6.聖女の最後
「陛下のご無事を確保しろ!」
「女子供は避難の準備をっ」
扉の向こう側からも慌ただしい音が響く。
窓の外からは悲鳴が、扉の向こうからは叱責が、どちらにせよ心を揺らすには十分すぎる声色だ。
非常事態なのだと誰もが認識しているように感じる。
この部屋の静けさがむしろ異常なのだ。
「……想定より随分と早い。焦れたのはどの国だ」
ぽつりと、あまりに淡々と落ち着いた声が響いて私は振り向いた。
クレイと名乗った魔導師様は、その瞳に何の感情も乗せずただ窓の外を眺める。
やがて私の視線に気付きこちらを向くと、彼はやはり淡々と真実を述べた。
「これが国の崩れる音ですよ、聖女様」
ゆるく笑みすら浮かべ彼は私を見つめている。
この部屋の外では今もどたばたと慌ただしく音がなり続けているというのに、クレイ様の異様な雰囲気に聴覚が麻痺し始めた。
ピンと張った空気、国が崩れると言いながら焦りの一つも見せない魔導師様。
恐ろしく感じてしまうのは、私があまりに現状を理解できていないからだろうか。
「共に逃げましょう」
「……どこへ逃げると言うのですか」
再び差し出された手に、思わず後ずさる。
そうするとわずかに傷付いたよう彼は悲しげな表情を浮かべた。
「私の生まれ育った国へ。何もない田舎ですが、貴女を貴女として歓迎できます」
「私は、この国の」
「このような事態になっても助けの一人すら来ない、そんな国に貴女が身を捧げる必要などありません」
はっきりと、迷いのない口調。
見た目の柔和さとは裏腹に意思の強い方なのだろう。
苦笑はすれど差し伸べてくるその手に揺らぎはない。
私の言葉を否定はしないけれど発した言葉を曲げることもない。
その強さを私は少し羨ましく思った。
同時に私に真正面からぶつかってくれることが有難い。
それは私のことを1人の人間として接してくれている証だから。
「……どうして、貴方は私にそこまでしてくれようとするのですか」
ああ、このようなことを話している場合ではないのかもしれない。
私はいつだって周りが期待するようには動けなくて、皆にとってはどうでも良いようなことしかできない落ちこぼれだ。
それでも聞かずにはいられない自分がここにはいる。
だって彼にそこまでされるものを私は持っていない。
大事な人をちゃんと守れず、役目も果たすことが出来なかった自分。
怒らせるか心配をかけるか失望させるか、私にできたのはそのくらいだ。
自分の価値など、自分が一番理解できない。
自分を蔑むなと言われても、どうしたって私の中からその思いは消えてくれない。
一度冷静になってしまうと、差し出されたその手を何も考えないままに取れないのだ。
「さあ、どうしてでしょうか」
そして返って来た答えもまたひどく曖昧なものだった。
俯きかけた視線が思わず上を向く。
目と目が合わされば、それはすぐに向こうからそらされた。
「理屈では解決できないものもある……らしい、ですよ」
「“らしい”?」
「ええ、らしいです。正直私も未だ戸惑っています。どうにも慣れなくて」
それまではきはきと迷いなく紡いだ言葉がここで初めて揺らぐ。
歯切れの悪いその様子に何故だか恐怖が少し薄れた。
不思議な人と、そう心の中で呟く。
胸の奥の方が何故か熱くなり説明のつかない感情に私自身首を傾げる。
「聖女様、私は自分勝手な人間です。今までも好き勝手生きてきた。そしてそれはこれからも」
「クレイ、様?」
「このような場で貴女と心中など冗談ではない。やっと話せたというのに」
堂々と、淀みなく彼は言う。
しかし言っていることの中身が理解しきれず眉を寄せることしか出来ない私。
視界が急激に反転したのは次の瞬間だった。
「く、クレイ様!? 何をっ」
「クレイと呼び捨て下さい。さて、参りましょうか」
「そうではなくて! お、降ろして下さいっ」
「お断りします。おつかまり下さいね」
「え、きゃあああ!?」
今だかつてこれほどまでに声を張り上げたことがあっただろうか。
あまりに予想外の事態に自分自身言動の制御がきかない。
気付いた時には足元から彼の腕にすくい上げられ、視界が上がる。
人に、それも男性に意識のある状態で抱え上げられたのは当然初めてのことだ。
