31.リラの花
『お姉様、リラの花言葉をご存じですか?』
『リラ? セレナはまた随分と珍しい花を知っているのね。確か“幸せを願う”だったかしら』
『……珍しいと仰りながら何故姉上はご存じなのですか』
『どうしてでしょう? 確か昔習ったように思うのですが、可愛らしいお花だったので覚えているのかもしれませんね』
“殿下”とお呼びしていたフェルナンド様の、きょとんとした顔を覚えている。
私に多くを尋ねそのたび「すごい」と褒めてくれたセレナの、キラキラした目を覚えている。
私の大事な大事な弟と妹。
居場所のなかった教国で唯一自分が得ることの出来た“家族”。
……私だけがずいぶんと時間に取り残されてしまった。
守りたいと願った弟と妹は、今や人の親だ。
案内されるままに訪れたその場所は、王城の王族居住区内にあるテラスだった。
他国の人間がそう簡単に入って良い場所ではない。
それでもどうかと請われ足を踏み入れれば、驚くほどに人の気配が無い。
遠くに影が2つ見える。
「私はここまでのご案内になります。どうぞ、あちらへ」
案内してくれた侍女がそう深く頭を下げると、彼女までもがその場を辞した。
遠くで2つの影がじっとこちらを見つめている。
『行ってらっしゃい。帰る準備でもして待ってるよ』
柔く笑んで送り出してくれた存在を思い出し、目を閉ざした。
大きく、緩く、深呼吸をする。
一歩を踏み出すその足は、少しだけ重かった。
「ようこそお越しくださいました、……姉上」
「お姉様、お待ちしておりました」
会話が出来るほどの距離感まで近づくなり、目の前の2人が膝を付く。
当然のように私を姉と呼び、深く頭を下げた。
「……お時間をいただき感謝致します。フェルナンド陛下、セレナ王妃殿下。どうかお止め下さい、私はお2人のお姉様ではございません」
苦い気持ちで2人を制する。
けれど2人は姿勢を崩してはくれない。
「この場には私達しかおりません。聖女が力を使う代償を私は知っております、過去の文献を読み漁りましたから。19年前、聖女様が北東へと逃れたことも知っている」
「お姉様……どうか、どうか今だけでも、認めては下さいませんか? お姉様の邪魔立ては決してしないと誓いますから」
セレナの声はすでに震えていた。
フェルナンド陛下の声は変わらないだろうか。
私の顔を忘れることがなかった2人。
聖女を今も大事に敬ってくれている2人。
私がユーフィアだということは、おそらくはもうこの2人にとって確定事項なのだろう。
私がいくら否定したところで揺るがない程には。
その繋がりを、今はとても愛おしく思う。
私を忘れずいてくれたこと、聖女を想ってくれていたこと、多くを知った今はもうただただ嬉しく愛しい。
それでも、私は首を振った。
「どうか、お座り下さいませ。これでは落ち着いてお話をすることも叶いません」
2人の言葉を肯定するわけでもなく否定するわけでもなく、席へと促す。
静かにじっと、2人が動いてくれるまで私もそれ以上譲らない。
先に折れたのはフェルナンド陛下の方だった。
促され、セレナも渋々と席につく。
私は最後だ。
「改めまして。大変お忙しい中、お時間をいただきましてありがとうございます」
「……こちらこそ感謝申し上げます。先日は愚息が大変失礼を」
「いいえ。ユーリス殿下には色々とご案内いただきまして、とても実りある時間をいただきました」
儀礼的な挨拶。
どの貴族間でも交わすような、そんなやり取り。
セレナが今にも泣きそうな顔で、もの言いたげに私を見つめている。
フェルナンド陛下からも、痛ましげな視線を幾度か受けた。
……愛しい。
19年経っても、ところどころに面影がある。
今のわたしではとても出せないような貫禄も色香も2人にはあるけれど。
見覚えのない傷、私ではとても似合わないような大人向けの装飾品、洗練されつくした所作。
それだけの時間が経ったのだと実感する。
それでも確かに変わらない雰囲気は未だに残っていて、私の心と頭はそのことに歓喜している。
気を引き締めなければ、すぐに持っていかれそうになるほどだ。
けれど私はもう自分の道を、指標を決めた。
ここで流されるわけには、いかない。
