単な仕事の予定であった。
しかしその魔獣は非常に慎重…悪く言えば臆病であり、エスドエムがやってきて自分より強いと判断した早い段階で逃げの一手を決め込んでいた。
向かってくる相手を叩き潰すなら造作もないことだが、敵の勝手知ったるホームグラウンドで逃げ回られることで長期戦を余儀なくされる。
「……食料が尽きた」
森の中で、エスドエムは途方に暮れていた。
説明するまでもないが、人里離れた出先で水や食料が尽きることは死活問題だ。
本来ならば食料が尽きる前に撤退、もしくは現地調達を考えるのが当然だ。
無論、ベテランレンジャーであるエスドエムがそこを理解していないはずがない。
ではなぜこんな事態になったのか?
現役を離れレンジャーとしての勘が鈍っていたのもあるが、それは…
「まさか、我輩の隠していた食料を…」
木の根の間を魔法で掘り、そこに保存できそうな木の実やキノコ、腸を抜いて塩漬けにした魚、そして最初に持ってきた食料の中で、後で燻製にでもしようと取っておいた干し肉…それらが無惨にも食い荒らされていた。
敵は人間より嗅覚が優れているし、ましてや他の獣に食われるかもしれない…それを想定し、ニオイが漏れないよう厳重に封をした上、土魔法でカモフラージュまで完璧に施してあった。
木から少し離れた場所に穴があいていた。その穴は根の間のエスドエムが作った穴に繋がっており、どうやら側面から掘り進めて横から抜き取った様なのだ。
どう考えても知恵のある生物の仕業だ。証拠こそないが、エスドエムには例の魔獣がやったに違いないという確信があった。
「偶然に見つけたのではない。我輩がここに食料を隠したのを知っていて、このタイミングで横取りしたのか…」
手持ちの食料がなくなったからこそ、エスドエムは補給をしに来たのだ。もちろんそれまでの間も抜かりなく警戒していた。隠し食料が見つけられた形跡は一切なかったのだ。
そこから考えられることは、エスドエムの手持ちの食料が尽きるのを見計らっていた…そういうことなのだろう。
「採れる食材が減っていたのを怪しむべきだった…我輩としたことが迂闊な」
予兆はあった。最初の頃に比べて、森の中で集められる糧食の量が減っていたのだ。
気のせい、偶然だと切り離して考えていたのは不味かった。もしこれが計画的なものであり、徐々にエスドエムを追い詰める罠だとしたらかなり狡猾である。
「……街まで戻るに、飛行魔法を使おうにも3日は掛かるな」
3日くらい食べなくても平気は平気だ。だが、それは万全な状態の場合ならであって、単独任務に長期間労していたせいで疲労が著しい。現役を離れて久しいエスドエムならば尚のことだ。
それと魔法の使用と空腹は一見まったく関係ないと思われるが、空腹感は精神面に影響を与える。
優れた魔法使いならばそういったことへの対策訓練もし、当然ながらエスドエムもそういったことは行ってはいるが、細かなコントロールを要する飛行魔法維持には多大な集中力が必要となる。
「休みながら撤退…というわけにもいかんか」
エスドエムは周囲に魔物の気配を感じつつ舌打ちする。
急に殺気が強くなっていた。いつ襲い掛かって来てもおかしくない雰囲気だ。
(魔獣は他の魔物も支配下に置いている? …そんな様子を微塵も見せなかったのも、この我輩を確実に追い詰めるためか。ひどく知恵が回る。厄介な)
エスドエムは決意する。
ここで撤退しても、休憩させぬ様に立て続けに攻撃を仕掛けられることだろう。退けばジリ貧になって状況は余計に悪化する。
なればここで殲滅させる他ない、と。
「さあ、来るがいい! そのつまらん策ごと叩き潰してやる!!」
──
それから3日──
