未定
四章
1サブタイ
明日から夏休み。少し歩くだけで汗が出る。だからと言って半袖だけでは来れないのは、講堂がクーラーガンガン、キンキンに冷えているからだ。授業中、寒くなることは毎日ある。光の鞄がやたら大きいのは、中には羽織るものが入っているからだった。
試験は全て返され、自分の点数の悪さにほとほとびっくりしている。本当に自分は能力操作をされているのだろうか、と疑問に思うのも仕方がない。
――日本人は漢字と平仮名、カタカナにローマ字。覚える事が沢山あって大変ね
そう呟かずにはいられない。
明日から夏休みで、今日は最後の授業だ。授業といっても、ホームルームクラスで霞祭の出し物を決めるだけだ。だから今日は午後登校。生徒会役員やサークルの子たちは、光などとは比べ物にならないほど忙しくて午前中から登校している。光もバスケットサークル所属だが、そこは特に出し物などはしないそうだ。
「ごきげんよう、七海さん」
――ごきげんよう?
光が大学敷地内を歩いていると、聞きなれない言葉が後ろから飛んできた。振りかえると南美さんの姿があった。
「みっ、南美さん」
皆様覚えているだろうか。昨年度霞プリンセスで、今年もエントリーしたという美人でスタイル抜群のあの人だ。光は南美さんに今年のプリンセスコンテストを沸かしてみせると大見得を切ってしまったのだ。
「調子はどう? 夏休みが終わればコンテストはすぐ。楽しみね」
「そうですね。南美さんこそ、順調に票はとれていて?」
「もちろん。いろんな方が私に協力してくれるのよ」
「それはいいわ。私も負けていられないわね」
「そうよ。私に喧嘩を売ったのに、無様な結果になってしまったら笑い者だものね。私を楽しませてね」
「ええ、期待していて」
「期待しておくわ。では」
そう言って南美さんは友達の方へ走って行った。
――あぁ、忘れていた
ここ最近いろいろな事がありすぎてすっかり忘れていた。夏休みが終わればすぐに霞祭がある。今のうちに有権者を集めるのが得策だろう。しかし明日から夏休み。こんな短期間で南美さんに追いつけるはずもない。その前にプリンセスになるため愛想を振りまくなんて、光のキャラじゃない。知り合いもいっぱい作らなければならないし、いつも気を張っていなければならない。南美さんはそれを簡単にやってのけるのだ。その点においては、尊敬する。
――どうするかな
とはいえ大見得を切った以上、やり切らねばならない。光にだってプライドというものがあるのだ。
靴箱で靴を履き替えていると、人だかりが見えた。
――なんだろう
気になって近寄ると、光を確認した人だかりは後ろの方から道を空けた。無意識にその道を前へ進む。まるでモーゼの奇跡の海の道を歩いているようだった。
前には掲示板。そこに張ってある張り紙が光の胸を貫いた。
「なにこれ……」
そこには大きく『美人編入生 早くも三股!』と見出しが書かれていた。そしてお兄様とショッピングをしている写真、明王寺と明王寺の屋敷に入る写真、そして奈々ちゃんの誕生日パーティー後の写真が印刷されていた。
――はぁ。馬鹿馬鹿しい
そこで泣いてしまうのが女の子なんだろうな、と光は思った。でも光はこの程度の噂は軽く流せる性質だった。小さい頃から両親の会社に携わっていた光は、会社同士が流す噂を何度も体験してきたのだ。だから当事者でも受け取り手でも、真に受けるような事はなかった。
後ろを向いて教室へ向かおうとすると、大衆の目線が刺さった。そして何人かに嫌味を叩かれる。
「七海さんに一票入れようと思ってたのに」
「コンテストも終わったな」
「南美ちゃんに決定だ」
「最低」
「そんな子だったなんて」
「外面いい子って、裏で何やってるかわからないよねぇ」
大衆がざわめきだす。
「馬鹿馬鹿しい」
少し大きな声で光は呟いた。まだ始業まで時間がある。屋上へ行こう。そこで気持ちをすっきりさせてからホームルームに挑もう。あそこは光の全てを吸い取ってくれる場所だ。
廊下を歩いていると、ちょこちょことあの張り紙がしてあった。そしてたくさんの目線を感じた。でも光は怯まない。ここで怯んでしまったら、張り紙を作った人の思うつぼ。だから堂々と歩いた。颯爽と歩いた。
屋上へ行くと、光はもしかしたら智一もいるかな、と思った。しかし光の勘ははずれた。別に明王寺に会いに来たわけじゃないからいい。ただここでは良く会うので、いたらどんな態度を取ろうか考えていただけだ。
フェンスに寄りかかって空を見上げる。太陽がぎらぎらと輝いていた。
誰かに言われた言葉を思い出す。
南美ちゃん決定。晴々しいじゃないか。あんな面倒な事をこんな形で逃れられる、思ってもみないチャンスだ。誰にどう思われようが光は構わなかった。それで人生が変わってしまうわけではないし、第一学校には勉強をしに来ている。別に安い友達を作るために通っているわけじゃない。
――だからどうぞ私を嫌いになって
光は見上げていた視線を地面に落した。
「なんてね。本当は結構傷ついてたり」
「犯人みーっけ」
そう言って明王寺が入ってきた。光の勘は強ち外れたわけではなかったということだ。
「なぁに、智一も三股なんて最低! と言いに来たの?」
「そう見える?」
二人は笑っていた。明王寺に限ってそんな事を言うはずがない。それに祐太の事を知っている。これはただのジョークだ。
「俺はまた光が強がってると思ってきたんだけど。傷ついてるんだ」
光のちょっとしたぼやきを聞かれていたらしい。
「自分に素直になれたね、偉い偉い」
「お兄様みたいな事言わないでよ」
「俺の目標はきみのお兄様だもん」
「絶対無理ね」
「なにをぉ」
あれ以来、明王寺と光はすごくいい関係になった。
「でも」
急に真剣な顔になる明王寺。
「田波のことは知らない」
確かに言った覚えはないし、話すことでもなかっただろう。
「別に俺は祐太さんを裏切って田波と何かあったとは思わない。でも面白くないな。妬ける」
「智一が妬いてどうするのよ」
「だってあんな見つめ合ってたら……」
「話さなければならないわね」
「いや、強要してるわけじゃない。話したくなければ無理に聞かないよ」
「違うのよ、聞いてほしいの。智一には信じてほしいし、全部知ってほしい」
「え……」
そして一連の流れを説明した。奈々ちゃんの誕生パーティーに招待されたこと。告白されたが、それは同情だと言って断ったこと。
「あいつはまだ光のことが好きだよ。諦めてるわけじゃないと思う」
「え?」
「俺は、田波がもう既に告白してることに驚いてる。あいつ分かりやすいから見え見えなんだよね、光のこと好きなこと」
「はぁ。どうすればいいかしらね」
「彼氏を作ればいいんじゃないの? そしたら諦めるでしょ」
「私はまだそういう人を作る気ないわ。祐太のこと、お兄様と呼んでいるけどそれは建前であって。まだ新しい恋をする気は起きないわ。当分恋愛はないわね」
少し悲しみが漏れたかもしれない。
「そうか」
明王寺の顔が少し寂しそうだったのは、光からの感染だろうか。そういえば、光は明王寺が何であんなことをしたのかまだ聞いていない。聞くタイミングがつかめない。気まずい雰囲気になってしまったらどうしよう、そう考えてしまう。
「そろそろ教室行かないとね」
そういって光の荷物を持ち上げた。
「行こうか」
「うん」
明王寺は意外に紳士だった。光は明王寺に怖い気持ちも、悔しい気持ちも今はない。それどころか光はこの人に頼ってる。とんだ笑い話だ。
「あっ」
――私、甘えて自分のことばかり考えていた
「やっぱり一人で行くわ」
そう言いながら光は明王寺が持ってくれている自分の荷物を奪い取る。
「どうしたの?」
いきなりの出来事に驚いている明王寺。
「なんでもないの」
「なんでもなくないでしょ?」
明王寺は少し力を押さえて光の腕を掴んだ。
言ってしまえば明王寺は、そんなこと気にするなと言うだろう。でも関係ない明王寺に頼っているばかりではなく、迷惑をかけてしまうなんて光の道理に反した。
「じゃ、俺は光の後ろ歩く」
「だめよ」
「だろうと思った」
光は明王寺を見上げた。明王寺はにこりと笑い、光の頭の上に手を置いた。
「光の気の遣い方は尋常じゃないよね。どうせ一緒に歩くとまた噂をたてられる、俺に迷惑をかけてしまう。そんなこと思ってるんだろ」
「いや、その……」
「俺に頼るんだったら、最後まで甘え通せよ」
笑顔で言う割に力強い声だった。いつもの明王寺だったら「通せよ」なんて言葉遣いはしない。
「光はなんで俺に信じてほしいの?」
――なんでだろう
「俺を信頼してるからでしょ?」
――そんな簡単なことじゃない。けれど簡単に言ってしまえば――
「そう」
「だったら変な気遣わないで、俺に迷惑かけてよ」
「でも……」
「俺も光と同じように、誰にどう思われようが構わないんだよ。自分が楽しく過ごせてれば周りなんて関係ない。この学校の奴らに俺を楽しませる力量をもってる奴はいないってこと」
さわやかな笑顔で酷いことを言う。
「智一のその素直なとこ、好きよ」
「お褒めにあずかり光栄です、姫君」
そこまで言うなら乗っかろうじゃないか。とことん迷惑をかけてやる。今まで抑えてきたものも全て。それを全部受け止められるなら大したものだ。褒めて使わす。
「随分と偉い姫君だ」
「許す、近くへ寄れ」
お姫様ごっこも明王寺となら楽しい。心が幼くなったような、純粋な気持ちで笑っていられた。明王寺なら全部受け止めてくれる。そう思ったから光は心を許したのだと思う。
「光は本当の事を語ればいいんだ。祐太さんのこと以外をな。田波の妹さんの誕生パーティーに行くことは別にやましいことじゃない。俺の家には看病で来ている。それを友達だって知ってるんだろう?」
「うん。そうね」
祐太は本当にお兄様だし、誰が疑っても事実を突き付けられる。
「光!」
勢い良くドアが開いた。そこには一弥の姿が。
「っ……」
一弥は光と明王寺を見て一瞬怯んだ。
「あなたも心配して来てくれたのね」
この場所は光が落ち込む時に来る場所だと認識されているようだ。
「私は大丈夫よ」
「明王寺に慰めてもらったから?」
間違ってはいないけど。
「俺が守るって言ったじゃないか。俺に守ってほしいって言ったじゃないか」
「言ったけれど――」
「じゃぁ何で明王寺なんだよ!」
一弥の様子がおかしい。
確かに守ってほしいとは言った。だけど一弥に縛られる筋合いは全くない。
「何妬いてんの? 田波」
こちらも様子がおかしい。
「学校の人気者だからって、ちょっとかっこいいからって光を落せると思うなよ」
「そんなこと思ってない!」
「お前みたいな器が小さい男を光が好きになるとでも思ったのか?」
