5.拒絶される使命
くすぶっていた火種が燃え始めたのは、私が19歳になった直後のことだ。
「殿下、どうか陛下のお言葉をお聞き入れください」
「下らぬ話をするな。私の意志は変わらない」
「下らぬ話ではございません! 貴方様と国を守るためには、聖女様では荷が重すぎるっ」
「貴様……っ、次に姉上を貶してみろ。容赦しない」
「殿下!」
……国民達の、私に対する不満は頂点に達していた。
今まで裏でしかされてこなかった会話は、今やこの部屋にいても耳に届く。
ほんの少し空気を入れ替えようと窓を開いただけで、私の耳に切羽詰まった声が入って来るのだ。
そっと、音を立てぬよう窓を閉じて殿下の後ろ姿を見送る。
少し距離の離れた場所からでも伝わるほど、彼の纏う空気は張りつめていた。
その服装は以前の雅なものから打って変わり動きやすくて丈夫なもの。
近頃は特に激務らしく、もう10日ほど顔を合わせていない。
「聖女様、国王陛下がお呼びです」
「……はい、すぐに参ります」
“その時”がついに来てしまうのだと、そう悟った。
見て見ぬふりを続けた代償を支払う時が来たのだと。
半年前、世界屈指の軍事強国と流通の要である商業大国が手を組んだ。
互いの国を守り共に発展するための同盟だと2国は言う。
しかしその狙いがこの国にあることを誰もが知っていた。
長く聖女の生まれる聖域として守られてきた聖カトリナ教国。
しかし魔素の発見された今の時代、神の証明とされた聖女の影響力など皆無に等しい。
実際に聖女よりも力のある魔導師が多く確認されれば聖女に対する畏れは薄れるもの。
この国の在り方そのものがすでに時代遅れとなっていた。
この国はもはや歴史ばかりが長いただの弱小国。
一度も荒らされたことのない広大な土地に豊富な魔素資源は魅力的だ。
戦争経験のない国民達は弱く、兵は形ばかりで国防は隙だらけ。
これだけ揃って狙われない理由などなかった。
侵攻されるのは時間の問題だろう。
誰もが分かっていたからこそ不満は声となって広がりを見せている。
「そなたを次代の王妃には、認められぬ」
その言葉はきっと国民の総意だ。
陛下が玉座から告げる決定を私は跪いて受け取る。
「我が国には希望が必要だ。強く力ある、王子を支えることのできる妃が必要なのだ」
「……承知、しております。次代の王妃様は」
「公爵家の一人娘を、迎えたい」
至る所で息をのむ音が響いた。
同時に安堵したように息をつく声も聞こえる。
そんな大事な決定の場に、私以外の当事者2人はいない。
……最後まで抵抗していたからだと私は知っていた。
そしてどうして2人がいない時を狙いこの話が上がったのかも察してしまえる。
目を閉ざせば瞼の裏に浮かぶのは2人の笑顔で、心がここぞとばかりに悲鳴を上げた。
嫌だと、抵抗するべきだと、そう強く私の心は言っている。
しかし抵抗して何になるというのだろうか。大事な人の足を引っ張り続け、国民達から疎まれ続ける王妃に価値など私自身が一番見出だせない。
「私に何をお望みでしょうか、陛下」
声が、震える。
平然と、淡々と、本当はそうやって受け入れたかった。
顔を取り繕うのがやっとで声まで制御できない。
うつ向いたまま何とか絞り出した言葉。
こんな情けない姿など晒したくないのに。
それでも私にはこれが精いっぱいなのだ。
「住まいを移して欲しい。王都以外ならば、希望を汲もう」
分かっていたとはいえ、視界が真っ白に弾ける。
眉間も頬も口元も、力を入れなければ保てない。
わずかな呼吸ですらやはり震えて仕方がない。
自業自得だと、そう納得する自分がいた。
同盟が組まれ標的とされた時点で聖女として失格なのだ。
聖女の威光で保っていた国で、聖女がいるにも関わらず侵攻計画が進んでいる。
それはこれ以上ない戦力外通告だ。
国民達が縋り信じ頼るのは当然聖女ではない。
伝承などで国が守れる時代は終わった。
人々が求めるのは、そんな幻ではなく実在する強い力なのだ。
だからセレナが選ばれた。
才能あふれる魔導師であるセレナが。
「全て、陛下のお心のままに」
「……すまぬ」
どうして拒否などできるだろうか。
殿下の足を引っ張り、セレナの負担を増やし、象徴としての役割すら果たせぬ聖女。
人の命と国の存亡がかかる事態に、私はまるで無力だ。
震えた声のまま、一度も顔を上げることができない。
強く握りしめた自分の手の感覚はすでに消え失せている。
そうして私は随分とあっさり聖女の役目から解放された。
もともとそう多くない私の周りから人が引けるのも早かった。
ほどなくしてほぼ全員の使用人達が聖女付きの任を解かれることとなる。
私のもとには侍女と魔導師が1名ずつ付いてくれるらしい。
どういう選出なのか分からないけれど、聞いたことのない名だった。
周囲は私付きに残ったその2名に随分と同情的だと聞く。
可哀想だ、とそんな声が聞こえた。
