21.帰還
もっと、心が落ち着かなくなると思っていた。
その場所に近づけば近づくほどに、辛くなるかもしれないと覚悟すら決めていた。
「……こんな、ものなのね」
けれど私の心は、凪いだ風そのもの。
窓に映る風景は、少しずつ見覚えのある色と形を見せてくる。
シャルレーゼには無くて教国にはあった植物たち、動物、建物の形。
目に入れば、心に訪れたのはただただ懐かしさだけだ。
心が温かくはならなかった。
けれど不思議と苦しみもやってこない。
ほんの少し胸の奥がちくりと痛んだけれど、それはすぐに引いていく。
「大丈夫か、フィオナ」
「はい。大丈夫そうです、お兄様」
陛下からのお気遣いもあり、お兄様がクレイの側仕えとして共に付いてきてくれた。
同じ馬車の中で難しい顔で私を見つめてくるお兄様。
そうして心配をかけてしまっていることの方が、私の心に波を生んだ。
苦笑してお兄様を見返す。
「クレイは、大丈夫でしょうか?」
「さあな。本当ギリギリまで渋ってたからな、お前の教国行き。というかお前、人の事言ってる場合か」
クレイは今、私達の乗る馬車より一つ前の王太子専用の馬車に乗っている。
私達と同乗していたがってはいたけれど、私とクレイはまだ婚約者の関係性。正真正銘の夫婦でなければ、さすがに王族の馬車に異性の私は乗れない。
ひとりこの景色を眺めるクレイの心情が少し心配になる。
クレイにとっても教国は馴染みのある国、何も思わないわけがないはずだから。
静かに視線を動かし再び外の景色を眺めた私を、お兄様はどう思っただろうか。
小さなため息と共に、声が届く。
「……もうすぐ、国境だ」
「……はい」
「本当に良いのか、変装しなくて。お前の外見を知っている者もいるんだろう」
返事は、できなかった。
返す言葉に迷ったからではない。
ただただ苦笑してお兄様を見返す。
引きこもりで人との交流がなかった聖女。
表情のひとつすら変わらない、出来損ないの聖女。
私の顔をはっきり知っている人自体そう多くない。
顔を見て会話してくれる人など、殿下とセレナ以外思い出せない。
ましてやここは国の隅、王都から程遠い国境で私の外見になど誰も気にかけないだろう。
年齢も服装も髪型さえ“聖女様”とは噛み合わない今の私。
昔この国で聖女を名乗っていた人物だと気付く者などおそらくは……。
ああ、と、まだまだ過去に未練を残しているのだと実感する。
形だけの存在だったのだと改めて向き合い認めるのは辛い。
教国の外で知った“当たり前”の感情、寄せてもらった愛情。
生きる糧、意志となってくれた多くの思い出。
少しずつ積み上げてきた自分の存在意義も自信もすり減りそうだ。
国が近づけば近づくほど、過去の苦い思い出が多く蘇る。
「……踏ん切りを、つけられるでしょうか」
「お前しか分からないだろう、こればかりは」
「そう、ですね」
それきり会話は途絶えた。
未練も悲しみも苦しみも懐かしさも愛しさも多くの感情をここには置いてきたはずなのに。
それでもそれが私を大きく揺さぶることは、無い。
ただただ静かにゆっくりと重い何かが体に滲み蝕む。
ガタガタと音を立てていた馬車が静かになると、土埃を上げていた視界が綺麗になった。
石畳を歩く馬の足音が目立つようになる。
やがてその足音すらも静かに止まり、聞こえてきたのは凛とした兵士の声。
「失礼致します。ようこそ聖カトレア教国へ。私は国境の警備を担当しておりますセドと申します。大変恐縮にございますが、直接のご挨拶をお許しいただきたく存じます」
流石にその瞬間は体に力が入り、小さく息を逃がす。
目を閉ざしお兄様に頷けば、お兄様が返事をしてくれた。
そうして開けた視界に、懐かしい制服が映る。
帽子から靴までもが真っ白な、教国の兵士の服。
静かにその場に座ったまま、警備担当だという彼の目を見つめる。
当然ながら見覚えのある顔ではない。
丁寧に一礼した彼は、再び自らの身分を明かした後顔を上げて私達それぞれとしっかり目を合わせた。
「シャルレーゼ王国王太子クレイド殿下のご婚約者であらせられるフィオナ様に、兄君で公爵家ご令息のフィリップ様でいらっしゃいますね。長い旅路、大変お疲れ様でございました」