どう対処すれば良いのかまるで分からない。
声を上げどうしようかとぐるぐる悩む間に彼はグングンと足を早める。
視界に窓が映って、思わず硬直してしまった。
「ま、さか。クレイ様、まさかとは思いますが」
「クレイです、聖女様。そしてそのまさかですよ」
「……冗談でしょう?」
「あはは、まさか」
悲鳴や怒号すら聞こえるこの王都にまるでそぐわない笑い声が響く。
思わず顔を覗き込めばやはりパッとそらされたけれど、その口角は綺麗に上がっていた。
夕陽に照らされ赤々としている私達の顔。
違う、こんなことをしている場合ではない。
そう思うのに、あまりに勢いのあるクレイ様から意識が離せない。
躊躇いなく窓に足をかける彼。私の視界に広がるのは彼の肩と拓けた景色。
恐怖で体に痺れが走る。グッと力強く抱き直されたのは直後のこと。
「大丈夫、私が共におります」
力強い言葉と共にお腹の奥底が浮く感覚を味わう。
窓から飛び出た体は、しかしクレイ様の体に遮られ想像していたよりは風を感じない。恐怖も思ったほどではなかった。
むしろ恐怖を感じたのは、地に降りた後だ。
「隣街まで火が回ってるらしい、早く逃げるぞ!」
「逃げるってどこに! 普段偉そうにふんぞり返ってる騎士達はどこにいったんだ!?」
「知るかっ、とにかく逃げろ!」
怒号が耳を刺し、地が揺れていたのだ。
隔絶されたあの部屋の中でさえ響いていた声達は、当然ながら直に聞けば何倍もの音量となって辺りに響く。
人の切羽詰まった声というものをこれほど近くで耳にしたのは初めての事だ。不安定な声は心に恐怖心を植え付けるのだと、そう初めて私は知る。
思わず私を支えるその腕に縋ってしまうほど。
「……自業自得だと、そう言ったら薄情な人間だと思いますか」
クレイ様はそれでもやはり淡々と、冷めた目すら見せてその光景を眺めている。
この人が何を考えているのか全くもって分からない。
耳に届く怒号とはまた別の意味で恐怖を感じてしまう。
しかしここへきてようやく私は彼に聞くことが出来た。
「貴方は、この国が嫌いなのですか?」
そう、薄々と感じていた問いを。
静かに視線を私へと下ろしたクレイ様。
その表情は無に近く、彼からしばらく声は上がらない。
何かを考えていたのか、答えたくなかったのか、私の問いが意外だったのか、そんなことすら私には分からない。
けれど見つめ続ければ、彼はわずかに眉を歪ませ小さく呟いた。
「嫌い……と言ったら、貴女は私を嫌いますか?」
返答に驚いて私は目を見開く。
彼の対応、言葉、それらを見れば答えは分かりきっている。それでも私に対する答えだけがどこかはっきりとしない。
拗ねたように、躊躇うように告げられた言葉に私はどう答えるのが正解なのだろうか考える。
しかし元より人との距離感が上手く掴めぬ私には気の利いた言葉1つ言えない。
「……さびしいなと、思うかもしれません」
そうして無意識に出てきた言葉に私自身が驚いた。
何故だろうか。彼がこの国を嫌いということを苦く思う理由が分からない。
それでも心に浮かんで口から溢れた言葉は、紛れもなく本音に思えた。
「そうですよね。貴女はそういう方だ」
「……申し訳ありません」
「何故貴女が謝るのです。違いますよ、聖女様。先ほども申し上げた通り、私は勝手なのです」
「クレイ様、ですが」
「貴女に謝らせてばかりのこの国と私の無力さが私は腹立たしい。そして貴女と同調できず、ただただこの国の愚かしさを嫌悪しか出来ぬ自分の狭量さにもね」
「それは違……っ、狭量などでは」
「……それでも、私はこの国が好きにはなれない。貴女の努力とその心を踏みにじり、貴女から受ける恩恵を当然のものと傲慢に受け取り続けたこの国を愚かだとそう思ってしまう」
「クレイ、様」
「私も変わらない。貴女の意思を無視し強引に私の国へと連れ去ろうとしている、私の国ならば貴女は幸せになれるはずだと思うこの心は傲慢以外の何ものでもないというのに」
私の言葉に何かを感じたのだろうか。
本音を呟いた私に、クレイ様が返してくれたものもまた本音に思えた。
ここまでその意図も目的も何一つ分からなかったクレイ様が少しだけ私にその内側を見せてくれている。