夜も寝れぬほどの猛攻はようやくのことで止んだが、魔獣は一向に姿を見せなかった。
「げ、ゲエエエエッ…」
エスドエムは跪いて、激しく嘔吐を繰り返す。
空腹に耐えかねて、倒した魔物の肉を喰らったのだが、それがいけなかった。
魔物の中には食べても害にならない物もある。エスドエムは慎重に判断して食べる魔物を選別したのでこんなことが起きるはずがない。しかも食べてからかなりの時間が経過していた。
「……ハァハァ。クソがッ。コイツら、決死隊だったかッ」
形振り構わずというより、恐怖心に駆られて…そんな雰囲気で魔物たちは襲い掛かってきたのであった。
しかし、エスドエムが言ったのはそういうことではない。
「無味無臭の遅効性の毒草をコイツらにたらふく食わせ、そうやって汚染させた肉を我輩に食わせるのが目的だったか……クソが!!」
回復系魔法は苦手だったが、なんとか自身の身体から毒素を排出する。
しかし、だいぶ吐いてしまったことで、脱水による目眩や立ちくらみといった症状までもが出始めていた。
「こ、このままではマズイ…」
エスドエムは這いずり、魔獣に見つからぬよう木陰の方へと移動する。
「……喉が乾いた。腹が減った」
エスドエムは弱音を呟いた自分を思わず笑ってしまう。
いつもは弱音など吐くなと叱責する側の立場だ。
「…こんな姿、ギルドの連中には見せられんな」
エスドエムは死を覚悟して眼をつむった。
「……大丈夫カニ?」
「……む?」
何者かに声をかけられ、エスドエムは薄れいく意識の中で目をゆっくり開く。
「……チチンガー…か?」
「ガニンガーだガニ」
「なぜ、ガニンガーが…?」
相手が民間人などではなく、格好からして冒険者かなにかであることにエスドエムは気付く。
「自分はショーヨングの狩人のアシダカー、ガニ」
「ショーヨング? 南方デマラグランか? そんなところから…」
「そうガニ。アシダカーは、“ライー”を追ってやってきたガニ」
「“ライー”?」
「他者の姿に成りすます、最悪最低の魔獣カニ」
「魔獣…我輩が追っているヤツと同一か?」
アシダカーは「おそらくは」と頷く。
「……恥を忍んで頼む。何か食い物…もしくは水を恵んでは貰えぬか?」
「極度な脱水に、栄養失調ガニ。命の危機ガニ」
「……たの…む」
「……」
アシダカーは何を思ったか、自ら頭部の触手をボキンともぎ取った。
「お腹が空いているのなら、これをお食べよ」
差し出されるソレが生々しくて、一瞬だけエスドエムは逡巡してしまう。
しかし、甲殻からプリッとハミ出た白身がなんとも食欲を誘う。香りも芳しい。
その誘惑に負け、エスドエムはケダモノのようにがっついた!
「カニうまっ!」
空腹は最高の調味料とはよく言ったもので、その芳醇かつ濃厚な味わい、口腔内に豊かに広がる舌を震わすような絶妙な甘美は、エスドエムが生きていて始めて経験したものだった。
離乳食を食べだし、初めて甘いものを口にした赤子のようなイノセントさをもってして、眼をキラキラさせたエスドエムは童心のまま残りを美味そうに平らげる。
「ガニンガーは、いざというときのための非常食を触手に蓄えるガニ。それは消化によく、水分も豊富に含んでいて、即座に糖へと変換して、全身に栄養を行き渡らせる完全栄養食ガニ」
なんかアシダカーが説明しているが、夢中になって名残惜しそうに指をチュパチュパさせているエスドエムの耳にはまったく届かなかったのであった。
──
「……以上、我らが英雄アシダカーから聞いた話じゃ」
アタシたちは、ガニ堂落とかいうデカいジイさんから、そんな昔話を聞かせられるハメになる。
「え? …終わり? 魔獣ライーは?」
「元気になったエスドエムの協力もあり、無事に倒したんじゃないかと思う」
「思うって…」