顔が怖い。少しだけ嫌な記憶が蘇る。屋上だからという事もあるのだろうか。
「智一、やめなさいよ。一弥は私を何も知らないんだから」
「俺がそんなに光に見合わないか? 確かに俺は光の事は何も知らない。だけど好きになるのは本能だろ? 好きになってしまったものは仕方ないじゃんか!」
驚いた。一弥はこんなに大声で怒ったりするのか。
「俺は諦めるつもりはないからな」
「光の事を考えてやれって言ったのは田波だろう」
「お前に何が分かるんだよ」
「その勝手な考え、分からない方が正常なんだ」
「二人ともおやめなさい。授業が始まりますよ」
そう言って光は歩き出す。男のバトルには付き合ってられない。光が歩いている後ろから二人がついてくる。視線を感じ、後ろの二人が無理矢理仲良しをアピールしていた。少し変な感じ。
「無理しなくていいのよ」
「光を傷つけるわけにはいかないからね」
「俺たちが一緒にいるなんて、都合がいいし」
「はぁ。馬鹿馬鹿しい」
歩いていると、何人かの人から声をかけられた。
「プリンセスの立候補、取り下げないの?」
「そんなことはまだ決めていません」
「是非取り下げないでほしいわね」
それを言った先を見ると驚く人が立っていた。
「南美さんっ」
「よくお会いするわね」
「そうね」
「すごいわね、七海さんって。去年のプリンスと今年のプリンス有力候補を股に掛けるなんて」
「去年のプリンス?」
「あら、ご存じなかったの? 明王寺くんは去年のプリンス。私と一緒にパレードを回ったのよ」
「そうなの?」
明王寺の方を見ると目を逸らされた。
「私も一度でいいからプリンスを両手で持ってみたいものだわ」
「心外ね。私が男ったらしだと言いたいの?」
「あら、違うの?」
「私はそういうことに興味ありませんから。もちろん、この二人と付き合ってはいません」
「しらを切るのね。まぁ良いわ、霞祭楽しませてくれるのでしょう?」
「………」
もう無理だろう。でも無理とは言えない。何も言えない光を見て、南美さんはふっと笑った。
「楽しみにしているわ」
そう言って光たちから離れていった。
「気にすんなよ」
一弥が心配そうな顔で覗きこむ。
「わかっているわ」
そんなことよりも明王寺の事が気になった。面倒事なんて、断固として引き受けなさそうな明王寺がプリンスなんて。どうやって優勝したのかも気になるし、コンテストに出ること自体疑問だ。明王寺は特に表情を変えるわけでもなかったが、さっきとは明らかに違っていた。
そんなことを考えているとホームルーム教室に着いていた。光と一弥は一緒のクラスだが、明王寺は隣のクラスだった。明王寺は何も言わず自分の教室に入って行った。。光と一弥も自分の教室に入る。すると友達が寄ってきた。そして噂の男子を二人引き連れていた光を見て、複雑な顔をした。
光の周りには真相を確かめようと人だかりができていた。光は丁寧に細かく弁解した。納得してくれている人がどれくらいいるだろう
遠くに真美の姿を確認した。真美に関しては、一番申し訳ないと思った。一弥に片思いをしている真美には何て言ったらいいのか分からない。真美は光に手を振った。こっちへおいでと言っている。特に変わった様子はない。
光は周りの人に適当な言い訳をつけて真美の方へ向かった。
「真美」
「大丈夫?」
「下らないことするよね」
「光のこと妬んでるんだよ」
仲がいい友達は慰めてくれた。全く信じている様子はなかった。
「私が一弥のこと好きなの知ってるから、そんなことしないよね?」
真美は自分の顔を光に近づけ言った。真美の顔は物凄く健気だった。一弥はこんな子に愛されているのに、光を好きになるなんて勿体ない。
「今恋愛に興味ないの。だから智一とも、もちろん一弥とも何もないわ。信じてくれる?」
「うん、信じる」
真美の笑顔は光を元気にした。
「実はさ、一弥に言われたんだ。あの張り紙はデマだって。光は普通通りにしてるけど、あんな張り紙されて傷つかない人はいない。だから話しかけてやってって」
なんと対処が早いのだろう。
「そう」
「そんなこと、言われなくても分かってるのに」
「ありがとう」
光はいろいろな人に支えられていることに気づく。
「でもさ、ちょっとコンテスト厳しいよね」
「そうだね、これは響いちゃう」
「南美に負けるなんて、本当に嫌なのに」
期待してくれていた人には、本当に申し訳ないと思う。
「ごめんなさい」
「別に、謝る必要はないんだけどねぇ」
「南美の仕業じゃないの?」
「あーそれあるよ」
南美さんが。考えたくはないけど、確かにあるかもしれない。
間もなくしてホームルームが始まった。そして光は進行役は真美だと知った。
「模擬店を決める前に、お知らせがあります。うちのクラスから霞プリンス及びプリンセス候補者が出ました。一弥、光、前へ」
そう言われたので、光と一弥は前に立つ。
「プリンス候補、田波一弥。そしてプリンセス候補、七海光さんです。光に関してはみなさん知っている通り、朝から変な張り紙が校内中に貼ってあります。しかし私は七海さんを候補から下げるような事はしたくありません。しかしこれはクラスの名誉にも関わります。そこで、みなさんの意見を聞こうと思います。意見がある方は挙手してください」
一人が手を挙げた。
「噂の田波一弥もいることですし、一弥くんの意見も聞かせてください」
もっともな意見だ。
「俺は光とは何もありません。それと、明王寺とも何もないことを知っています」
「ではもう一人の噂の人は?」
「……あの人は私の兄です」
みんなの顔が複雑だった。
「私たちが納得しても、他の生徒が納得しなければ勝てないよね」
「まずは全校生徒に釈明しないとね」
「でも明日から夏休みだよ」
「どうする」
ざわめく教室内。
「俺に提案があります」
一弥が声を張り上げて言った。
「夏休み中にイベントがあることを忘れていませんか。そこで巻き返しを図れば光は勝てると思う」
真美の説明によると、夏休みに入ってからすぐ『霞川冒険イベント』というのがあるらしい。それは、一部の生徒しか知らない生徒会の仕事や、サークルなどを体験できるというイベント。会長席に座れたり、洋菓子サークルでお菓子を作れたり食べられたり、自由参加なのだが参加者は七割程度いるそうだ。光と真美と一弥が入っているバスケットサークルは体育館競技なので、体育館を共有するサークルが多い。だから時間で入れ替わり、いつもと変わらず試合をして楽しむらしい。
「そこで光がアピールすれば、優勝も出来ると思うんだ。光が来れればの話だけど」
「どう、光」
光はドイツに帰る予定もないし、結構夏休みは退屈する。
「私はいいわよ。でもそんな簡単にいくかしら」
「やってみなきゃ分かんないだろ」
「まぁ、そうね」
「では他に質問がなければ多数決で決めようと思います」
クラスは前を向いて、頷いている。
「では。光をこのまま、プリンセス候補に推薦し続ける事を推奨する方挙手を」
ほぼ全員の手が挙がった。
「推奨多数。よって光をこのまま支援していくことにします。どうかみなさん、ご協力をお願いします」
拍手が沸いた。光は頭を下げた。この期待の中、南美さんに勝たなくてはいけない。負けても仕方ないと言われて終わるだろうが、あんな噂を流されても協力してくれる人がこんなにいる。その事に胸を打たれ、優勝して恩返しをしようと思った。そのためなら愛想でも何でも振りまいてやる。初めて大勢の他人が味方に見えた。
「では次に模擬店についてです」
真美が進行したので、光と一弥は席に戻った。
二時間の話し合いの末、和菓子喫茶に決定した。詳細も決まった。あとは当日前の三日間、必死に準備するだけだ。
そしてプリンセス候補の光は着物を着ることになった。光は着付けなんてできないが、クラスに是非と言う子がいたので当日は着付けてもらう。光同様、一弥も和装することになった。一弥は、袴を着るという。
「楽しみだな!」
一弥がしきりにそう言うが、光は責任と作戦で頭がいっぱいになっていた。だから楽しみという感情は湧かなかった。
「ではみなさん明日から夏休みです。体に気をつけて過ごしてください。霞川冒険イベントには是非みなさん参加してください。以上です」
真美の締めの一言で解散となった。
「そういえば、村田先生は」
ホームルームクラス担任の村田先生の姿が見えなかった。担任なのに、ホームルームにいないのは少し違和感がある。
「出張らしいよ」
「そう」
教室を出ると、明王寺が壁に寄りかかって待っていた。
「終わったか、光」
「うん」
光の周りは嫌な顔をしていた。明王寺はその群衆に向けて言った。
「みなさんに報告しまーす。明王寺財閥と川崎財閥は資本提携をしました」
明王寺は光の後ろから抱きついて、とびっきりの笑顔で言った。
「えっ?」
まず驚いたのが、光だった。
「聞いてないよ」
「今さっき決まったんだもん。父さんからメール来てさ」
そう言って携帯を開く。そこには『明王寺、川崎 資本・業務提携 決定』と書いてある。どうやら気を遣った嘘ではないらしい。
「そうなんだ」
「すげー」
「なんか会社の話しって感じだよね」
光が川崎財閥令嬢と言う事は、周知の事実だった。
「だから明王寺と光は仲いいんだね」
「その通り! 親同士が仲良くなきゃ、こんなお嬢様に話しかけられないよ」
ははははと笑う明王寺。そして光の腰に手を回し、言った。
「姫様、今日はホテルでパーティーです。お迎えが来てますから来てください」
「なんで私が。もう私は川崎ではないのよ」
「いいから」
もしかしたら何か話しがあるのかもしれない。でも二人で歩いてなんかいたら、噂に拍車がかかるから理由をつけたのだろうか。
「いいわ。行きましょう」
「ということで田波と真美、ついてきてくれないかな」
理由は聞かずとも分かることだった。
「私はいいよ。あとは帰るだけだし」
「俺ももちろん。うちのクラスの姫にこれ以上泥を塗らせない」
「二人ともありがとう」
そうして敷地内を四人で歩く。この異様な光景に沢山の人が目を見張った。
「俺たち、どう映ってるのかな」
「そんなこと関係ないだろ」
「でも光はプリンセス候補だもん。周りの目は気になるよ」
真美が不安そうに言った。
「噂は時間が経てば忘れられるものよ。その瞬間は盛り上がるでしょうけど、時間が経てば興味がなくなってしまう。飽きてしまうのね。だから、あまり心配はいらないわ。あとは私が頑張ればいいのだもの」
「強くなったね、光は」
「私は……まだまだ弱いわよ」
そうして歩いていると、校門に黒塗りの車が見えた。迎えが来ているのは本当だったということだ。