ああ、私はどこまでいっても厄介な存在なのだ。
実感して気持ちがどんどん下降していく。
「聖女様、明日にはここを発つらしいぞ」
「まじかよ、ずいぶん早いな。まあ、殿下のいらっしゃらない間にということなんだろうが」
「それだけじゃない。ほら、今公爵令嬢殿も王都から離れていらっしゃるだろう? ご実家のご都合で」
「ってことは、お2人ともまだ聖女様のことを?」
「ああ。お可哀想に、幼い頃から受けた洗脳は中々解けないからな」
「陛下も判断が遅い。もっと早くお2人を聖女様から離すべきだったろうに」
「おい、陛下の批判は止めろ。何かご事情があったんだろうさ」
決定を受けた日を境に、声は潜められる事もなくなった。
未来の国王夫婦をたぶらかした悪女と言う声まで聞こえる始末だ。
「準備を、しなければ」
どうしても纏わりつく苦い感情を振り払うよう鞄を広げる。
出発は明日の朝、人目を避けての時間帯。
それが国王夫婦のご恩情なのか私には分からない。
ただどちらにせよ私はここにいるだけで邪魔になってしまう存在なのだということだけは理解できた。再び首を振った私は衣服をたたんで鞄へと詰め込む。
やることがあればまだ多少でも気は紛れるはずだからと、頭に浮かぶのはそんなこと。
無心でひたすら丁寧に作業を続けていく。
しかしそれもすぐに終わってしまった。
ほどなくして、私は呆然と立ち尽くしてしまう。
「何を、持っていけば良いのかしら」
そう、そんなことすら分からなかったのだ。
鞄の中にはまだまだ余白があるというのに、何で埋めれば良いのか分からない。
部屋の中を見渡しても、頭を必死にひねってみても、自分に何が必要なのか分からない。
考えてみれば当然の話なのかもしれない。
私のこれまでの人生は、聖女としての人生しか用意されていなかった。
聖女以外としての生き方を知らない私に、この先必要なものなどどうして分かるというのか。
そもそも私に与えられた物は本も何も王城管理のものだ、勝手に持ち出せるようなものではない。
考えて考えて、部屋を再度見渡す私。
けれどやはり何も思い当たるものがなくて、そこでやっと理解した。
何もかも空っぽなのだと、そんなことを。
へたりとその場に崩れて窓から射す光を見つめる。
日暮れを前にした空は赤と黄の折り重なったそんな色に染まっている。
雲一つなく広がる景色があまりに綺麗で視線が何故だか外せなかった。
次第にその視界がぼんやりとぼやけて景色から輪郭が失せていく。
頬に伝うものが何かなどもう分かっていて、悔しいからなのか寂しいからなのか惨めだからなのかその理由だけが分からない。
「もう、辛いなあ」
生きていることが苦しい。
自分がここに存在していること自体、許せなくなりそうだ。
この先も私は失望されながら生きていくのだろうか。
自分が何をすれば良いのかも分からないまま。
聖女失格の烙印を抱え続け、ひっそりと人目を避けて生き続ける人生に意味はあるのか。
唯一生きる希望を与えてくれた殿下やセレナも、この先の人生にはいないのだ。
私はまた独りになってしまう。
「いっそのこと、もうここで」
思わず呟いてしまった言葉が全てに思えた。
自分の人生に何の展望も見いだせない。
殿下やセレナの幸せを祈るだけのために人生を送れるほど、私は強くもない。
これからの独りで生きる時間に自分が耐えられるのか、自信などなかった。
「……滅ぶべくして滅ぶ国だな、この国は」
唐突に、声が聞こえた。
涙に暮れてぼやける視界では、正確にその姿を捉えることはできない。
聞き覚えのない声。
黒く丈の長いローブがぼんやりと目に入って、魔導師だろうかなどと思う。
やがて黒い塊は、ずんずんとこちらに近づき私の視界を埋めていく。
目をこすり見上げれば、そこにいたのは私とそう歳の変わらない青年だった。
「……貴方は」
「お初にお目にかかります。ご挨拶に参りました」
「もしや、貴方が私に付いてきて下さるという」
「はい。クレイと申します」
膝を付き私に視線を合わせてくれる魔導師様。
ゆるく、柔らかな笑顔を浮かべたのは直後だ。
「クレイ、様」
「どうぞクレイと呼び捨て下さい、聖女様」
優しい声だった。
私を拒絶しない、温かな声。
「……ごめんなさい、私などの事情に巻き込んでしまい」
思わず弱音がこぼれたのは、彼から確かな情を感じたからだ。
まだ私を聖女と敬ってくれる彼。
善良で優しい方なのだと分かる。
だからこそ私に付き添ってくれるのだろう。
そう思えばなおさら罪悪感は募った。
しかし目の前の彼は、そんな私に眉を寄せ小さく息をつく。
「自分を蔑むのは止めなさい」
「……え?」
「私“など”と、そこまで自分を貶める必要はないのです。貴女は頑張りました」
言われた言葉が一瞬分からずに目を見開いてしまう。
とても聞きなれない言葉に思えたのだ。
頑張った……私が?