「これはご丁寧にありがとうございます。フィリップと申します。兄妹共々、しばらくの間世話になります」
「……よろしくお願いいたします。フィオナと申します」
「ここは聖女様が守りし聖なる国。どうかこの国でのご滞在が実りあるものとなりますように。これより先は我が国の兵達も王都までご案内いたします、何かございましたら何なりとお申し付けくださいませ」
「ああ、ありがとう」
丁寧な、何の違和感もないやり取りだ。
私達の顔を確認しにきた警備兵のセド殿は、おそらくお父様お母様ほどの歳だ。
落ち着いた声色、不審に感じさせない笑み、その仕事ぶりからも相応の立場にいるのだと分かる。
パタンと扉が閉じて、ほどなくして馬車はゆっくりとまた動き出した。
私の心はやはり、凪いだまま。
「……普通、だったな」
「ええ、普通です。強いて言うならば、シャルレーゼ王国のような小さな国にもこれほど丁寧に応対して下さることが少し意外でしたが」
小さな声で笑って返せばお兄様が眉を歪め押し黙る。
お兄様が言いたいことはそういうことではないと、分かった。
けれど私は首を振る。
分かっていたことだと、そう言外に伝えるように。
私の存在に、教国の兵はやはり気付いた様子を見せなかった。
他国の王族関係者として私を迎え入れている。
堂々と“ここは聖女の守る国だ”と言いながら。
「お互い様、なのです。私だって彼を知らなかったのだから」
「だがお前は」
「……フィオナとして今ここにいる。それが全てですよ、お兄様」
ひとつひとつ、確認しながらでなければ私は未だ進めない。
頭で分かっていたことでも、こうして事実として確かめなければ受け入れ切れない。
聖女として生きる未来はもう無い。
フィオナとしてシャルレーゼ王国で生きていくのだと自分の意志で決めた。
けれど捨てられない過去に、やはり思いは確かに残っている。
たった一人私を認識しなかっただけだというのに。
分かっていたことのはずだ。
……どこかで自分勝手に期待していた自分を自覚する。
もしかして自分で思っていたほど小さな存在ではなかったのではないか、と。
私が教国で聖女として生きた意味はあったのではないか、とも。
そんな小さな小さな自尊心があったのだろう。
痛いと、そう思った。
静かに、凪いだまま、ただただ胸が痛い。
過去を否定されたように感じてしまう自分勝手な心の内。
この国に何かを残す気はもう無いのに、それでも自分の存在意義をこの国にまで求めてしまう自分。
ああ、何て自分は弱いのだろう。
毅然と、強い自分のままではあれない。
初志貫徹で、きっぱりとこの国と決別してシャルレーゼ王国のことだけを考えていたかった。
けれど結局は口でいくら綺麗事を言ったところで、自分勝手に傷を作ってしまう。
……それでも。
「……大丈夫。目に焼き付けます、人も、風景も、全て」
向き合うために、ここに来た。
過去を切り捨てられないのならば、受け入れて生きていくしかない。
逃げてきた過去と向き合って、本当の意味で区切りをつけにここへ来た。
傷付くことなど、承知の上だ。
お兄様はそれ以上何かを言うことはなかった。
一度だけ大きく強く背を叩かれる。その痛みに目を細めて、けれどすぐにこぼれたのは笑みだ。
失ったからこそ得たものもあって、失ったからこそ気付けた痛みもある。
懐かしい風景に当てられて、どうやら私は知らず知らずのうちに随分と昔の自分の空気感に引きずられてしまったのだろう。
陰鬱になっていた自分を自覚する。
そもそも自分の正体に気付かれてしまったら困るのだ。
私はこの国の聖女として生きることはもう無いのだし、クレイと共にあの温かな国を守ると決めている。
クレイと過ごしてきた今までを思い浮かべ、前を向く。
スッと自然に背筋が伸びると、ひどく息がしやすかった。
まだまだだと自分の至らなさに苦笑して外を眺める。
カーテンの隙間からそっと覗けば、人々が興味深げに、そして遠巻きにこちらの様子を窺っていたのが分かった。
……かつての私が守りたかった人達。
まるで知らずにいた国の端に住む住民達。
その表情も様子も、こうして見るとシャルレーゼ王国に住む人達とそう大きく変わりはない。
またひとつ確認して、小さく頷いた。




