17.失ったもの
「マナーに関しては申し上げることも特にありませんね。本日の講習で修了として良いでしょう」
「ありがとうございます、先生」
「となりますれば、時間が空きますね。教養の時間を増やしたいところですが、いかがでしょう」
「はい。是非、お願い致します。ご配慮いただき感謝します」
「大変結構。手配致しましょう」
緩やかに進んでいた時間が、一気に進む。
一日中、部屋に閉じこもりひたすらに知識を叩きこむ作業が続いた。
国史、世界史、教養、マナー、社交。
覚えることは膨大だ。
「……まだまだ、知らない事ばかりね」
合間、思わず呟く。
自分を世間知らずだとは分かっていたけれど、本格的に学び始めて尚更感じることだった。
ユーフィアとして生きていた頃学んだ膨大な知識は、全て聖女として必要なもの。
けれどそれは極めて限定的なものに過ぎず、王妃として学ぶべき学習に使える知識は半分にも満たない。
聖女様は知る必要のないことだと言われてきたことが、ここでは必須なのだ。
「お前……、本当偏ってんな色々。礼儀作法が満点で教養が赤点ってどういうことだよ」
「う……、申し訳ございません。覚えが悪いようで」
「いや、そんなに悪くないと思うがな。元の知識がどれだけ足りてなかったかってことだろ、これは」
「……正直なところ、毎日驚きの連続です。世の仕組みとは面白いものですね、時間が許すのであればもう少し詳しく紐解きたいお話をたくさん教えていただきました」
「博識になる素養はありそうだな。良いんじゃないか、せいぜい頑張って賢い王妃になれ」
「お兄様にも、色々教えていただきたいことがあるのですが」
「おう、何でも聞いてこい。今のところ、お前よりは出来が良いみたいだからな」
「うう、いつか追い付きたいです」
「良い心構えだ、フィオナ」
前向きに学ぶことが出来ているのは、家族の全面的な支えがあったからだろう。
特にお兄様はとても細かなところによく気付き気にかけてくれた。
お兄様本人も帝王学をかなり細かく学んでいるからか、人の上に立つための振る舞いというものをよく知っている。勉学は特に優秀らしく、お父様が揃えて下さった先生方からもよくその評判を聞くのだ。
豪快で口調も気さくなお兄様ではあるけれど、貴族としての評価はとても高い。
とても博識で“出来る”人なのだと聞いている。
「まあ、俺ももう少し学ばねばならんがな」
「お兄様も、ですか? ですがお兄様はすでにとても評価が」
「評価が全てじゃないだろう。学ぶのは、目標を達するためだ」
「目標?」
「ああ。宰相の座は争いが激しいだろ」
「宰相。お兄様は宰相様になりたいのですね」
「まあな。そうすればお前を近くで支えられる」
「……お兄様」
相変わらず妹思いなお兄様に苦笑してしまう。
「お兄様。とても嬉しいのですが、お兄様はお兄様の幸せをお考えくださいね? ご友人と過ごしたり、素敵な女性と時を過ごしたり、お兄様なりの時間を使っていただきたいです」
「必要になったらな。今はお前の補佐が最優先だ」
「お兄様……」
私が思った以上に私第一で面倒を見てくれるお兄様。
昔からお兄様の後ろをついて回った私だから、こうして今も変わらず気にかけてくれるのは嬉しい。
けれどお兄様にも幸せになってもらいたい。
私のことばかりではなくて、ご自分のことを考えて欲しい。
そう伝えるけれど、お兄様は頑なだ。
やはり私は苦笑しかできなくなる。
「……今日も仲がよろしいことで何より。けれどさっさと私の可愛いフィーから離れてくれない、お兄様?」
「何だ来てたのか、クレイド殿。家族水入らずを邪魔しないでくれるか」
「いつでもどこでも家族水入らずじゃないか、君からしたら。いい加減妹離れしてくれない? 巷では君みたいなのを“兄馬鹿”というらしいよ」
「結構なことじゃないか、兄馬鹿」
「く、クレイ、お兄様、どうか落ち着いて」
「やあ、フィー。会いに来たよ」
「あ、クレイ……ようこそ。お帰りなさい」
「うん、ただいま」