「じゃ、俺らはここで」
「パーティー頑張ってね」
「ええ」
車に乗ると、明王寺は言った。
「本当にこれからパーティーなんだけどね。光は招待されてないんだ。期待させちゃったかな」
「そんな事だろうと思っていたわよ」
光はもう、川崎の人間ではない。そしてお兄様の妹でもない。ましてや恋人でもない。そんな人間をパーティーには招待しないだろう。
「俺は祐太さんに言ったんだよ。光を連れて行くって。だって、この前の話だと光の父様は許してくれそうな感じだったし。でも祐太さんは絶対にやめろって言うんだ。でも俺こんな性格だろ? すぐ引き下がらなかった」
その明王寺が素直に引き下がった理由。それは
「祐太さん、もっとかっこよくなって光に会いに来るって」
光の顔は林檎のように赤くなっていった。明王寺を見るとはにかむ笑顔があった。しかしどこかに哀愁が入り混じっている気がする。どうしてそう思うのか、光には理解できなかった。
「お兄様が会いに来てくださるの」
「そう。パーティーの事で俺に電話してきてさ。光を連れて行くって俺が言ったら、祐太さん言ったんだ」
『今はまだ光に近づくと火傷してしまうんだ。太陽は思ったよりはるかに眩しかった。だから俺はその眩しさに耐えられるくらい強くならなければいけない。そうでなきゃ光と一緒にいれないんだ。今のままでは丸焦げだよ。今回光に再び会って確認した。だから、私が光に負けないくらい輝けるようになったら、私から光のところへ会いに行く。だから今回は連れてこないでくれ。私たちの未来はまだ長いのだから。あぁ、そうだそうだ。光に会ったら言っておいてくれ。もっとかっこよくなって会いに行くよ、と。もっとも、昔のような関係にはなれるはずもないけどね……。それでも、光と離れるのはやはり悲しいよ』
「お兄様の言いそうなこと」
明王寺の黒塗りの車は、光のマンションまで送ってくれた。
「これからパーティーだっていうのに悪いわね」
「いいよ。それに光のこと、祐太さんに頼まれてるんだ」
「そうなの。それも、なんか悪いわね」
「なんでいつも光はそうやって」
明王寺は光を抱きしめた。
「人に気を遣い過ぎるんだい。俺には甘えるって言ったじゃないか」
「智一……。ありがとう」
「うん。いいよ」
黒塗りの車は、明王寺を乗せて来た道を戻って行った。
「あったかい」
光は自分を抱いて確認した。
2サブタイ
明くる日、光の携帯電話に知らない番号から電話がかかってきた。
「はい。七海です」
「おぉ、光。おはよう。俺」
「あぁ。詐欺はお断りしてます。では」
「ちょっと待て! 光っ酷い。俺だよ俺」
いつもながら語尾に音符でも付けたくなるような話し方をする。明王寺だ。
「どうしたの」
「ん。用あって」
「そりゃそうでしょうね。なんで携帯番号知ってるの」
「祐太さんから聞いたぁ」
「そう」
「聞かないの?」
「何を」
「昨日の事。というか、祐太さんの事」
「知りたいことないもの」
「えぇ。絶対聞かれると思って考えておいたのに」
「例えば?」
「かっこよかった? とか」
「かっこよかった?」
「そりゃもう! だって俺の師匠だもん」
「あっそ」
「うわぁ。冷てー」
泣き真似をする明王寺。
「他には?」
「祐太さんの格好!」
「格好? スーツじゃないの?」
「ちっちっちっ。俺の祐太さんを甘く見ちゃいけねぇな」
「朝からテンション高いわね」
「寝てないんだもん。俺」
「それは御苦労さま。私は寝てたのよ」
「だろうと思った。寝てましたって声してる」
「で、お兄様の衣装」
「王子様!」
「は?」
「白くて金の装飾で王子様みたいな格好してた」
「なんで? なんのパーティーだったのよ」
「そりゃもちろん、うちと川崎の提携祝いだよ」
「主役はお父様と明王寺のお父様じゃない。なんでお兄様がそんな目立つような格好しているの」
「さぁ」
「ほんっと、何も考えてないわね」
「うっさい」
「まぁ似合いそうだけど」
「光さん声色違いますよぉ。なに妄想しているんだか」
「うっさい」
「真似するなよ」
「ふん」
「ご機嫌ななめの姫にいいご報告を」
「なぁに」
「祐太さん絡みじゃないから期待するなよ」
「はいはい」
「実は昨日、川崎の別荘の招待状もらってさ」
「へぇ。どこ?」
「軽井沢」
「あぁ。軽井沢のお屋敷は広いわよ」
「そうなんだ。さすが川崎だな。その招待状、光の分もあるんだよ」
「え?」
「祐太さんの計らいみたい。祐太さん達は来ないんだけどね」
「なんで私が」
「夏季休暇、暇でしょ。ドイツにも帰らないって言ってたしさ。人間、たまには遊ばないとね。って、まぁ祐太さんが言ってたんだけど」
「それは嬉しいけれど。招待されたのは明王寺家でしょ? 私がいたら邪魔じゃ――」
「父さん言ってたろ。光も祐太さんも、うちの家族だって」
「それは、ありがたいとは思うけれどね。でもそれ、真に受ける人いるの?」
「あぁもうっ。光はへそ曲がりだっ」
「だって」
「だっても何もない。もう俺が決めたんだ。一緒に軽井沢行こうよ」
「……」
「家族ともいいけど、光いると全然違うんだよ。楽しさ倍増! それに軽井沢の管理人さんも光に会いたいんだって。だから、ね?」
「そうなの……なら行こうかしら」
「そうしよう。もし光に予定がなければ来週。迎えに行くよ」
「何も予定はないわ。でもうち、逆方面じゃない?」
「車なんだから変わんないって。迎えに行く。分かった?」
「はい」
「よし。じゃぁ、来週楽しみにしてる」
「うん。私こそ」
じゃぁと言って電話を切った。いつの間にか逞しくなった明王寺。いや、元々かもしれない。ただ普段は天然キャラの仮面をつけている。本当の明王寺は頼れる男らしい人なんだろう。
「軽井沢かぁ。わくわくするなぁ」
ベッドに飛び込んで考えてみる。どんなお屋敷だったっけとか、管理人の顔とか。本当に懐かしい。五歳の頃の記憶なんて正直そんなに覚えていないけど、印象が強かった記憶は残っている。初めて日本に来た日、それは夏だった。だからアスファルトの暑さなんかに耐えられないと、避暑目的で軽井沢に住んでいた。夏の間だけだったから、日本の本邸より思い出は少ないけど、管理人のお子さんと遊んだ記憶がある。
「早く来週になぁれ」
そんなおまじないをしたところで、五秒程しか進んでいない。
「はぁ」
光にとって夏休みは苦痛だ。日本は分からない。どこに行けばいいのか、何をすればいいのか。一回京都に行ってみたいと思う。あと浅草。それ以外は興味がない。東京タワーもどうして行くのか光には分からない。ただの電波塔を見て何が面白いのか。夏休みの間、究極の避暑地として北海道に出かけようと思っていたが、霞川冒険イベントが終わるまではそんなに遠出はできない。
「勉強も、する気起きないなぁ」
この間の試験が予想外に悪いものだったので、そのあと少し勉強した。だからもう学校でやっている内容は完璧に頭に入っている。
ふいにインターホンの音がした。光を訪ねてくる人は限られている。一弥か、明王寺かお兄様。明王寺は電話で今の今まで電話で話していたのでないだろう。お兄様も来れないと思う。あと一弥の家の近くに住んでいるという真美も可能性としてはある。
「はい」
出てみると今予想していた人物の中に出てこなかった人が立っていた。
「お届け物です」
「あ、あぁ。どうも」
郵便局の方だ。判子を押してお礼を言う。
「そういう可能性もあったわね」
ドアを閉めてから一人で感心する。
「っと。おっも」
段ボールで届いた贈り物はドイツの母からだった。
「なんだろう」
はさみを持ってきて豪快に開ける。
「こっ……」
中身を見た瞬間、光は血相を変えた。
「こんなに」
母の贈り物は決して優しいものではなかった。段ボールの中身は一万冊はあろう書類の束。そして薄い封筒。これは母からの手紙だろう。
『光へ。元気にしていて? 面倒だから挨拶を省かせてもらうわ。夏季休業、暇だと思うから課題をあげるわ。その書類は光の管轄だった部のものだから、分からない事はないでしょう。二ヶ月間、頑張ってね。出来上がったらこまめに送って頂戴。健康には気をつけて。母より』
「……いじめ?」
こんな紙の束は光でも見たことがない。これを二カ月でやれというのか。なかなか無理難題を押し付けてくれる。手紙に至っては、こんな簡潔な手紙を見たことがない。メモ? と思ってしまったのは飾り気のない紙に母の文字が並んでいるからだろう。この書き方。本当にお母様は光の健康を願っているのだろうか。さすが、あのお父様と結婚できた人だ。
「これ、終わんないわよ。絶対」
と言いつつも、書類があると片付けなきゃいけない精神が働いて、どんどん紙をめくっていく。気付くと八時間が過ぎていた。人間の集中力はお腹の減りをも忘れさせるのだ。
「朝も食べてないし、休憩にしよ」
冷蔵庫を開けると、ものの見事にすっからかんだった。
「勘弁してよ」
これじゃ、余り物料理も作れない。仕方なく散歩がてらスーパーに出かけることにした。外へ出て歩いていると、ずっと文字を見ていた目が癒された。気分もすっきりしてきた。冷蔵庫の中身を抜いたのは神様かもしれない。今思うと、歩いて気分転換をしなさいと言われたような気がした。
「何作ろう。簡単なものがいいわね」
スーパーでうろうろしていると、見慣れた顔が二つ見えた。しかしその二人は口論しているようだった。
「スーパーでケンカとはお二人とも仲がおよろしくて」
光が冗談を投げかけると、二人はその冗談に反応しないまま光に寄った。
「ちょうどいいところに光が来たじゃない。謝りなさいよ。私も謝るから」
「お前が黙ってればいいんだよ!」
「一弥がいけないのよ」
「真美はうるさいんだよ」
――二人がこんなに言い合ってるのは初めて見たかも
「だっておかしいでしょ、こんなやり方」
「俺の勝手じゃないか。それに真美だって協力しただろ。共犯だ」
「だから私も謝るって言ってるじゃない」
「二人とも、落ち着いて」
「光! ごめん」
「何が?」
「あぁ! もう勝手にしろ。お前もういらない」
「一弥」
真美は一弥の放った一言を聞いた瞬間、その場にうなだれた。それを無視して一弥はすたすた帰っていった。
「真美。大丈夫?」
「うん。平気。ごめん」
「話し、聞きましょうか?」
「うん。光の話しだし」
「私の?」
少し嫌な予感がした。一弥は光の事が好き。真美は一弥の事が好き。揉める事態は予測できていたことだ。
「とりあえず、うち来る? 今からご飯なの」
「遅い昼食だね」
「仕事しててね。お腹減ってたら食べて」
「うん。もうぺこぺこ」
それから材料を買って直帰した。買い物しているときも、歩いているときも二人は口を開かなかった。