「コクントの深森はかなり遠方じゃし、魔獣ライーなどワシらの生活になんの影響もなかったから、そこらへんはフワッと聞いとったんじゃ」
「英雄の話をフワッと聞くな! 一番、肝心なとこだろーが!!」
「…ゴホッゴホッ。グムぅ、持病が」
「堂落様!」
「わぁーん!」「しっかりしてぇ!」
「うそこけ! ごまかすな! さっきまで咳もせずに流暢に話してただろうが!!」
「まあまあ、レディーさん。
…それで、ガニ堂落さん。とても素晴らしい話でしたけど…それから2人はどうなったんですか?」
「え? ギグくん? 今の話にいいところなんて…ってか、そうだよ。いまの話だと、エスドエムをガニンガーが助けてくれたってことじゃん!」
「? 知っての通り、今の話で全部じゃ」
「だから知らねぇよ! いまガニンガーがコルダールを襲った理由についての話だったんだよな!? アンタら、エスドエムに対して恨みがあったんだよな!?」
「? いやまったく…?」
ガニ堂落と、ケガニンとかいうガニンガーは揃って肩を竦めてみせる。
「はあ!? ならなんでそんな話を聞かせたんだゴラァ!!」
「落ち着くにゃ。レディー」
「いやな、だからワシらも困っとるんじゃ。アシダカーとエスドエムはそんなわけもあって仲が良かったらしい。ワシらの仲間もコルダールに住んでおったし、知っている通り、このウルガ山に蟄居しているワシらも平穏に…」
「だーかーら! なにかあったんだろ!? なにもないのに戦うわけねぇじゃん!!」
「そうだ! なにかはあった! しかし、我々が知っているのは、エスドエムが大軍を率いて我らの同胞を襲撃したということだ!」
「は? なんだって?」
「ウム。エスドエムが先に攻撃を仕掛けてきたんじゃ」
「はあ? エスドエムは、ガニンガーから攻めて来たって…その理由も知らないって言ってたぞ!」
「真実だ。ガニンガー側からはなにもやってない。俺たちが最初に襲われたんだ…」
「…だが、ワシはそれを何かの誤解があったものと思うておる。ガニンガー側になにか落ち度があったものやも知れぬとな。だからこそ、大将軍には戦争行為をするな、話し合えと言うたんじゃ」
んん? 頭ん中がこんがらがってきたぞ?
エスドエムはガニンガーに助けられた。それで一緒に魔獣を倒した。
……???
それで、なんでエスドエムが、ガニンガーたちを襲うわけ?
「ちなみにこの話は何年くらい前のことにゃ?」
「3ヶ月前だ」
「最近じゃん!! できたてホヤホヤじゃん! 昔話ってか、思い出にもならない、ごく最近じゃん!!」
「大嘘ですぅ! コイツら真っ赤な嘘をぶっこいてやがりますぅ!」
リュションが騒ぎ出した。
なんかよくわかんないけど、黒目がぐるぐる回っててヤベェことになってる!
「だって、そんな話は聞いたこともないですものぉ! ダブルパイパイ様が魔獣食べて、食中毒を起こして餓死しただなんてぇ!」
「誰もそんな話してねぇよ! 誰が魔獣食ったって言ったぁ!? 誰が餓死したって言ったぁ!? 話ちゃんと聞いてたぁ?!」
「……まあ、エスドエムとやらにとってみれば不名誉な話だしな。あまり話たがらんかった可能性もあるんじゃないのかのぅ」
あのイカれたギルド長だ。なくはない話だけれど……
「でも、そういえばガニンガーたちは、口ぶりからエスドエムさんをとても恨んでいたみたいですけれど。それはやはり襲い掛かってきたから…?」
「そうさのぉ。しかし、そのエスドエム側が襲ってきた理由が…なぁ」
ガニ堂落はなんとも話しにくそうにする。
「なんだよ?」
「うむ。今から話す話はな、ここに篭っていたワシらが実際に見た話じゃないんじゃ。町に住んでいた大将軍たちから聞かされた話なんじゃが……」