「……おい、こら。クレイド、人の可愛い妹に手出すな。そういうのは婚約が成立するまで許さん」
「……君さあ、兄というより父だよね既に。婚期、遅れるよ?」
「余計なお世話だ」
いつの間にかやって来たクレイが呆れたようにお兄様を見ている。
目を三角にしたお兄様はギリギリとクレイの腕を掴んで力を込めていた。
クレイは伯爵家の長男となったことで、こうして公爵邸にも気軽に訪れるようになった。
私とお兄様、そしてクレイの関係性は公には幼馴染。
昔から付き合いのある家として知られている。
これは知らなかったことだけど、そう見えるようにお父様とお母様も裏で今まで密かに動いていたのだそうだ。
私達の間柄が出来上がったことで、お兄様とクレイもまた交友を始めている。
お互いに気軽に話せるくらいには関係性も出来上がっているようだ。
「けれどフィルが宰相か。良いね、私としては願ったり叶ったりだよ。頑張って勝ち取ってね、その座。身分的には申し分ないんだし」
「……他人事のように言う。お前こそ賢君になれよ、噂に聞くとグレイル殿下はずいぶんと放浪癖があったようだからな。ふらふらしないか不安なんだが?」
「それはほら、君が宰相になってしっかり私の手綱を握っててくれよ。まあフィーが近くにいるならどっかに行ったりはしないだろうけど」
「フィオナへの溺愛が無くなった瞬間にお前を締め上げるからな」
「君は私達の恋路を応援したいのか反対したいのか、どっちだ?」
何だかんだと相性は良いらしい。
私にはできないような気安い言葉の応報に、思わず笑みがこぼれる。
こうして過ごすようになって少しずつ分かるようになったこと。
クレイもお兄様も、こうして遠慮なく言い合えるのはお互いに気を許しているからだ。
私の大事な2人が、そういう関係性を築いていることが何だかとても嬉しかった。
「あら、賑やかだと思ったら。いらっしゃっていたんですね、クレイド殿」
「ご挨拶が遅れました。お邪魔しております、公爵夫人」
「……嫌だわ、貴方にそう呼ばれると一気に老け込んだ気持ちになる」
「あはは、慣れて下さい。この先“伯母上”“義母上”とお呼びすることになるのですから」
「……複雑だわ」
お母様の表情にクレイがからからと笑う。
姉弟と、もう名乗ることが出来なくなってしまった2人。
お母様もクレイも器用だからあっさりと新たな関係性を受け入れてはいるようだけど、それでも思うところはあるらしい。
「クレイド殿、新たな生活はどう? 何か不自由していない?」
「お陰様で“父上”にしごかれまくっていますよ、あの人本当容赦ありませんね。さすがは陛下のご友人」
「まあ、ふふ、スオウ伯爵は責任感の強い方ですもの。頼もしい限りね」
「本当、過去のことを考える時間すらありません」
「……そう。それは何よりね」
目を細め切なげに笑うお母様。
労わるように優しく言葉を返すクレイ。
その姿を私は目に焼き付ける。
「何て顔してんだ、フィオナ。しっかりしろ」
バシンと強く背を叩かれる。
……お兄様には、本当に何でもお見通しだ。
苦笑して頷いた。
「支えに、守りに、なるのは大変ですね」
「今更、だな」
「はい。今更です」
過去より今を選び取った。
聖女としての自分より、一貴族としての自分を選んだ。
それでも過去はやはり無かったことにはならない。
私の過去が原因で変わることを余儀なくされた人達がいることを、忘れてはいけない。
「フィー」
「クレイ?」
「どうしたの、難しい顔をして。何か悩み?」
「……そろそろ春野菜の種植えを始めなければと思いまして」
「……まだ畑仕事しているの、貴女」
「おう、筋が良いぞ中々」
「フィル……、また君の影響か」
「はっ、悔しかったらもっとフィオナを惚れさせるんだな」
下手な嘘に誤魔化されてくれるクレイ。
けれどこのままではいけない。
王妃になると、決めたのだから。
パシンと、切り替えるように顔を叩く。
「クレイ。先日収穫した果実でタルトを焼いたのです。どうか食べていってはくれませんか?」