家に誰かをあげるのは真美が初めてだ。お兄様は例外とする。
「本当にここ一人で住んでるの?」
「うん。そう。寂しいでしょ」
「正直ね。でもすごい」
「私はこんなに広い家いらないんだけれどね」
「なぁんか嫌味」
「そんなんじゃないわよ。ただ、この広い部屋に一人で住んでいると孤独を思い出すの」
「思い出す?」
「そう。ドイツにいた頃は今みたいに友達なんていなかったし。家でも一人だったから」
「そうなんだ」
「あ、適当に座って。今ご飯作るから」
「ありがとう」
光は真美にお茶を淹れ、そのままキッチンで料理を始めた。
「お嬢様なのに料理できるんだ」
真美は湯呑みを持ってキッチンにやってきた。そしてカウンターに腰をかけた。
「確かに普段は作らないけど、趣味としてね」
「それ言ってみたい」
真美は先ほどのショックからもう脱しているようだった。素直に笑えている。光は内心、安心していた。
「大きい豚肉。何作ってるの?」
「シュバイネブラーテン」
「何? それ」
「焼き豚ってとこかしら。スープに塩漬けした豚肉やら野菜やらを入れて、オーブンで焼くの」
「へぇ。ドイツの料理?」
「そう。日本の料理作っても面白くないでしょ。せっかく私が作るのに」
「確かに」
豚を焼くのに結構時間がかかる。付け合わせを作っていても、どうしても時間が余ってしまう。
「どうしようかしら。この微妙な時間」
「もう話しちゃっていいかな」
「そうね。その為に来たんだものね」
二人はテーブルに腰かけて、新しく淹れた紅茶をすすった。お菓子はドイツのお土産のクッキー缶。期限が切れているのはここだけの秘密だ。
「まずは謝らせて。ごめん」
「何だかわからないけど。話してくれる?」
「うん。本当、光には迷惑かけた」
真美の話をまとめると、こうだ。
例の三股チラシ事件の写真を撮ったのは真美だという。首謀者は一弥。そしてその日は二人で早くに学校に行き、校内中に張りまわったと言う。
「どうしてそんなこと」
光には理解できなかった。毎日のように話して、仲良くしている友達にそんなことをされるなんて思ってもみない。真美と一弥なんて、容疑者リストにすら上がらない。完全にノーマークだった。第一、真美に一弥の事で恨まれることはあっても一弥に恨まれる記憶はない。真美は誠実にこうして謝ってくれたわけだし、問題は一弥。どうして一弥は光を陥れるような事をしたのだろうか。
「あの日、一弥は光に会いに行かなかった?」
「来た……かも」
屋上に。ただあの時は明王寺と話している最中だった。
「うん。というか行く手筈なの」
「計画的ってこと?」
「そう。この事件の目的はね。その……すごく馬鹿馬鹿しい話しなんだけど」
「うん」
「光が落ち込んでいる時に一弥が慰めに行って、光の心を射止めるっていう」
光は言葉を失った。完全に呆れた。そんなことの為にご苦労様だ。
「私は止めたんだよ。だってそんなことしても光は振り向かない。光は芯が強いから、他人の慰めで心が揺れることはないだろうって思って」
「ありがとう」
真美が正解。真美は意外と光を理解していた。
「真美は優しいのね」
「そんなんじゃないよ」
「そうよ。だって、止めた理由が一弥の為なのだもの。自分の為じゃない。もしかしたらそれで本当に私が一弥に揺れてしまうかもしれない。それでも真美は一弥に協力したのだものね」
「ごめん」
「責めているんじゃないのよ。一途で、とても素敵。羨ましい」
光の頭の中にはお兄様が、違う。祐太が出てきていた。
「光だって、恋くらいした事あるでしょ?」
「そうね。私は一人しか愛したことがないから。よく分からないわ」
「それこそ一途じゃん! 純愛だよ」
「純愛……と言ったらそうかもしれないけど。違うわね」
兄妹。これを純愛と世間は言ってくれないだろう。
「一弥が提案した、霞川冒険イベントで巻き返しを図るっていうのも計算のうち?」
「うん。そう」
「完全にやられたわね」
確かにこれは傷付いた。明王寺程でなくとも、それなりに慕っていて信頼を置いていた人にこんな事をされては、強化ガラスでも割れてしまう。
「だけど私はもう隠すのは嫌だった。だから一弥に言ったの。でもずっとあんな調子。お前が黙っていればいい話だ。ずっとそう言うの」
「そう」
「これからうちと一弥のうちと一緒にご飯を食べるんだ。その買い出しを二人で行ってたの。でももう、これじゃ会えない」
「私は人の相談に乗るのが苦手なの。私の考え方は横暴だし、何しろ相談なんてこの二十年間受けたことがないから。だから何て言っていいか……」
「いいよ。ただ私は光に謝りたかっただけだから。ちなみに、その横暴な考え方を参考として教えて?」
「私だったらすぐに縁を切るわ。親同士が仲いいのでは、ばっちりとはいかないけれど。でももう友達としての関係を捨てる。そんなことする人と一緒にいても何も得られないのだし。好きという気持ちも完全になくなってしまうでしょうね。だから勝手にすればって言うわ。だけど真美は、まだ好きなのよね。一弥のこと」
「うん。自分が馬鹿だと思うけど。好きになるのは本能だから」
一弥もそんなことを言っていた。結局一弥は自分のことしか考えていないのだ。真美がこんなにも好きでいてくれているのに。それを利用しているようにしか見えない。一弥は多分気付いている。真美が好意を持っている事を。それを利用しているんだ。だから『お前もういらない』そんな事が言えるのだ。
「好きな気持ちは変えられない。それは私にもわかる。だからどうしたらいいのか分からないっていうのも理解できる。だから私にも分からない。本当はアドバイスしてあげたいのだけど」
「いいの。そんなこと。今私が願ってるのは、光に許してもらうこと。ごめんなさい」
「何度謝るのよ。私は二人を咎めるつもりはないし、責めてなんかいない。あんなの、私の人生において本の小さな出来事にしか過ぎないのだから」
「光は、本当に強いね」
「そうじゃないわ。ただ、そう楽観的なのよ」
「羨ましい」
「そうだ、今日はうちに泊まって行ったら?」
「いいの? 仕事の途中なんでしょ?」
真美は書斎の方を指差した。リビングへ来る途中通る部屋だし、ドアも開いていた。あのぐちゃぐちゃな書類を見たのだろう。
「いいのいいの。期限は二か月後。余裕よ」
強がってみせたが、二か月で終わる目途は立っていない。
「ならお言葉に甘えて」
「どうぞどうぞ」
「それより」
神妙な顔をして真美が光を見つめた。まだ何かあるのか。光は構えた。
「豚は大丈夫なの?」
「あぁ!」
どうか今の『あぁ』は濁点を付けて読んでほしい。二人は一時間程話していた。光は慌ててキッチンへ走って行った。あとから静かに真美がついて行く。
「どう?」
真美が覗き込むと面白い豚肉が出てきた。
「片面真っ黒。裏は生」
ひっくり返すということをしなかった豚肉は滑稽な姿で出てきたのだ。
「裏焼けば食べられるよ」
「そうね」
「へぇ。光でも落ち込むんだ」
「え?」
「光って強いイメージあったから。あとポジティブ。だからそんな顔初めて見た」
「そうだっけ」
確かに気を許した人にしかこういう顔は見せない。真美にも気を許せたという事だろうか。
「嬉しいな」
真美は本当に表情に感情が出る人だ。喜ぶ時は満点の笑みを浮かべる。そして悲しい時は泣きだしそうな顔をする。光は真美のそういうところが大好きだった。
焦げた部分を切り落としたら、随分貧相な豚肉になってしまった。それでも付け合わせを沢山作ったからお腹いっぱいにはなり、真美も満足してくれた。
「美味しかった」
「ありがとう」
「親御さんには連絡した?」
「うん。さっきした。泊まるって言ってあるから平気」
「そう」
二人でトランプをしているとチャイムが鳴った。
「誰だろう」
ドアを開けるとすごく怖い顔の明王寺がいた。
「ど、どうしたの」
「田波だよ」
「は?」
「犯人は田波だ」
「写真の事じゃないの?」
後ろから真美が口を挟んだ。
「こんにちは。明王寺くん」
真美の姿を目に入れた明王寺は更に怖い顔になった。
「こいつもだ」
真美を睨む明王寺の顔は今までに見たことのない顔だった。こんな明王寺を見ていると、客観的に見られるものだ。
「うん。知ってる」
「知ってるって」
「まぁ、立ち話もなんだし上がって。紅茶くらい淹れるわ」
明王寺は光の冷静さに言葉が出なかった。
「どうぞ」
やっぱり明王寺はこれでもかって位お砂糖を入れる。
「あれ、うちと同じ味」
「これ、早苗さんが明王寺家にいた時にもらった紅茶」
「あぁ。気に入ってたもんな」
「うん」
少し沈黙が流れる。
「わざわざ来てくれたの?」
「まぁ」
「電話で良かったじゃない」
「俺、電話はあまり好きじゃないから」
「お兄様と同じね」
「…………」
「お兄様も電話は嫌いだって言って会いに来てくれるのよ」
「俺は光の兄様じゃない。祐太さんじゃないんだ」
明王寺の様子はいつもと明らかに違っていた。
「どうしたの」
「それはこっちのセリフだよ」
そう言う明王寺は微笑んでいた。それはいつもの微笑みだった。
「どうしてそんなに普通にしていられるの? 犯人が横にいて」
「友達だから」
「光」
真美はうるうるとした目で光を見つめた。
「友達だから、もう許したの。真美は謝ってくれた。ちゃんと誠意を持ってね。だからもういいの」
「じゃぁ、田波も許すのか?」
「ちゃんと謝ってくれれば」
少し沈黙が流れた。
「光。俺とパレード回ろうな」
「え?」
「プリンセスになれよ」
「多分、無理」
「最初から諦めてたらだめじゃないか。これは祐太さんの時とは違うんだから」
「そうだけど」
「じゃぁ、決まり。光のドレス楽しみにしてるよ」
「うん」
「そろそろ俺は帰るよ。ごちそうさま」
そう言って明王寺は玄関に向かった。
「待って」
振り向く明王寺は温かい夕方の陽の光に包まれていた。
「ん?」
「いいのよ。約束なんて破っても」
「約束?」
「お兄様との約束」
『光は智一に任せるよ』
「光はバカだなぁ、ほんと」
「バカって」
「俺は俺の信じた道を進んでいるだけだよ」
「?」
「じゃぁ、またね」
静かにドアが閉まった。
「バカって何よ」
光の言葉が広い玄関に響いた。
「ははーん」
リビングに戻ると真美が頬杖をつきながらニヤニヤしている。
「なぁに」
「青春だなぁっこのやろう」
「何言ってるのよ」
「バレバレなのよ、明王寺くん。光のこと大好きじゃない」
「ああいうのをシスコンって言うのよね」
「そうじゃなくって」
真美はカップを三つトレイに乗せてキッチンへ向かった。
「明王寺くんは、光のことが好きなんでしょ。女として」