驚いて目を瞬かせてしまうのは失礼だろうか。
けれど信じられなかったのだ。
クレイ様が私を、私の幸せを願いここまで行動に移してくれたのだというその言葉が。
「私の、ため……?」
「違う、私の勝手ですよ。この国の住民達と何一つ私は変わらない」
私の呟きに被せるよう否定の言葉を告げるクレイ様。
それでも彼の言葉に私は必死に首を横に振る。
ぼろりと目から溢れた涙が何を意味するのか分からない。
それでもただただ私は首を振り続ける。
殿下だけではなかった。
セレナだけでもなかった。
私の姿を、自分自身滑稽にすら思えるこれまでの人生を、遠くからでもちゃんと見てくれる人はいたのだ。
情を、心を、大事にしてくれる人がここにもいた。
その事実に衝撃を受け、それと同時に胸に湧いたのは確かな喜びだ。
そしてだからこそ、やっと私はここで自分の心と向き合えたのかもしれない。
「ありがとう、ございます。クレイ様」
「……貴女にお礼を言われるようなことなど何一つ申し上げておりませんが」
「いいえ、そのようなことはありません。貴方は優しい人です。私などのためにここまで心を砕いてくださる」
「ですから……っ」
ああ、人は嬉しい時にはちゃんと綺麗に笑えるのだ。
例え絶望的な状況だろうと、自分の置かれた立場がどれほど険しくとも、ちゃんと笑える。
そんなことを教えてくれたクレイ様に私は感謝する。
そっと、その胸を押し返せば何かを察したのか彼は抱き抱えたままの私を地に降ろしてくれる。
そんな情のある彼に私はさらに笑った。
「私は、この国に留まります。たとえ無力だろうと聖女としての役目を全うしたい」
「……何故か、お聞きしても? この国は貴女に対し理不尽しか働いてはおりませんが」
「……そんな私にも大事な方々がいるのです。殿下やセレナ、そして貴方が過ごしたこの国を私は守りたい」
ここまでされなければ自分の心ひとつ決められない情けない私。
流されるまま、彼の優しさに甘えたまま、ただただ戸惑うだけだった私。
それでも、大事なことにやっと気づけた。
ほんのわずかだったとしても、この国を嫌えない理由が私にはある。
聖女として守りたいと思える何かがこの国にある。
惨めさや無力感に負けそれらを捨てることは出来ない。
そんなことにすら中々気付けずいた私は正真正銘の弱い人で、聖女と名乗るにはやはり色々と足りない。
……それでも、だ。
そしてそう願った次の瞬間、変化は起こった。
「っ、聖女様……その、体は……」
クレイ様の言葉で初めて私は自分の身に起こる異変に気付く。
体の奥の奥、いつも感じていた何かが熱い。
思わず自分の手を見つめれば心なしかそれは光って見える。
ふよふよと体の奥で動き続けていた得体の知れない力、私が自分を聖女なのだと思えた唯一の感覚。じわりと熱い何かが広がる感覚に本能的な恐怖を覚える。
けれど同時に私は理解した。
これが、聖女の力。
分かれば、あとはその力に身を任せるだけだ。
制御する術など知らない。私の力で何が出来るかなどもっと分からない。
ただはっきりとしているのは、私の想いだけ。
「どうかこの国を守って」
目を閉ざし、力を解放する。
心と共に一気に広がった熱は、もう私自身では制御できない。
ぷちんぷちんと、体のあちこちで何かが途切れていく。
体の感覚が急激に失せていくのが自分でも分かった。
「聖女様!!」
声が響いてうっすら目を開ければ視界いっぱいにクレイ様の顔が映る。
慌てた様子で手を伸ばしてくれる彼に手を伸ばし返そうとしてはたと気付いた。
ぐんぐんと、その手が小さくなっていく。
手をあげることすら出来なくなっていくその事実に。
ああ、目を開けることすらひどく億劫だ。
クレイ様の声に応えたいのに、喉が張り付いて何も話せない。
代わりにせめてと、必死に口角を上げてみる。
私はちゃんと笑えているだろうか。
本当はありがとうとごめんなさいを言いたかった。
答えをくれた彼に心からの感謝と、最後まで振り回してしまった謝罪をしたかった。
けれどボロボロと欠けていく視界に奪われていく身体中の感覚。
最後に残ったのは、きっと抱きとめてくれたであろうクレイ様の腕の感覚だった。