「え、私のために焼いてくれたの? 嬉しいな」
「……その、料理はまるで初心者なので、見た目は酷いことになっていますが」
「ふふ、楽しみだね。砂糖と塩取り違えていたらなお面白い」
「そんな初歩的な間違いは……していないかしら」
「あはは、そこで不安になってしまうのが貴女だよね」
クレイの手を取って、部屋へと案内する。
お兄様は、今度はついてこない。
お母様も苦笑したまま見送ってくれる。
……ああ、やはりまだまだ支えられている。
そう痛感した。
「それで?」
「はい?」
「何を悩んでいるの、貴女は」
そうして2人きりになった部屋でクレイに尋ねられる。
形の悪い、少し焦げがあるタルトを食べながら。
瞬き固まる私にクレイは小さく息をついた。
「すまない。私は貴女に関してだけは狭量だ、少しの隙も見逃せない。だから教えてくれないかな」
そして私に見せてくれたのは、クレイの少し歪んだ表情。
人前では決して見せない、表情。
クレイは、何も悪くなどないのに。
そうした顔をさせてしまうのが情けない。
「ごめんなさい。困らせたいわけでは、ないのです。ただ私は」
「うん」
「貴方から、本来の生を奪ってしまった。グレイル殿下として生きる未来を、私のせいで。お母様や陛下との絆を。絆は、尊いものだと知ることができたのに。クレイはずっと苦しそうで、それが申し訳なくて」
「……それでずっと悩んでいたの」
素直に吐き出してクレイの手を握る。
グレイル殿下の訃報が流れてから、クレイの手は少しだけ温度を失った。
見せる笑みが少し表面的になったとも、そう思う。
この人は優しい人だから、私を傷付けないようにとそのような素振りは一切見せないけれど。
それでもこの人が何も堪えていないわけではないと、そう気付いた。
「……貴女のせいでは無いよ。全く」
「けれど」
「本当だ、それだけは断言しておく。正直グレイルとして生きることに今回のことがなくとも私は限界を感じていたんだ」
「……え?」
「貴女は聞かないでいてくれたね。それに甘えて黙ったままにしてすまない。けれどこれだけは言わせてくれ。“貴女のせい”ではなくて“貴女のおかげ”なんだよ、実のところは」
「私の、おかげ?」
「ああ。貴女に私はきっかけを与えられた。貴女のおかげで」
手を握り返される。
強く握られるそれはやはり冷たい。
少しだけ、震えてすらいる。
「……貴女と同じなんだ、私も。過去を、簡単には切り捨てられない。いっそ自分がいなければと思いながらも、実際に無くなれば悲しみを抑えることができない」
「クレイ」
「隠せていたと思ったんだけどなあ。貴女には全て見つかってしまう、貴女の前ではカッコよくありたいのに」
「……クレイは、いつも恰好良いですよ」
「……うん、ありがとう。悲しいものだね、自分の過去が無くなるというのは。グレイルとして生まれたことを呪ったことすらあったのに、いざ無くなると平静ではいられない」
「泣いても、良いのですよ。私は……少しならば、分かるから。聖女としての自分をいまだ、捨てきれていないように」
「……ありがとう」
クレイの事情を、私はやはり知らない。
それでも言葉の節々に感じる、私の感情と似通った何か。
分からないなりに言葉を紡げば、ボロリとクレイの目元から大粒の涙が零れる。
痛いぐらいに握り返される手は真っ白だ。
「私が抑え込めれば良い話だと思っていたけれど。こうして貴女を不安にさせてしまうならば、言うべきなのかもしれない。聞いてくれるかな、私の過去を」
「それは、勿論です。けれど」
「うん?」
「……無理はしないで下さいね。私が守りたいのは、今の、ここにいる貴方だから」
「……敵わないなあ」
手を取り合い、不器用に支え合う。
二度目の人生を始めたばかりのクレイと私。
少し落ち着いたクレイが私の作る不格好なタルトを口に含む。
「甘い」と苦笑するその言葉につられて私も食べる。
塩と取り違えはしなかったけれど、予定よりも数段多く入ってしまった甘い甘いタルトにクレイと2人で苦笑した。