「まさか」
光は真美の洗ったカップを布巾で拭う。
「私は当分、恋愛はしたくないのよ」
――お兄様以外の人を愛す事が怖い
「どうだか」
「もうからかわないで」
「はいはい。いつか気付くよ」
光は煮え切らない顔を浮かべた。
「それにしても、明王寺学校の時のキャラと全然違うね」
「あぁ。二重人格なのよ。性質の悪い」
「そう言えばそうだけど、光に心許してるって感じ」
「私も心許してるから。智一には」
「会社の関係?」
「まぁ……そうなるかしらね」
「ふーん」
光は人のことなんて言えなかった。
明王寺が、光のことを想っているなんて考えもしなかった。
サブタイ
ピンポーン
早朝、光の家のチャイムが鳴った。
「はーい」
ドアを開けると明王寺が立っていた。
「おはよう。持つよ」
そう言って明王寺は光が持っていたボストンバッグを抱えた。
そう、今日は軽井沢の別荘に行く日だ。
「ありがとう」
階段を下り、外へ出ると明王寺のお父様とお母様が車に乗って待っていた。
「おはようございます。お待たせしました」
「おはよう。わくわくするわね」
「ええ」
お母様のテンションは物凄く高い。一方。
「おはよう」
お父様は朝が苦手なのか、いつもの元気がなかった。
光と明王寺が乗り込み、車が発進する。
運転手はお父様。助手席にはお母様。そして後部座席には光と明王寺が乗っている。まるで家族のような画だ。
そして車の中にかかっているラジオでは、ちょうど川崎と明王寺の資本提携に関してのニュースだった。
「休暇なのに仕事の話とは」
落ち着かないね、とお父様がラジオを切った。ラジオの音が消えた車内は、窓から吹き付ける風の音だけとなった。
「俺は初めて行くから、よく知らないんだけどさ」
光が外を眺めていると、明王寺が突然言いだした。
「ん?」
「祐太さんが言うには、軽井沢の別荘には管理人の子供が二人いるんだってな」
「ええ。双子なのよ。私もよく覚えてないけど」
「二卵生の男の子と女の子だろ」
「そう。私たちより一つ下の。確か……真晴くんと静雨だったかしら」
「気に食わない」
「え? 何が」
明王寺はそれからずっと黙ったままだった。
――双生児が羨ましいのかしら?
顔すら覚えていない二人との過去なんて、光の頭に残っているはずもなかった。
「気持ちいー!」
車から出て深呼吸をすると、澄んだ空気が胸へ入る。都会の空気とは比べ物にならない程気持ちがいい。気持ちがいいのは、何時間も車に乗っていたせいもあるだろう。夏休みということで、道路が酷く混んでいた。
――いつもどれくらい空いているか知らないけど、あの渋滞は地獄だったわ
「お待ちしていました。光様、明王寺様」
駐車場まで迎えに出てくれたのは、川崎軽井沢邸管理人。
「はじめまして。軽井沢邸の管理を任されております、富井一郎と申します。こちらが妻の洋子です」
一郎が紹介すると、洋子は頭を下げた。
「光様、お久しゅうございます。大きくなられて」
「元気そうで何よりですわ。旦那さまと……その、昔の奥様が離婚なさってから、光様のことが気がかりで」
「心配かけてごめんなさいね。でも元気よ。お兄様ともこの間お会いしたし。ありがとう」
「いえ」
洋子は久しぶりに会うお嬢様の笑顔に笑顔を浮かべた。
「では、中へご案内いたします」
明王寺一行は緑の豊かな敷地内を歩いていく。
「なぁ」
明王寺が光に耳打ちをする。
「俺たちより一個下の双子がいるんでしょ?」
「そうよ」
「何歳で産んだんだろ」
「ははは」
一郎と洋子は七〇は過ぎているだろう老夫婦だった。
「面白い発想ね」
光は知っているから、そんなこと思ってもみなかった。
「お二人は祖父祖母よ」
「なるほど」
この屋敷には富井家三代が暮らしているのだ。
屋敷の中へ入ると、まず大きなエントランスが出迎えた。
「こちらの屋敷は旦那様の意向で洋式になっています。明王寺様のお屋敷も洋式と聞いていますから、不都合はないでしょう」
そこへ男女二人ずつがやってきた。そして全員頭を下げる。
「いらっしゃいませ。光様、明王寺様」
「あれか」
明王寺が一言呟く。
「私は富井直人と申します」
「私はその妻、真由子です。この子たちは真晴と静雨です」
「よろしく」
お父様が代表して挨拶をした。
「光様、お久しぶりにお目にかかります。お元気そうで何よりです」
「ありがとう。みんなも元気そうで安心したわ。でも正直、あまり覚えていないのよ。ごめんなさいね」
「小さい頃に一度お会いしただけですから、覚えていなくて当然です」
「そうね。でも少し思い出してきているわ。この屋敷、懐かしいもの」
「それはそれは。では皆様、一週間どうぞごゆるりとおくつろぎ下さい」
「ええ」
「お荷物をお部屋に運びます。その間、客間でお茶をお召し上がりください」
直人が光の荷物を担ぐ。光たちは客間に通され、お茶を頂いた。お茶を淹れたのは、洋子さん。さすが早苗さんより年季が入っている。慣れた手つきだ。
「本当に広いね」
明王寺は光の横で、いつものお砂糖たっぷりの紅茶をすすりながら言った。
「ここは見ての通り、富井さんのご家族が多いから」
「そんな理由で」
「多分」
ここは日本の本邸よりも広いだろう。多分それは富井一家が多いからという理由と、都内は敷地が狭いからという二点だろう。
「造りも素敵ね」
お母様は周りを見渡してニコニコしている。今光は川崎の人間ではないけど、お母様が喜んでくれて良かったと思っている。
「坊ちゃんもこの間、一度いらしたんですよ」
洋子さんが光に投げかける。
「日本の屋敷に、挨拶周りだとか言って。礼儀正しいですよね」
「祐太さんらしいや」
――ここにお兄様がいた
そう思うと自然に笑顔が溢れ出す。
「光君、顔が緩み過ぎだぞ」
お父様がからかう。
「あ、失礼」
光は初めて、人の笑いをとることができた。
「失礼します」
荷物を運び終えた富井一家が入ってきた。
「お荷物、運びおわりました。こちらがルームキーです」
「ご苦労様」
光は、渡されたルームキーに異変を感じた。
「智一、キー見せて」
明王寺はきょとんとした顔でキーを渡す。
――やっぱり
「お待ちなさい」
ごゆっくり、と言って部屋を出ようとする富井一家を光が止めた。
「どうしたの?」
明王寺一家は、いつもと違う凛々しい姿の光を驚いて見ている。
「こういう待遇はおかしいですわ」
「と、言いますと」
「私の部屋はこの方たちの倍、広さがあるお部屋じゃありませんか」
「よく覚えていらっしゃる」
真晴が馬鹿にした口調で言ったので、真由子が頭を叩いた。
「失礼いたしました。しかし、光様は旦那様のご子息ですので」
「お父様が言ったの? それともお兄様の指示?」
「いえ、独断です」
「なら今すぐ部屋を変えてちょうだい。私は明王寺として来ているのよ。差をつけたら失礼だわ」
「はい、ただいま」
富井一家はそそくさと部屋を出た。
「いいのよ、光ちゃん。あの人たちの言っていること間違いじゃないのだし」
「そうだよ、川崎の愛娘じゃないか。それくらいの待遇は当り前だよ」
「今は、明王寺のご家族にしていただいていますから」
明王寺家は、なんとも複雑な心境に陥った。
「それにしても、よくキーだけで分かったね」
「うん、私が使っていたキーとここが違うのよ」
比べて見せる。少しだけ鍵の部分が違う形をしている。
「これ、お父様が持っていたキー」
光は自分でも、気付いたことに驚いていた。
「さぁ、部屋を見にいきましょうか。きっとメイキングも終わっている頃だし」
お母様がみんなを立たせた。
「そうだな」
客間を出て、中央の大きな階段を上る。
左に曲がると男性用の部屋が並んでおり、右に曲がると女性用の部屋が並んでいる。このタイプの屋敷はだいたいそう決まっているのだ。そして例えば書斎は男性側、ピアノ室は女性側と、フランス語の男性名詞・女性名詞のような決まりのない決まりで部屋が左右にわかれている。
「ではまた後で」
お父様が手を上げ、左に曲がって行った。明王寺もそれに続く。
右に曲がるのは光とお母様。客室は階段を右に曲がって、更に角を曲がったところから六部屋ある。お母様は角を曲がってすぐの、二番目の部屋だ。
「ここだわ。じゃぁね、光ちゃん」
「はい」
――私の部屋はどこだろう
さっき渡されたルームキーは、一階の主人室だった。この人数だと、一部屋空けて隣の部屋を用意するだろう。
――ここかな
試しに開けると、鍵はかかっていなくすんなり開いた。
――キーも届けにこないで、何やっているのかしら
入ると、人がいるのを確認できた。
「まだ終わっていなかったかしら」
声をかけると、その人物は光の方を向いた。
「なっ」
こともあろうか、使用人風情で主人のベッドに横たわっている。光はあまり使用人を見下すタイプではないが、これは光の常識を超えていた。
「やぁ、光。早かったね」
そこにいたのは真晴だった。
「無礼者! すぐベッドから降りてちょうだい!」
「光は怒りっぽいなぁ」
そう言って素直に降りる真晴。
「主人を呼び捨てにするなんて、重ねて無礼よ」
「だって、光はもう川崎じゃないんでしょ?」
「っ………」
「ならしょうがないよね」
「客人なら呼び捨てにしていいという教育を受けたのかしら?」
「………」
「富井の血をひく者なら、誇りをもって川崎に仕えなさい」
「あーあ、うるさい」
真晴は光の腕を引っ張りベッドへ押し倒した。
「真晴っ」
「ごたごたうるさいお姫さまだなぁ」
光は必死に抵抗する。
「僕が一つ年下だろうと、男なんだから勝てるはずないよ」
「使用人の分際で」
言った事もない言葉を口にする。
「愛に立場なんて関係ないでしょ? 使用人だろうと、兄妹だろうと」
「え……」
その言葉を聞いた瞬間、光の力が抜けていった。
「やっと大人しくなった。僕は男の中じゃ力弱い方なんだから。体力使わせないでよね」
「あ……んた」
――何で知ってるの? お兄様のこと
「ね、光。もっかい僕の名前呼んでよ。さっき呼ばれて興奮した」
――何考えてるの、こいつ
「ねぇ、呼んでよ。じゃないとこのまま犯しちゃうよ?」
「ちょっ」
真晴の手は光の服の中へと侵入していった。
「やめなさい」
そして背中に回り、いとも簡単にホックを外した。
「慣れてるわね」
光のプライドは、光の口からそんなことを発しさせた。
「僕、女の子に困ったことないから」
そして下着を上げる。
「光に失礼なこと言っちゃったから、謝りついでに鍵渡すって母さんに言ったんだ」
「じゃぁ、キーをちょうだいよ」
「だめ。ちゃんと謝って、償ってから。体で」
そう言ってシャツをめくった。
「やっ」
――助けて……助けて智一!
