2.弟と妹
特別なものなど要らなかった。
普通の家に育ち、普通の愛に包まれ、普通の幸せを手にしたかった。
その普通が何なのか、よく分かっていないけれど。
聖女としてはあまりに不適合な自分の性格も弱さも、私が聖女ではなかったならば受け入れてもらえただろうか。
考えるだけ仕方のないことだと分かっていながら、思わずにはいられない。
そうして後は決まって自己嫌悪に塗りつぶされてしまうのだ。
私は歴代の聖女様と比べても明らかに力の弱い聖女だった。
本来聖女が持っているはずの癒しの力すら一度だってまともに発動できたことがない。
目を閉ざし神経を尖らせば体の奥深くに熱くて重い何かは感じるから、聖女として何もないというわけではないのかもしれない。
しかしその力をちゃんと使えた試しがないのだから説得力などないだろう。
……今日こそは。
そんな思いと共に私は目を閉ざして意識を集中させる。
向き合っているのは小さな萎びた花で、練習用にと横一列に並べられた可愛らしい花瓶の一つを持ち上げて意識を尖らせた。
眉間の奥の奥にグッと込めれば、いつも通り体の奥でフヨフヨと大きな何かが動く。
しかし体に起こる変化はそこまでだ。
いつもこの先にいかなくて、表立っては何一つ変わらぬまま。
文献によれば数年そうやって自分の力を意識し続けるだけで癒しと再生の能力は扱えるようになるらしい。実際歴代の聖女達は誰に言われるでもなく己の感覚だけで力を発現し使いこなしてきたようだ。
けれど私の力はいつまでたっても発動してくれる気配がない。
5歳の時から訓練し始めてもう12年、人々が期待をしなくなるには十分すぎる年月だろう。
私自身いい加減諦めるべきなのかもしれない。
それでもと日課のように続けてしまうのは滑稽だろうか。
けれどそれ以外の努力の仕方を私は知らなかった。
『やはり聖女などただの迷信か』
……その言葉を覆せる何かが私には欲しい。
期待に少しでも応えられる私でありたい。
しかし現実は厳しく、もう私自身が自分を聖女だと信じられなくなっている。
そうなればますます力は発揮されず行き詰まるだろうと分かるのに。
日々自信は削れていくばかりだ。
手のひらにすっぽりと納まる小さな花瓶、その中の小さな一輪すらまともに癒せぬ自分。
沿える手がぐっと力を増す。
今日も駄目なのだろうかと、失望し続け落ち込む心は私の背を丸まらせる。
「……もう、一度」
それでもどうしても諦めきれずに、再び目を閉ざした。
コンコンと、扉から小さな音が響いたのはその直後。
はっと振り返れば、そこにいたのは最近成長期に入り背がぐんと伸びてきた“弟分”だ。
「姉上、お加減はいかがですか」
いつもと変わらぬ真剣な表情と生真面目な言葉に、私の口元が緩む。
手元の花瓶をそっとテーブルに置いて、立ち上がりスカートを軽くつまんだ。
「殿下」
そう呼べば、わずかながら彼は目尻を下げて頭を下げる。
「姉上のお加減が優れないと聞き来てしまいました。何の連絡もなく来てしまい申し訳ございません」
「そのような。ご心配下さりありがとうございます。殿下でしたらいつでも歓迎ですよ」
「……ありがとうございます」
あからさまにホッとしたように息をつく殿下に私の顔が緩むのが分かった。
綺麗な金の髪に淡く透き通るような水色の目、意思の強さを感じさせる綺麗な切れ目にすっと通った鼻筋。あと5年も経てばここに大人の色が加わり大層人目を惹きつける男性になられるだろうとそんなことを思う。
並べた花瓶をそっと隅の方に避けて椅子を勧めれば殿下は軽く頭を下げ、腰を落ち着けてくれた。
その所作はとても12歳には思えぬほど洗練されていて、こんな仕草ひとつとっても将来が楽しみに思えるそんなお方だ。
聖カトリナ教国王太子、フェルナンド殿下。
この国唯一の王子であり、私の将来の夫君でもある。
容姿端麗で聡明な殿下は将来有望との声も高く、この国一番の希望の光だった。
真面目で誠実な殿下は、私のことも「姉上」と呼び敬ってくれる。
5年先に生まれてきただけで他には何一つ取り得のない私の様子をこうして小まめに伺ってくれる優しいお方でもあった。
「姉上、お身体の具合はいかがですか。お辛いなら横になられていた方がよろしいのでは」
「もう大丈夫ですよ。久しぶりに外を歩いたので疲れてしまったようです。情けないですね、体力がまるでなくて」
「そのようなことはございません。が、またお痩せになられたのでは? やはりもう一度医師に」
「ふふ、殿下にここまで気遣っていただける私は果報者ですね。ですが本当に大丈夫ですよ、近頃陽気の強い日が続いておりますから少し胃が細くなっているだけでしょう」