「……ユーリス殿下とアンナさんより多くを教えていただきました。聖女様のお顔、お2人がどれほど聖女様を想い今過ごされているのか、この国がこの数十年の間にどのように変わっていったのかを」
きっと私がどこへ行ってどのような会話をしたのかなど、この2人は知っているだろう。
ユーリス殿下は見るからに両親を慕い愛していた。
2人がどれほど聖女を愛しているのかあれほど語れるくらいには、親子で思いを共有している。
けれど。
「けれど、申し訳ありません。私には本当に、心当たりがないのです」
苦笑して、2人を真っすぐ見つめた。
途端にやはり傷付いたように顔を歪める2人。
人を払い他に見ている者もいないからだろう、前の謁見時よりも分かりやすくその顔に出ていた。
……ごめんなさい。
謝罪は心の内に留める。
ここでその顔に心を痛め認めてしまったなら、今までの我慢が全て水の泡になる。
「……貴女の年齢と、聖女様がこの国をお救いになられてからの年月は同じです」
「ええ、偶然にも」
「貴女はシャルレーゼ王国公爵家の実の子ではないはずだ」
「お調べになられたのですね。確かに私はお父様お母様の実子ではございません。けれど実の子同然に育てて下さいました」
「そうではない。私が申し上げているのはそうではなく」
「……偶然としては出来すぎだと仰いますか?」
「っ、一つ一つは小さくともこれだけ揃えば立派な証拠になり得る。姉上、どうか認めては下さいませんか。貴女の意志を捻じ曲げるためにお認めいただきたいわけではないのです」
ああ、思いが強く私のもとに届く。
事実、フェルナンド陛下もセレナも私を強引に教国に戻そうと考えているわけではないのだろう。
考えていたならば、もっと強い手段を取っていたはずだ。
人を払い誰の視線に憚れることもなく話せる場を用意したのも、きっとただ純粋に私……ユーフィアとの会話をしたかっただけだ。
突然、別れの言葉もないままに生き別れた私のことをずっと気にかけ探してくれていたからなのだと今は素直に信じられる。
今の私には愛する人がいて守りたい国や家族がいるのだと正直に伝えれば、この人達はきっと私の意思を汲んで見守ってくれるだろう。
それでも、そうと分かっていても、私の決意はやはり揺らがなかった。
「……聖女様と私に繋がりを感じるのは、事実です。確かに偶然にしてはあまりに出来すぎている」
「では」
「ですが、フェルナンド陛下。貴方様には赤子の頃の記憶、ましてや赤子になる前の記憶など残っていますか?」
「は……」
「私は、私には……ないのです。自分がどのような経緯でシャルレーゼへ辿り着いたのか、分からない。もしかすると私は本当にこの国で聖女様として生きていたのかもしれない。けれど、それを確かめる術はありません。私には、フィオナとして生きる今の人生が全てなのです」
初めからただの偶然、他人の空似などという言葉が通じるとは私も思っていない。
たとえ小国とは言えど私は高位の貴族、それも王族に連なる家に育った。
調べればすぐに分かる私の出自を誤魔化すことなど出来ない。
19年前に聖女が姿を消したことも、19年前に私がシャルレーゼで拾われたことも隠し通せない事実なのだ。
ならば私が取れる手はこれしかない。
この身が聖女であることを否定はせずに、記憶がないのだと伝えるしか残されていない。
はっきりと顔を歪ませるフェルナンド陛下が見えた。
手を強く握りしめ、何かを耐えるセレナの姿も見える。
……ごめん。
ごめんなさい。
昔のように嘘偽りのない、互いに互いを思いやり笑いあったあの会話をしたいだけなのだと分かっている。
姉として慕ってくれた私に今も強く思いを残してくれている事を、私は知った。
19年、赤子にまで逆行した私が元の姿に戻るだけの時間を思い続けてくれたのだと知っている。
それでもここで私が明かしてしまえば、私が聖女なのだと認めてしまえば、今度はそれがこの2人の枷となってしまう。
この2人は王と王妃だ、いくら秘されたこの場のこの会話であろうとも全てを綺麗に隠せるわけではない。
仮に秘することができたとしても、誰にも明かせぬ秘密をはっきりと2人に背負わせてしまうことになる。