「かわいいよ、光」
真晴は光の胸に顔をうずめる。
「やめてっ」
そこへ。
「おい」
自分以外の男の声に、真晴は驚く。
「何しちゃってんの? いいねぇ、盛り時かい」
「智一!」
緩んだ真晴の体を振りはらい、光は智一に飛びつく。明王寺は光の肩を抱き、頭を撫でた。そんな明王寺に震えながらしがみ付く。
「あーあ。光涙目じゃん。真晴くんだっけ? 女の子は泣かせちゃだめなんだよ」
「ちっ」
「真晴くん。一つ言っておくけど、光を強姦していいのは俺だけって決まってんの。ささ、帰りたまえ」
「何よそれ」
光が小さく呟く。
「今度また、ちゃんとお礼するから。光」
真晴は光にキーを握らせ部屋を出て行った。
ドアが閉まるのを確認して、明王寺は光の後ろから下着をつけてやった。
「おいで」
明王寺は光をソファに連れて行き、隣に座らせた。そしてしっかりと肩を抱いた。
「何か飲む?」
「いらない」
「ミルクティーなんか落ち着くよ」
「いらない」
光は下を向いて、体を強張らせている。
「俺の時もこんなんだったの?」
「………」
「同じような事やった俺には慰める資格ないかな」
明王寺は肩に回していた腕をほどこうとした。
「まって」
その手を掴む光。
「ちゃんと償いなさいよ。こういう時でしか償えないんだから」
「……かしこまりました、お姫様」
智一はそっと、でも強く光を抱いた。
「泣いてもいいんだよ」
「泣かないわよ」
「うん」
「泣くわけないじゃない、このくらいで」
「うん」
「でも……本当は怖かった」
「うん」
「来てくれてありがとう」
「うん」
「あ……りが、と」
「うん」
光は涙を流した。でも決して泣きじゃくった訳じゃない。そこに智一がいたから。
「智一といると、安心する」
「俺なんかでよければ、いつでもいるよ」
「ありがとう」
光からも智一に寄り添う。
「あの時はごめんな」
智一が気まずそうに言いだした。
「一回聞いたわよ」
「でも、もう一回言わなきゃいけないような気がして。あの時もこんな風に怖がってたんだなって思うと、俺どうしたらいいか」
智一は斜め上を見ていた。どこを見ているのかはわからない。遠い記憶を見ているのかもしれない。
「あの時、なんであんなことしたのか今は言えないけど。いつかちゃんと言うから。だから、今はごめん」
「智一にはいっぱい、いろんなものをもらったからいい」
「さんきゅ」
二人は静かに抱き合った。
光と智一は、気分転換に外を散歩しようということになった。
一郎さんが一階にいたので、一言出てくると言ってエントランスを出た。
門まで少し遠い。周りは緑一色で、下には花が植えてある。冷たい空気が気持ちいい。
「なんか、東京じゃ考えられないくらいのんびりしてるわね」
「そうだね」
二人は言葉数を少なくして歩いた。
ふと二人の目に入ったのは、静雨。遠くから見ると、花と話しているように見える。
二人は静雨に話し掛けるつもりはなかった。
「雨の匂いがする……」
静雨は空を見上げた。
「あ、お嬢様と智一様」
二人を確認した静雨は駆け寄る。
「何しているの?」
「雨の匂いがするんです」
「敏感なのね」
「これから雨が降りますよ。外へお出かけになるなら、傘を持っていった方がいいです」
「ありがとう」
「よく分るね」
智一が感心した目で見つめる。
「名前に雨が付いていますから」
――そういう問題なの?
真顔で言う静雨を見て、二人はきょとんとした。いや、真顔というより無表情なだけなのかもしれない。
「じゃぁ真晴は晴れの日が分るのかな」
智一が嫌味ったらしく言った。
「やめなさいよ」
「真晴はそういうことはできません。明るい方を歩いていますから」
「じゃぁキミは暗い方を歩いているの?」
「どちらかというとそうです」
「なんてこと」
「私たちの名前の由来は、せっかく二人で生まれてきたのだから、二人で力を合わせなさいという意味なんです」
「力を合わせる?」
「真晴が大地を照らし過ぎて枯れてしまいそうになったら、私が雨を降らし恵みを与えるんです」
「深いわね」
「だから、私はお嬢様をお救いしなくてはいけません」
「え?」
「真晴はお嬢様に近づきすぎました」
「何で知ってるんだ」
智一は怒った顔で言った。
「双子ですから」
相変わらず無表情な静雨。
「あ、こんなところに傘が二本。どうぞ、使ってください」
静雨は振り返り、傘を手に取る。
「あなた、最初から用意していたのね」
「そんなことありません」
「傘一本でいいから。ありがとう」
二本差し出す静雨の手から智一が一本取ってその場を後にした。
「静雨ちゃんて天然だな」
緑道を歩きながら智一が言った。
「智一に言われたくないと思うわよ」
「まぁそれもそっか」
「でも、言いたい事はわかるわ」
「正真正銘の天然」
「そうね」
二十分程歩いていると、静雨の言った通り雨が降り出してきた。
「おお。的中」
「傘さしてちょうだい」
「はいよ」
一本だけもらった傘の中に二人で入る。光はどうして二本もらわなかったのかと思ってみたりしたけれど、近くに智一がいる心地よさに気付き聞かなかった。
「おかえりなさいませ」
屋敷へ戻ると、静雨が一人出迎えてくれた。
「ただいま。あなたのおかげで濡れなくて済んだわ。ありがとう」
「いえ。お風呂の支度ができています」
気が利く子だ。
智一は光に先入っていいよ、と促した。
「支度をするわ」
傘を傘立てに入れ、真っ直ぐあの大きな階段を上る。智一は左、光は右に曲がった。光の後ろには静雨がついてきている。
「あ」
光は自分の部屋の前にいる人物を確認した。
「おかえり、光」
真晴だ。
「真晴、お嬢様はこれからお風呂の準備をするんです。どいてください」
光が言葉を発する前に、静雨が前へ出た。
「静雨は主人に忠実だな。いつか嫁いで、この仕事も辞めるのに」
「真晴がこんなんでは、お嫁にもいけません」
「じゃぁ静雨が継いでよ。僕は光と結婚して、七海家に行くからさ」
「戯言もいい加減にしてください。寝言は寝て言えって言うんです」
声も変わらず無表情だった、
「静雨。もう良いわ」
「でも」
「静雨が何言っても聞かないでしょうから。智一にお風呂先入ってもらってちょうだい」
「お嬢様、危ないです」
「いいこと、私はこう見えても武道は得意なのよ。来ると分かっていれば簡単なことだわ」
「……では失礼します」
静雨は来た道を戻っていった。
「さて。どうする? 中にでも入る?」
「素直に入ってくれるなんて嬉しいや」
二人は光の部屋に入った。
「ねぇ、光。僕は光が強いのは知ってるよ」
「そう。なら出て行ったら?」
「でも知ってるから、僕だって鍛錬してきたんだよ。力だって光より強い」
「武道は力じゃないでしょう?」
「そうだね」
光が真晴に背を向け、ソファに座ろうとした瞬間。
「隙あり」
真晴は後ろから光の腕を掴んだ。光はその腕を掴み返し、床に投げた。
「隙なんて作るわけないじゃない。危ない男に本気で背中を見せると思って?」
投げた体を半回転させ、腕を背中に組ませた。そしてその上に光がのしかかる。
「さすが」
「まぁ、これからどうしようかって話なんだけどね」
真晴を動かせないようにしたはいいものの、この後はノープラン。
「人を呼ぼうにも私も動けなくなっちゃったわ」
光がどうするものかと考えている時、ドアの開く音がした。
「ほんま、さすがやなー」
そこには少し焼けた少年が立っていた。
「お見事やな。あねはん」
「匠!」
きょとんとしている光に、その少年はため息をついた。
「なんや覚えてないんか。残念やなあ」
少年は真晴の首を掴み、ぞんざいな扱いで立たせた。
「俺は光姉さんの子分、大東匠」
「あっ匠!」
匠は大東流古武道二十五代目次期当主の名前を持つ、すごく強い少年だ。この屋敷で光が暮らしていた頃、周りにちやほやされていた匠が光に負け続け、いつの間にかあねはんと呼ばれるようになっていた。真晴とは幼馴染だ。
「久しぶりね。どうしてここに?」
「静雨に呼ばれてきたんですわ。真晴が何やらやらかしてるっちゅーて」
さすがは静雨である。
「ほんで来てみれば、見事にやられてもうたなー真晴」
「うるさい」
「かっこ悪」
「てめっ」
「ほんなら、あねはんに謝ろか」
「何で」
「真晴に非があるのは確実やないか」
「光は僕の嫁だ。何がいけないんだよ」
「まだんなこと言ってたんかいな」
匠は頭をぽりぽり掻いて言った。
「すんませんけど、謝らせるのは無理みたいや。こいつ連れて行くから堪忍してくださいな」
「そうね、早く出て行かせてちょうだい」
「えらい嫌われてんなぁ真晴」
「照れ隠しだよ」
「はいはい。ほな、お気をつけて。あねはん」
「ええ。ありがとう」
匠が真晴を引っ張り部屋を出て行った。
「避暑ってこんなに疲れるものだったかしら」
光の声が広い部屋に響いた。そして、怒涛の一日目が終わったのである。
二日目。光の部屋に匠が尋ねてきた。
「おはよーございます、あねはん」
「まぁ。おはよう」
光がソファに座るようすすめる。
「失礼。お仕事でしたか」
「ええ、まぁ。お母様から書類が二万冊近く送られてきちゃって」
「そりゃ難儀やなぁ」
光は家から書類を持ってきていた。この涼しい空間だと、いつもより進みが速い。
「昨日はありがとう」
紅茶を淹れ、向かい合って座る。
「いやいや。あいつ、反省の一つもせんで部屋にこもりきりや」
「そう」
「あねはん、真晴の事えらい嫌ってるんやね」
「そりゃ、そうよ。あんなことされれば」
「静雨から聞いたで。まぁ、嫌うのもしょうがないかもしれへんけどな」
「何か言いたげね」
匠の表情を汲み取って言った。
「真晴の肩を持つつもりはおまへんが、真晴も悩んでるんだと思うでよ」
「どうして?」
「あねはんは、真晴とした約束覚えておらへんやろか」
「約束?」
「覚えてへんならええんです。一郎はんに朝食だと呼んできてくれって言われてたんで、紅茶もったおらへんけど食堂行きまひょ」
「ええ」
――約束……思い出せない
