7.混乱
温かな光を感じる。
「お姉様、今日は花壇に花がたくさん咲いたのですよ。本当に、たくさん」
ああ、そうねセレナ。
この国は寒暖差が激しくて、厳しい寒さの翌日に夏の始まりかのような暖かな日がくることも多い。
何度も繰り返して、そうしてある日一斉に花が咲くのだ。
それまでの気候の変動が嘘のように穏やかな陽気に包まれる日。
皆はその日を迎えると「春がきたね」と喜ぶ。
セレナと親しくなってから初めて迎える春は、優しさに満ちていた。
「姉上、暖かくなってきたとはいえ朝はまだ冷えます。こちらを」
「まあ殿下、ありがとうございます。ふふ、私は優しい弟を持てて果報者ですね」
「そのような」
「お姉様、私もお姉様にケープを持ってきました。使ってくださいますか?」
「セレナも? ごめんなさい、私何も用意がなくて」
「良いのです。お姉様はここにいてくだされば」
「……ありがとう、セレナ」
心を通わせられる家族がいて、共に春を喜べる時間があって、穏やかな気持ちで花を見られる。
ああ、私は幸せ者だ。
「本当に?」
けれど相反するように、その声は私に問いかける。
「本当に貴女は幸せですか? 本当は心の奥底に秘めた思いがあるのでは」
何故だか反論ができなかった。
殿下とセレナが大事だ。家族として愛している。
2人と過ごす時間を幸せだと思うこの気持ちに嘘などない。
けれど私に疑問を呈する彼の声が響けば、あの麗らかな光景がたちまちぼやける。
……これは一体誰の声だっただろうか。
そこまで考えて、頭にさらに響くのは彼の声。
「私がおります、聖女様」
強い腕の感覚を覚えている。
拗ねたような顔を初めて目にした。
会って間もない、けれど私に強く温かな情をくれた特別な人。
「クレイ、様」
名を思い出すと同時に頭をよぎったのは優しくない現実だ。
意識を閉ざす前、何があったのか。
炎に包まれた街が頭に流れる。
出会ったばかりの魔導師の手を取らず、代わりに私は何を取ろうとした?
……はやく目覚めなければ。
聖女としての役目が私を待っている。
焦燥にかられていると、やがて遠くに淡く白い光が見えた。
殿下やセレナ、クレイ様の輪郭がぼやけていく。
なぜだかそれだけで無性に泣きたくなるのはなぜだろうか。
それでも光に向かって手を伸ばす。
そうするとあたり一面が白に占領された。
覚醒が近い、私に分かったことはそれだけだった。
「ああ、起きたのかフィオナ」
視界が開けて、耳に聞き馴染みのない声が届く。
どこか朧気な意識のまま私は顔をあげる。
……おかしい。
そう気付くのはすぐのことだ。
視線が何故だかとても低い。
首を目一杯傾げなければ顔が見えない。
そして見上げた先にいたその人が誰なのかも分からなかった。
呆然と固まってしまうのは仕方ない。
「フィオナ?」
その名を私は知らない。
私の名はユーフィアだ。
誰からも呼ばれたことなどないけれど、忘れるはずがない。
けれど目の前の男性は私のことを何度も「フィオナ」と呼ぶ。
パチパチと何度も目を瞬かせその男性を見上げる。
ぐるぐると必死に頭を巡らせる。
けれどやはり目の前の彼を、私は知らない。
「あなた、フィオナの様子は……まあ、良かった! 目が覚めたのね、フィオナ。心配したのよ」
「ちち上、はは上。フィオナは」
まるで馴染みのない空気、知らない人ばかりの空間。
訳の分からない状況にますます私は混乱した。
背が高く、恰幅の良い男性。
対して細身で綺麗な焦げ茶の髪を持つ女性。
二人の腰元にも満たぬ身長の男の子。
何度も見つめてみる、頭の中から必死に情報を集める。
しかし彼らが何者か、まるで分からない。
「クレイ、さま」
そうして思わずこぼれた言葉に私自身が驚いた。
咄嗟に呼んだ名が彼であったことと、自分が紡ぐ言葉のあまりの拙さに。
混乱し助けを求めたのは、自らが別離を告げた魔導師で。
頭に浮かぶ発音のまま吐き出された言葉は、何故だか口の中で絡まり上手に発声されない。
一体どういうことなのか。
身も心も何もかも理解が追い付かない。
混乱のまま視線を落とせば、不可解な現実がさらに私を追い詰める。
自らの手が、あまりに小さかったのだ。
いや、手だけではない。
足も腕も、身を包むブランケットも何もかも。
少なくとも20年近く生きてきた人間のそれではない。
何が起こっているのか、あまりに理解を越えた状況に絶句してしまった。
一方の見知らぬ彼等もまた何故だか驚いたように目を見開き固まっている。
けれどあまりに気が動転してしまって私はそれに気づけない。
動揺したままただただ必死に現状を理解しようと辺りを見渡す。
探していたものは、ほどなくして見つかった。
「フィオナ? どうした、危ないぞ」
恰幅の良い男性が慌てた様子で私を支える。
それすらどこか遠くに聞こえ、身を乗り出した私が見たものは信じがたい光景だ。
(昔の、私……!?)