それを良しとは、どうしても出来なかった。
これからの人生は長いのだ。
聖女がいなくなっても正常に回っているこの国。
けれどそれは正常に回るよう動いた人達がいたからだと、もう私には分かってしまえる。
聖女など不要だと言い切った魔導師様を思い浮かべ、生まれて初めて彼に同意した。
聖女の存在は、決して今この国で小さくはない。
ならばなおのこと、私が今ここで聖女だと認めてしまうことの危うさを理解できてしまう。
もうあの頃と同じにはいかない。
私にも、2人にも、それぞれ別々の守るものが出来た。
大事なものが、愛するものが、掲げる信念が出来た。
同じようには、いかないのだ。
フェルナンド陛下は、彼には珍しく何度も言葉を詰まらせた様子で何かを言おうとして押し黙る。
セレナは先ほどと変わらず何か言いたげなまま私を絶望したように見つめるばかりだ。
「……そう、仰るのではないかと思いました。ユーリスより貴女のご様子を聞きましたから」
やがてフェルナンド陛下は諦めたようにそう仰った。
ひどく寂しげに、細く吐き出すような声色で。
「けれど、お姉様。……いえ、フィオナ様。私は」
続いてセレナから聞こえてきたのは、諦めきれない様子の言葉達。
それでも数回同じようなことを繰り返した後、首を振って口を閉ざす。
俯いたまま、苦し気なまま。
そうやって数分かけて、ゆっくり顔を上げた。
今度は今にも泣きだしそうな表情で。
苦く笑うしか出来なかった。
本当は、もっと綺麗に笑ってみせたかった。
後腐れのないように、きっぱりと聖女の自分を否定して、2人が振り切れるように。
けれど、やはりそう簡単な話ではない。
感情まで制御できるはずがない。
どうしても幼い頃の2人との思い出が頭に過る。
姉上と遠慮がちに呼ばれたその瞬間を覚えている。
お姉様と嬉しそうに呼んでくれたその表情がすぐに思い浮かぶ。
割り切ることは、とても難しい。
「長々と、こちらの事情に付き合わせて申し訳なかった。フィオナ嬢」
先に態度で示してくれたのはフェルナンド陛下の方だった。
きっぱりと線引きされたその言葉に、自分勝手に抉られる。
表情に出さぬようにと、顔に力を入れるのが忙しい。
けれど私は何とか顔を上げて、フェルナンド陛下に笑ってみせた。
「とんでもございません」と、当然のように返事をする。
よほど酷い笑顔だっただろうか、目の前の“弟”は苦く笑う。
ついに涙を流し始めたセレナを、抱きしめたかった。
泣かないで、思いは私だって変わらないのだと、告げたい。
手が動きそうになって引き留めることに苦労する。
首を振って、私は自分を戒めた。
「クレイド殿下との婚約期間も長いと聞く、婚儀はいつですか」
「来年の、花が咲き乱れる頃にと。グレイル殿下……今は亡き王弟殿下が好きな季節だと、伺ったので」
「……そうですか。良い日になると良いですね」
「ありがとうございます」
一つ一つ終わっていく。
少しずつ会話が他人行儀なそれへと変化し、私達の関係性は正常なものへと直っていく。
そろそろ頃合いだろうと席を立てば、引き留められはしなかった。
「フェルナンド陛下、セレナ王妃殿下。多くのお気遣いをいただきまして、ありがとうございました。聖カトリナ教国、ならびに王族の皆様方の幾久しいご繁栄をお祈り申し上げます」
「感謝申し上げる。……どうか、お元気で」
「はい。そちらも」
最後は少しだけ、綺麗な笑みをみせられただろうか。
もしかするとこの日のことをこの先何度も後悔するのかもしれない。
それでも今の私には、これしか出来ない。
下げた頭を上げて、ゆっくり足を返す。
やって来た入口に向けて歩き出した、その時。
「お姉様!!」
それまで押し黙っていたセレナが、大きな声をあげた。
思わず足を止め振り返る。
そこにいたのは流れる涙を拭うことも忘れ、震える足のまま立つ妹の姿。
「お姉様でも、フィオナ様でも、もうどちらでも良い。もう、言えなかったことを悔いるのは嫌です、絶対に嫌……っ! 私、私は……、ずっと、これからも願っていますから! お姉様の幸せを、お姉様が笑顔でいることを!」
「セレナ……様?」