したような、してないような。七歳の時のことなんて覚えていない。
「遅くなってしもてすんまへん」
明王寺家の方々は朝食を手につけず、光を待ってくれていた。
「ごめんなさい、仕事を区切りのいいところまで終わらせたくて」
「いいのよ、さぁ食べましょう」
「ほな、遠慮なく」
匠もお客様なので、明王寺と一緒に食べることになっていたらしい。
「いただきます」
今日の朝食は光に合わせたのか、洋食だった。パンとスクランブルエッグ、ハムにヨーグルト。さらにはフルーツまで付いていた。
「ここでも仕事なんて大変だね」
智一が卵焼きに砂糖をふりかけながら言った。智一の甘党は、紅茶だけではないらしい。
「お母様から二万冊も書類が届いてね」
「二万!」
「厳しいお母様ね」
智一のお母様が目を丸くした。
「光君に信頼を置いているんだよ」
お父様はそう言ったけど、そこまで人情がある人じゃない。
「でも夏季休業は暇ですし、暇つぶしには丁度いいです」
「頑張り屋さんね」
お母様が微笑んで言った。匠のことは既に聞いていたのか、明王寺家の人たちは光に匠のことを聞かなかった。
「みなはん、今日の予定はどうなってますやろか」
朝食を食べ終えて、コーヒーをすする。
「特に決めてないけど」
コーヒーにスプーン四杯の砂糖を入れる智一が、光の目に入った。
「ほんなら、ショッピングモール行きまへんか」
「ショッピングモールなんて行ったことないわね」
お母様が目を輝かせた。
「やっぱ来たからには、前半は遊ばなきゃ損だと思うんや」
「確かに」
「んでもって、わいも一緒に行きたいんやけど」
光は明王寺家に目を配る。
「俺は別にいいよ」
「構わんだろう」
「人数は多いほうが楽しいものね」
全員一致。
「おおきに」
ということで、各自部屋に戻って仕度をすることになった。
「あねはんはちょっと待っててください」
匠はそう言うと走って部屋を出た。
「あの匠ってやつ、俺嫌いじゃない」
智一が寄ってきて言った。
「どうしてそう思うの?」
「仲間意識強いし、周りに気遣えるから」
「そう」
どうしてそんなことを言ったのか光には理解できなかったが、これから一緒に買い物に行く人を嫌いに思っているよりずっといい。
「じゃ、あとで」
「ええ」
智一が部屋を出てからすぐ、匠が入ってきた。静雨を連れて。
「おはようございます、お嬢様。御仕度手伝います」
「ありがとう」
本来なら匠が一緒に居たほうが安全だが、着替えを覗く訳にもいかないので静雨を連れてきたそうだ。
「わいは部屋の外に立ってます」
「でも匠も仕度しないと」
「これで十分や」
Tシャツにジーンズ。パーティーでもないので十分な格好だった。
そんなこんなで仕度も終わり、お父様の運転で出かけることになった。一郎さんが車を出すと言っていたけど、それでは気を遣って存分に楽しめない。
「出発進行!」
一人テンションが高い匠が言った。
「いつもこんなんなの?」
智一が隣で言う。
「さぁ。覚えてない」
「そうですか」
来たとき同様、お母様は助手席。後部座席に光と智一。その後ろに匠が座っている。人数が多いので、今日はワンボックスカーだ。
「わくわくしますなぁ、あねはん」
「匠、何か欲しいものはあって?」
「ちょっとな」
意味深な言葉を発する。
「そう」
それからというもの匠がゲームをやろうと言い出し、山手線ゲームやらしりとりやらマジカルバナナやらと車の中は終始うるさかった。
「つ、疲れた」
やっと着いた、と智一が肩で息をする。光も同様。二人は匠のテンションについていけなかったのである。
「ほんま、でっかいなぁ」
建物を見上げて匠が呟いた。
「あねはん何も言わへんけど、これ川崎グループの経営だって知ってまっしゃろか」
「え、知らない」
「知らなかったのかい? てっきり知ってるものだと思ってたよ」
お父様がびっくりして言った。
「お父様の事業には、詳しくないので」
少し重たい空気になったのを感じた。
「ささ、行きまひょ」
中に入ると、どこから回ったらいいのか分からない程お店が並んでいた。そんな状況も匠に着いていけば楽なのを光も智一も学んでいる。
「なんやこれー。誰が買うんや!」
大爆笑する匠を四人は一歩引いて見ている。どこから湧いてくるのか分からないテンションの高さに戸惑いはするが、先陣をきってくれるのはありがたい。
でも匠はお店を見るなり、キッチン用品は足りてます? とかお父様スーツは足りてますか? とかとても気を遣える子だった。
――私より一つ下なのに
「ここ、あねさんに似合いそうな服ばっかでっせ」
若い女の子向けのお店を発見して、中に入る。
「まるで別世界ね」
光の服装は清楚系というのか分からないが、白無垢のワンピースだったり丈の長いスカートだったりが多い。
「光はオレンジが良く似合う」
智一が持ってきた服を体に当てる。
「こんな服、着たことないわ」
少し露出の多い服だ。
「あねはん、まだ若いんやからこういう服も着ないともったおらへんや」
「でも」
「ちょっと着てみなよ」
試着室に追いやられた光は、渋々袖を通す。
――これ……ちょっと胸あきすぎ。足もこんなに出る
「終わった?」
「はよ出てきてーな」
男はせっかちである。
「着たけどこれ、ちょっと無理があるわ」
外の男性陣は光の気お構いなしにカーテンを開けた。
「おお」
「かわええ」
智一と匠は顔を合わせてニヤけた。
「ちょっと私の好みと違うわ」
「そういう服も着ておいた方がいい。若いうちは」
見ればお父様もニヤけている。
「あなた」
もちろん正したのはお母様。
――デジャブ
「ほんま、注目の的や」
「買いだな」
「着替える」
「だめだめ、このままお会計」
「買わないわよ」
「俺が買う。すみません、これこのままお会計」
智一が近くにいた店員さんに声をかけた。そしてちゃっかりお会計をしている。その間、匠は光の脱いだ服を畳んで抱えていた。光に有無を言わさない、すごい連携プレーだ。
「嫌よ、こんな格好で歩けない。というか歩きたくないわ」
「オレンジすごい似合ってるよ」
「どうせ智一の好みでしょ」
お母様が口を挟む。
「バレたー」
「もぉ! 着替え返して」
そんな光をよそに智一と匠は息統合している。
「光はスタイルいいから、こういう服着せたかったんだよね」
「あんさん、お目が高い!」
「だろ!」
「二人ともっ」
怒っている光に智一がおもむろに近づき、耳元で囁く。
「かわいいよ」
それを聞いた光は顔を真っ赤にした。
――なんや、デキてるんか
「着替えはこっちのもんや」
仕方なく、恥ずかしい格好で買い物をすることにした。
それから何件かお店を回って、昼食を取ることになった。みんなで決めたレストランへ入り、料理を注文する。イタリアンのお店なのでスパゲティがメインだ。
「どうした、光」
智一は隣に座っている光に異変を感じた。
「なにが?」
光は俯いていた顔を上げ、笑顔を作った。
「何泣いてるの」
「あんさん、何言うてるん。あねはん泣いてへんやん」
「そうよ、何言ってるの」
口ではそう言ったものの、気づかれてしまった光の目からは涙が零れ出た。
「あねはん!?」
一同は揃って動揺した。泣かせるようなことをしたか、と。
「そんなに嫌だったんかいな、その服」
「違うのよ、違うの」
「外、出ようか」
光は黙って頷いた。智一が光の肩を抱いて、連れ出す。
「智一も大人になったもんだ」
「そうですね」
お父様とお母様は関心して我が息子を眺めていた。
「あの」
光は振り向いて声を絞り出した。
「この服、本当は嬉しかったの。二人が選んでくれて。だから気にしないで」
それだけ言って、店の外へ出た。
「待ってて」
ちょっとしたベンチに光を座らせた。
「はい」
智一は自動販売機で買ってきたペットボトルのミルクティーを差し出した。
「ありがとう」
「少しは落ち着いた?」
「ええ、ごめんなさいね。楽しい時間だっていうのに」
「いいんだよ」
ミルクティーのキャップを捻り、一口飲む。
「最初から、こうなるんじゃないかと思っていたのよ」
潤った喉から言葉が溢れ出す。
「でももう平気だとも思った。吹っ切れたと思ったのに」
光は胸から下げていた、翡翠のペンダントを握った。
「お兄様がずっと出てきてて、でももうちゃんとしたから大丈夫だと思ってたのに」
言葉にすると、また感情が湧いてくる。そして涙も。
「でもちゃんとしたから、ちゃんと別れたからこそまた辛いの」
「うん、分かるよ」
光は祐太とショッピングモールを回った日のことを思い出していた。別れを決心したあの日の、辛い感情が再び光の心を締め付けていた。
智一は光の頭を抱え、ずっと頷いている。
「お兄様はかっこよくなってまた会いに来るって言ってくれたのに、私は全然成長してなくて。ショッピングモールに来るだけでこんなに悲しいの」
光の頭を撫でる手が涙を誘った。
「私、来世まで待てないわ……待てる気がしない」
「大丈夫、ちゃんと生きていれば楽しいことが見つかるんだ。好きな人だって」
「好きな人なんてできない!」
「でも光はその為に日本に来たんだろう?」
祐太の爪あとをドイツに置いてきて、新たな人生を歩もうと。
「でもまたお兄様に会ってしまった」
「しょうがないじゃないか、兄妹なんだから」
嬉しくとも悲しくとも取れるその言葉に、光は声を上げて泣いた。通る人々は何事かと二人を見るけど、智一も光も気にはしない。
「でもね、」
また少し落ち着いて光は智一を見上げた。
「今は智一がいるから平気」
拭いていたハンカチを膝に置く。
「本当は何で気づいたのって思った。でも、今は気づいてくれて嬉しいって思っているわ」
智一の笑顔が歯がゆい。
「お兄様は分かっていたのね。智一が私を見抜けること」
「当たり前だろ、俺は祐太さんに認められた男なんだから」
「ふふ、そうね」
「やっと笑った。もう大丈夫?」
「ええ、みんな待たせちゃった。行きましょうか」
「待って」
智一は急に真剣な顔をした。
「なぁに」
「俺のいないとこで泣くなよ」