「そうならば、良いのですが。今度は食べやすい果実を持って参ります」
「まあ、それは楽しみです。いつもお気遣いいただきありがとうございます」
張りつめていた心が、ゆるゆると解けていくのが分かる。
私にとって殿下は強張らずに会話のできる数少ないお方だった。
心の通ったやり取り、素のままの私を許してくれる温かな空気。
重く沈む心がふわりと優しく持ち上がる。
正直な自分の反応に思わず苦笑した。
「殿下の方も近頃どうですか? また背が伸びたように思いますが、お身体の調子はお変わりありませんか?」
「……骨の軋む音がいたします。姉上にはありましたか」
「いいえ、私の成長は緩やかなものでしたから。ですが男性にはよくあることだと聞きます、殿下のお身体が成長している証でしょう。楽しみですね」
「姉上より大きくなれるでしょうか」
「まあ、ふふ、なれますよ、きっと。国王陛下も王妃様も背の高いお方ですから」
少し拗ねたように眉を寄せ考え込む殿下。
いつも大人顔負けな言動をなさる殿下はこうしてたまに年相応の可愛らしい一面を見せてくれる。
寡黙な印象が強く表情も出ない殿下は私と2人になると少しだけ饒舌だ。
こんな私にも心を許して下さるそのお気持ちが嬉しくて、私の顔には自然な笑みが浮かんだ。
そうして穏やかな気持ちになってふと視線の端に映ったのは、先ほどまで向き合っていた小さな花瓶。
……今ならば、できるのではないだろうか。
沈んだ気持ちのままではなく、少し上向きになった今ならば。
そんな風に思ったのは本当に唐突だった。思いつきとそう言われれば頷いてしまえるほどに。
何気なく手を伸ばしたその先を殿下もまた見つめている。
「姉上。お加減が悪い時に無理は」
「いいえ、殿下。今ならば出来るような気がするのです」
「……姉上?」
「不思議ですね。何も根拠などないというのに」
凪いだ心、穏やかな気持ちのまま花瓶を包んで目を閉ざす。
心配そうに私の方を見つめていた殿下は、それでもそのまま静かに見守って下さっていた。
いつも通り神経を尖らせ頭の奥底の何かへ意識を傾ければやはりフヨフヨと何かが動く。
しかしいつもと違う感覚がこの身に起きたのは、その直後だ。
ぼんやりと何かが体に広がり全ての感覚が鈍くなる。
言葉にするとそんな感じだろうか。
あまりに突然起こった変化に驚いてパッと目を開く私。
「姉上?」という殿下の言葉に上手く反応できなかった。
ごくりと息をのみ、もう一度目を閉ざす。
体の奥で動く聖女の力、その源から何かがじわりと放たれる。
何とも表現しにくいソレは放射状に広がって体に震えが伝わっていく。
まるで経験したことのない未知の感覚に戸惑いながらも、そのままその振動に身を任せる私。
やがて震えは指先の方にまで伝わって、じんわりと手のひらに熱がともった。
「……っ、あね、うえ」
息を飲むような殿下の声が耳に入り目を開ける。
そうすると分かりやすい変化がそこにはあった。
「で、きた……?」
萎びて傾いでいた花に水気が戻っている。
鮮やかな赤が蘇り、茎はピンと姿勢良く伸びていた。
癒しの力なのか再生の力なのか、とにかく聖女の力が初めて発現した瞬間だ。
「姉上、おめでとうございます」
信じられなくて、そしてあまりに興奮しすぎて固まる私。
殿下も驚きながら、しかし次第に笑顔を見せて祝ってくれる。
12年もかかってようやく表れた成果。
殿下の言葉を聞いて、目の前の花をもう一度見直して、そうしてやっと実感する。
じわじわと目頭が熱くなったのは直後のことだ。
「も、もう一度っ」
いてもたってもいられず、並べられた花瓶のもう一つを手に取った。
同じように手で包み込んで、目を閉ざし意識を集中させる。
ぐっといつもの場所に力をこめれば、同じようにモヤモヤが広がり体が震える感覚。
手の熱を感じ目を開けば、そこには同様生気を取り戻した黄色の一輪があった。
「出来た……っ!」
本当にちゃんと力が発現してくれたのだ。
そう理解して、私は思わず立ち上がった。
「ありがとうございます、殿下! 本当に、感謝申し上げます。これで私も少しはお役に……」
嬉しくなって殿下のその手を取ろうと駆け寄った私は、その時初めて気付く。
ぐらりと視界が渦を巻いて、目に映る景色がやや灰がかっていたことに。
言葉を紡ぐその途中、自分の声が掠れて先が出てこなくなったことに気付いた瞬間、体中の力が根こそぎ抜けていく感覚を味わった。
「姉上!」
膜の張ったどこか遠いところで殿下に呼ばれる。
遠く薄い感覚の先で何かに支えられたような気がした。
ああ、殿下に心配をかけては駄目ではないか。
そんなことを思ったのが、意識を閉ざす前の最後の記憶だった。