「……ごめんなさい。私が、奪ってしまった。お姉様は多くを私に与えてくれたのに、私がお姉様の居場所と立場を何も考えずに奪い取ってしまった。私など本当はこの場に相応しい人間では、ないのに」
「っ、それは違」
「セレナ。お前ずっとそんな風に」
思わず声が出て、慌てて飲み込む。
もはや立っていられなくなったセレナは、膝から崩れ落ちて泣いていた。
ごめんなさいと、どうか幸せになってと何度も何度も繰り返す。
……19年、経った。19年だ。
子供が大人になり、早い人ならば親になるほどの年月が経っている。
それでもセレナの中に蝕み続けたその思いを、セレナはずっと抑え込み生きてきたのだろうか。
久しぶりにセレナを見た時、彼女は綺麗に笑んで凛と立っていた。
王妃に相応しい品格と空気を纏い、そこにいた。
けれどその内でこれほど苦しんでいたのだとすれば、私は一体どれほど残酷なものを彼女に残してしまったのか。
「……っ」
流れる強い感情を、強く手を握ることで無理やり抑え込む。
足が動かない。顔をそらすことができない。
私の体が向いた先で、フェルナンド陛下がそっとセレナを上から抱きしめるのが見えた。
はっと視線を向ければ、宥めるように労わるようにその背を撫でている。
その姿にようやく冷静になれた。
きっとこうやって互いに支え合い生きてきたのだと、分かったから。
私にはクレイがいてくれたように。
私が過ごしてきただけの長い時間を、この2人も共に生きてきたのだ。
……少しだけ。
諦めた様に笑って、私は懐からあるものを取りだす。
入口へと戻りかけた足を戻して膝を付いた。
「どうぞ、これを」
差し出したそれを、真っ赤な顔のままセレナが見つめる。
傍でセレナを支えるフェルナンド陛下の視線が、私の指先に移った。
ああ、何も綺麗に笑うことにこだわることなどなかったのだ。
人を想い、心から願う時、自然と顔には望んだとおりの笑顔が出てきてくれる。
「リラの、花……?」
呆然とその花を見続けるセレナ。
私は頷いた。
「先日、訪れた教会の隅で見つけたのです。アンナさんに譲っていただき押花に」
「どうして、これを」
「……思い出深い花なのです。とても大事で、愛おしい」
言えることは、これが限界だ。
藍色の小さな小さな花。
昔はあまり見かけなかった、珍しい花。
19年ぶりに帰って来たこの国で比較的よく見るようになったのは、私の自惚れだろうか。
それを聞く術は私にはもう無い。
けれどそのようなことはもうどうでも良かった。
私が伝えたいことは、ただ一つだけなのだから。
『お姉様、リラの花言葉をご存じですか?』
『リラ? セレナはまた随分と珍しい花を知っているのね。確か“幸せを願う”だったかしら』
そう、願っている。
大事な家族の未来を。
遠い遠い一度きりの会話。
この子が覚えているかどうかなど定かではない。
表立って自分の正体を明かせない私の、想いを伝える精一杯の方法。
作った押花の栞を2枚差し出したその意味を、この2人は気付いてくれるだろうか。
私の想いを、受け取ってはくれないだろうか。
自己満足と、そう言われてしまえばその通りだ。
それでも私は笑んで、セレナの手に握らせる。
しばらく呆然とリラの花を見つめるセレナ。
けれどその顔は再び歪んでいく。
渡したそれを強く握りしめ、ひたすらに頷き続け、そうして声をあげ泣いた。
隣でフェルナンド陛下がその様を笑う。
とても愛おし気に。
さすがに我慢がきかなくなって、私も一筋だけ涙を流した。
それ以降はお互い何を言うことも無く、少しの沈黙を共に過ごす。
結局私達はそれ以上に何か確かめ合うことはしなかった。
「それでは私はこれで失礼致します」
「はい。……どうかお気を付けて、フィオナ嬢」
「ありがとうございました、フィオナ様」
今度こそ私達は別れの挨拶を交わす。
もうこうして会うことも会話することも無いだろう。
顔を合わせることはあったとしても、これ以上の親交はきっと望めない。
それでもようやく私達は昔のように笑うことができた。
取り戻せない過去を惜しみ、懐かしみ、愛おしむように。
それは私がこの国を去る前日のこと。
外の夕暮れは、聖女としての最後となったあの日と同じく鮮やかで綺麗な色をしていた。