「智一」
「ちゃんと俺のとこ来て泣くこと。分かった?」
「うん、ありがとう」
「じゃ、行こうか」
席に戻ると料理は運ばれていて、みんな先に食べていた。
「悪いね、先に頂いてるよ」
「お父様が、光君は気に病むタイプだから先に食べてよう、って言ったんや」
匠がものまねをして言った。光たちを待っていると、また光が悪いことをしたと思ってしまうので先に食べてようということになったのだ。
「ありがとうございます」
「もう平気なの?」
「はい、ご心配おかけしました」
「いいのよ」
お母様の微笑みがすごく優しかった。
ご飯を食べ終え、一同は再びお店を見て回った。光は教訓を得て、若い子向けのお店には入らなかった。
途中ジュエリーショップに入って、また祐太が出てきたけど隣で智一が笑っていてくれたから悲しくはなかった。
そろそろ帰ろうかとなったとき、匠が手を挙げて言った。
「最後に一軒、寄ってもええやろか」
そして匠について行くと、ドレスショップで立ち止まった。
「あねはんがパーティー嫌いっちゅうのは、よう知ってるんやけど」
気まずそうに言う匠を見て、一同は状況を理解した。
「パーティーに出席しろと?」
別荘地では毎日のようにパーティーが行われている。珍しいことではない。
「ええ、まぁ。わいがあねはんと仲ええってなっとるんですわ。せやから連れてこいって言われてもうて。無理やって言ったんやけども」
「立場があるものね」
古武道次期当主と大企業子息。立場が上なのは後者だ。この世界は金がものを言う。
「川崎の令嬢がいらしたと、大騒ぎになっているんだろう」
「もちろん、明王寺様の招待状も預かってまんねん」
一人で行くよりは、仲間と行った方が気も楽なのだが。
「智一」
「俺はいいけど。美味しいもの食べれるし」
呑気なものである。
「匠のことを考えれば、仕方がないわね。ドレスを選びましょう」
「おおきに、あねさん!」
別荘地が近くにあるからか、大きなドレスショップだった。タキシードも売っており、智一とお父様も購入することになった。
「あまり派手なのは避けたいわ」
川崎令嬢というだけで注目度は高いのに、派手なドレスで行ったらそれこそ主役並の注目度になってしまう。
「光ちゃんはピンクが似合うのよね」
前に着ていたピンクのワンピースが良く似合っていたわ、とお母様が言った。
「個人的にもピンクは好きなんです」
女の子ですから、と付け加える。
お母様はピンクのドレスばかりを抱えていった。
「さぁ、全部着てみて頂戴」
「全部着るんですか」
お母様は、もちろんと言わんばかりの笑顔で一着目を光に渡す。一応厳選したということだが、ざっと見ただけでも十五、六着はある。
光が試着室で着替えて出ると、携帯の写真機能を駆使して選びだした。男性陣も参加する。
「僕はこれが好みかな」
「でも、これなんか良く似合っているわ」
「俺、これがいい」
「露出度で決めないでちょうだい」
「わいはこれかなぁ」
光には決定権がないようだ。正直どれでもいいのだが。
「ではこれに決定。光ちゃん、このドレスに決定したわ」
「ちょっと派手ですわ」
そのドレスは、もちろんピンク色のふわふわな素材で腰にはバラで留めた紫のリボン、下部にはバラの装飾、裾はレースで刺繍が施されている。そしてファーの肩掛けセット。贅沢なドレスだ。
「色がカバーしてくれるから、大丈夫よ!」
お母様は娘のドレスを選ぶようにキラキラしていた。
――まぁいいか
「では買いましょう」
光が妥協して、お母様が決めてくださったドレスを購入した。
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
屋敷に帰ると、富井家総出で出迎えてくれた。車を入れる時に、インターホンを鳴らしてロックを外してもらったから揃っているのだろう。
「っ! 光、何その格好!」
光を確認した真晴が顔色を変えた。
「やっぱ……変?」
「着替え持ってくるから、すぐ着替えて!」
真晴は、僕の光が僕の光がと盛んに言っている。
「お嬢様、申し訳ありません。何度言っても真晴は呼び捨てで」
「いいのよ。直すつもりがないのだから仕方がないわ」
とりあえずお茶でも、と応接室で一息つく。荷物は部屋に運んでおいてくれている。
そして真晴が入ってきて、光にワンピースを渡した。
「洗濯できてるから」
昨日着てきたワンピースだ。
「どうして」
「僕の光は純粋無垢でなくちゃいけないんだ。そんな品のない服着ないで」
確かに品のある服とは言えない。でも、真晴に言われる筋合いはなかった。
「私の着るものは私が決めるわ」
「そんな姿見たら、祐太様だって悲しむぞ」
「っ……」
祐太と光の関係を知っている明王寺家は一様に言葉を詰まらせた。
――どうして知っているのだ
「さ、早く着替えて」
「せっかくだから聞かせてちょうだい」
「なに?」
「昨日からお兄様お兄様ってなんなのかしら」
「なんなのって」
「お兄様がどうしたっていうのよ」
「祐太様は光のこと大好きだってこの前言ってたから。祐太様の妹がそんな服着てたら、笑いものだ」
「それだけ?」
「他に何があるわけ?」
周りはふぅとため息をついた。
光が問い詰めたら、「愛に立場なんて関係ないでしょ? 使用人だろうと、兄妹だろうと」という言葉はただ口から出たものだったらしい。
「なんなの、光」
「なんでもないわ。とにかく、今日はこの服を着ておくわ。この二人が選んでくれた服だから」
「はっきり言って僕は智一様は好きじゃない」
「何を言うのよ、お客様よ」
「光の恋人ぶって」
「いつそんなことをしたの。いい加減に口を慎みなさい」
「光を守るのは僕なんだ。光を正すのは僕なんだ。口を出さないで頂きたい」
「真晴!」
「失礼します」
真晴は応接室を出て行った。
「ごめんなさい、智一」
「光が謝ることじゃないよ」
智一は光の頭を撫でた。
「随分好かれているなぁ、光君」
「モテモテね」
「笑い事じゃないですわ」
真晴の勘違いは、どこまでいくのだろうか。
光はこの休まらない避暑が何事もなく終わるのを、祈るしかなかった。
あとがき
実は分割しました。
こんにちは。美波です。
やっとこさ四章が書き終わりました。
というか、旧軽井沢編を書き終えました。
実は最初、四章だけで旧軽井沢編を終わらせようと書いていました。
そうしたら、文字数が今までの倍!
今まで原稿用紙、七十七枚前後だったのが今回は百七十三枚!
おいおい……百枚もオーバーしてるじゃないですか。
ってことで、四章と五章に分割したわけです。
四章は非常に難しかったです。
全然物語が出てこなくて、ペンが止まりっぱなしでした。(ブラインドタッチですね)
何カ月かけたことやら(汗)
本当に頭の痛い旧軽井沢編です。
最初は、三股事件です
一応番外編として書くつもりだったのですが、かなりの改良をしてこれからに繋げる形にしてみました。
なので旧軽井沢編に組み込んでいます。
元になったのは、なんてったって夢小説でしたから薄かった……
――なんの夢小説かは禁則事項です☆アタタ
まぁ、そんな感じでどうしても入れたい! という作者の願いから書き始めました。
光は、この事件で他人を思い知らされるんです。
クラスメートが応援してくれたり、真美が誠意をもって謝ってくれたり……。
今まで拒否してきた「友達」に初めて仲間意識が持てました。
そんな光が今後、どんな学園生活を送っていくか注目です。
他にもちょっとしたキーワードを入れてみましたよ。
智一が昨年度霞プリンスだって!
どういう展開になっていくのでしょうね!(どうしても読者目線)
いやね、そりゃ智一は最強のイケメンですから。私の中では。
だからプリンスになるのも当然なんですよ、ええ。
でもその経緯が謎なんですよね(まだ考えてない)
小説って、所詮は妄想ですよね。知り合いが「小説家は頭に人物がいて、その人たちが喋っているのを写している」なんて言ってました。
その通りだと思います。妄想を丸写ししているだけなんですよ。この作品の場合。
話が繋がらなくて必死に考えることもありますがねぇ。。。
そして旧軽井沢編です。
ペンが進まなかったのは、旧軽井沢編の最初です。
三股事件は題材がありましたから、結構なペースで書けたのですが。
こちらは全くノープランで挑んだので、時間がかかりました……
真晴と静雨は相対しています。
突っ込んでいく真晴と、止める静雨。
晴れと雨を名前に組み込んだのは、そういう理由でした。
あまり喋るとまた怒られるので、五章で語るとしましょう。
匠は初めての関西弁を用いてみました。
私は東京生まれの東京育ちなので、関西弁が分からずネットで変換しました。
不自然なことがありましたらお問い合わせください。
匠は以上!(可哀相な匠)
智一はショッピングモールでは変態を晒してしまいました。
――どんまい、智一!
とまぁ、悪いのは作者なのですが。さーせん。
でも光は、智一と匠に選んでもらった服に愛着が沸くんです。
そして二人の、というか智一の存在の大きさを改めて実感します。
最初は嫌がっていましたがね。
――智一に耳元でかわいいよ、なんて言ってもらいたい!
何て言ったって、次の章が全部を凝縮したって感じなんです。
ここで伝えることって、あんまない……。
なので、五章を楽しみにしていてください!
――あぁ、気付けばもう五章なのかぁ
しみじみ思います。
長かったようで短かった。
これから、まだまだ書く予定です!
十章超えるな、これ。
頑張ろう。
次回は真晴との約束が明らかになります。
そして新キャラも出てきます。
後半は書いていて楽しかったので、皆さんにも楽しんでいただけるんじゃないかなと思っています。
では、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
六章のあとがきは非常に長いかもしれません。
お付き合いくださいまし。
また六章でお会いしましょう。
ごきげんよう。
美波海愛