違う。私はいつだって自分に甘くて人に縋らなければ生きていけなくて、期待にも応えられない欠点だらけの聖女だ。
聖女と名乗ることすらおこがましい、そんな。
「……希望がないのは、真に失望されるべきは、この国自身だ」
「……魔導師、様?」
「貴女が心を砕くほどの価値など、この国にありはしない」
それでも目の前の魔導師、クレイ様は私の心とはまるで正反対のことを言う。
鋭く肩もすくみそうなほど冷たい視線の先に私はいない。
窓の外をジッと睨みつけ、そして私に手を差し伸べた。
「私と共に国の外へと出てみませんか」
「国の、外」
「この国が貴女を必要としないならば、私が貴女を必要とする」
膝を付き、手を差し出し、真っすぐ見つめてくるその目は真剣そのもの。
先ほどまでの冷たさは綺麗に消えて、逃げを許さない鋭さだけが残っている。
視線が、彼から外せない。
緑と橙の混ざるその目の色は、この国では中々珍しい。
綺麗な色合いの瞳は、スッと滑らかに通る切れ目とよく似合う。
少しだけ色の濃い肌、焦げ茶色のさらりとした髪、小さな鼻と口。
ここへきてようやく彼がとても顔の整った美男子なのだと気付く。
私の頭は聞きなれない言葉に埋め尽くされ飽和状態で、彼の言葉はうまく私の中へと入ってこない。
ただただその綺麗な外見に驚き、言われた言葉を頭で反芻し、それ以上の深い思考は放棄される。
痺れを切らしたのか、手をすくうように持ち上げられたのはほどなくしてだ。
「ともに逃げましょう。ここから」
彼は一体何者なのか。
何を考え、何を願い私にこの提案をしているのか。
逃げて、その後は一体どうするつもりか。
何一つ私には分からない。
それでも何故だか、その手を振り払う気にはなれなかった。
もしかすると自分で思うよりも私は限界だったのかもしれない。
頷きもせずただただその場に座り込み繋がれた右手を見つめる。
頭に過る思いや記憶があまりに多く流れ込んできて、私の脳が混乱している。
何の感情も言葉も声も、私からは浮かばず沈黙は続いた。
けれど。
「……っ」
頑張って力を込めようにも、握られた手は振り払えない。
与えられた温もりに逆らう気力を私は持てない。
手離すことが怖いと、そう感じるこの心を否定できない。
自分の手は彼を振り払うどころか受け入れようと勝手に動く。
「いやああああああああああ」
悲鳴が聞こえたのは、そんな時だった。
喧騒が耳に届いたのは、すぐ後。
金切り声と言うのだろうか、耳に入るのはいずれも耳に鋭く刺さる切羽詰まったもの。
「な、なに……」
思わず立ち上がりよろよろと声が聞こえた窓の方へ歩く。
閉め切った窓を再び開けて入ってきた情報に絶句した。
「な、なんだあれ!? なにが起きている!?」
「ま、さか……奴ら本当に侵攻してきたのか!?」
「落ち着け、王都までは流石に来ないはずだ。来たとしてもまだ時間がある。今のうちに逃げれば……っ」
「おい、お前らそこで何さぼっている! 住民達が城に押し掛けて混乱している、早く対処に回れ!」
困惑し震える声はぶつかり合い、遠くの方に見えたのは真っ赤な炎と真っ黒な煙。
明らかに広範囲で何かが燃え、空は異様な色をしている。
たまに届くのは、地響きのようなお腹の奥底に響く低い音。
破壊音だろうと分かるけれど何が破壊されているのか分からない。
国が恐れていた光景が、まさにそこに広がっていた。