小さな手足、どこにもとどかない短い腕。
目に映る世界は全てが大きい。
ふっくら丸々とした体に弾力のある肌。
嫌な予感はしていた。
けれどまさか思わないではないか。
鏡に映る自分が2歳、3歳の姿に戻っているなど。
「フィオナ、どうしたの? 大丈夫かしら」
「……随分と熱にうなされていたからな、やはり心配だ。医師を呼ぼう」
「ええ、ええ、そうしましょうあなた」
「フィオナどこかわるいのですか?」
「大丈夫だ、フィル。一緒に見守ってやろう」
私の身を案じてくれているのだと頭の中では分かるのに、何の反応もできない。
私はフィオナではなくて、この人達のことをまるで知らなくて、ここがどこなのかすら分からない。
殿下はどこだろうか、セレナは無事? 魔導師様はあれからどうしたのだろうか。
何一つ知りたいことが分からない。
「まもらなきゃ」
「……フィオナ?」
「くに、まもる……」
「っ、フィオナ」
うわ言のように呟いた言葉に、男性は息をつまらせ私を抱き上げる。
「あなた。まさかフィオナ、記憶が?」
「いや、有り得ない。この子はまだ生まれたばかりの赤子だったんだぞ」
「けれど」
「……魔導力があるのかもしれない。この子の生まれた国は魔素の豊富な国だ、おまけに父親は」
「……グレイル」
頭が混乱する。
会話が何一つとして理解できない。
「フィオナ」
不意にずっと下の方から声がした。
女性が連れてきた小さな男の子だ。
目がきりっとつり上がっているのは、私を抱き上げるこの男性から受け継いだものだろう。
綺麗な形の鼻と口は母親似だろうか。
幼くても分かる綺麗な顔立ちをした子供だ。
「フィオナ、だいじょうぶか」
その男の子もまた、私をフィオナと呼び声をかけてくる。
大きな頭と小さな手足、まだ5歳くらいだと分かる。
けれど腕を組み険しい顔で私を見つめるその目の力は中々に強い。
思わず自分の手を握りしめ丸くなってしまうほど。
宥めるように背を優しく撫でられたのは直後のことだった。
「大丈夫だ、フィオナ。お兄様はお前を心配しているだけだよ」
私を抱いて立っていた男性が、男の子の視線に合うようしゃがみ込む。
フィル。さっき彼からそう呼ばれていた男児との視線が近づけば、とたんに彼は私の手にその小さな手を重ねてのぞきこんできた。
「おれが守ってやる。だいじょうぶだ」
力強く頷かれて、まじまじと見つめ返すしかない私。
お兄様。
男性はさっきこの男の子を指してそう言った。
けれどこの人達は私の家族ではない。
家族では、ないはずだ。
私の家族は、不器用で優しい弟と、柔く温かな妹だけのはず。
「フィオナ。どうした、なにがこわい?」
ぽたぽたとどうして涙が零れてしまうのだろうか。
私を包む男性にどうして安堵しているのだろうか。
同時に、どうして今私はこんなに苦しい?
「わたし、ちがう」
「フィオナ?」
「ここいるひと、じゃない」
「……っ、そんなことないわフィオナ。貴女は私達の大事な娘。そのような悲しいことを言わないで」
覆うように私を包んだのは、あの女性だろう。
淡く優しい匂いがする。
温かいと、そう思う。
けれど何もかも分からなくて、体中を覆うのはただただ不安と苦しみだけ。
ぱたりと意識を閉ざし、その日以降一切笑みを見せなくなった私に彼等はどう思っただろうか。
「先生、フィオナは」
「……原因が分かりかねます。ですが、この症状は戦争孤児に見られるそれと近い」
「っ、やはり昔のことが」
「いえ、公爵様の仰る通り当時お嬢様はまだ生まれたばかり。さすがに記憶は持っていないでしょう」
「では何故っ」
「奥方様、もう少し様子を見てみましょう。お嬢様はまだ幼い、ご成長と共に変わってゆくやもしれません。それまでどうか愛情をお注ぎ下さい」
「それは勿論!」
「それで良いのですよ、奥方様。何かありましたらまたいつでもお呼び下さい」
「急に呼び立ててすまなかった、先生。感謝する」
「何のこれしき。公爵様、奥方様。どうか気を確かに持ちなされよ、お坊ちゃまもいらっしゃるのですから。お嬢様に必要なのは温かで安心できる家です」
「ああ、心に留めておくよ」
それでも、この“家族”はとても温かかった。
見返りのない愛情というものを初めて実感したのかもしれない。
「フィオナ、今日は早く公務が終わってな。少し庭を散歩してみようか」
“父”は私をよく抱き上げ、色々なところへと連れて行ってくれた。
「フィオナ、本をよんでやる」
“兄”は暇を見付けては私の元へ訪れ、子守りをしてくれた。
「フィオナ、ほら。きれいに花が色づいたのよ。貴女はどの色が好きかしら」
“母”はいつだって笑顔で穏やかに私を知ろうと色々問いかけてくれた。
血の繋がりはきっと無いだろう。
私と彼らはまるで外見が似ていない。
けれど血ではない何かが私の胸をくすぐる。
思わず、“母”の言葉に釣られて指をさしてしまうくらいにこの人達の傍は安心する。
「っ、そう、貴女は藍色が好きなのね。とても似合うわ」
かつてセレナに問われ答えたリラの花。
本の中ではあまり目立たず陰日向にひっそり咲くような花。
花壇の片隅に咲いたそれを見付けて指させば、彼女は嬉しそうに笑う。
「そうだ、少しもらっていきましょうか。お部屋に飾ると良い匂いがするわよ」
そうして少しだけ萎れかかったそれに手を伸ばす。
ほどなくして自室に飾られたリラの花。
手をかざして目を閉ざしても、何も起こらない。
けれどコロコロと胸の奥深くで動く何かはやはり存在する。
顔は昔の自分そのままで、名前は昔と違う。
自分の中に隠れる力はそのままで、住んでいる国や家族は昔と違う。
やはり自分に起きた出来事が理解できないまま、昔と同じものと違うものが混ざり合い日々は過ぎていく。
あの時、自分は死んでしまって転生したのだろうか。
それとも聖女として過ごした時間が夢だったのかもしれない。
いや、私には実は魔導力があって誰かの心に干渉してしまっているとか。
様々な可能性が浮かんでは消えて、結局確かな何かが得られぬまま時は流れる。
「神聖暦497年……そ、んな」
そうして今がいつなのかを知ったのは7歳を祝われたその日のことだった。
私が聖女として過ごした最後の日は確か神聖暦490年。
7歳の誕生日を迎えた私と記憶が途絶えたその年号はとても無関係とは思えない。
神聖暦490年に国が襲われ私は記憶を閉ざした。
そして今は“家族”に拾われて7年。
記憶の繋がりはなくとも、空白の時間はこれで無くなる。
つまり私は。
「逆行、した……?」
その事実を呑み込むことは容易ではなかった。
聞いたことのない現象、魔導師でさえきっと信じないであろう真実。
けれどそれ以外に説明のつかない今の私の身体。
「殿下、セレナ。……クレイ様」
誰一人として私の傍にいない。
あの時の自分の存在を証明してくれる人がここにはいない。
夢幻とすら思える聖女時代の思い出は、けれど世界地図に堂々と書かれた「聖カトレア教国」の字にかき消される。
何だか無性に恐ろしくなって、その場で私は自分の身体を抱きしめた。
あの時何が起きて今に繋がっているのか。
それを私がしっかりと知るのは、ここからさらに5年後のこととなる。




