手招きする者
駅のホームで「おいでおいで」をしてはいけない。
手招きする者は、いつか招かれる側になるのだから。
そんな都市伝説を、自分は一体どこで目にしたのだろう。インターネットの大型掲示板サイトかもしれないし、SNSだったかもしれない。とにかく自分はそれを読み、頭の片隅のどこかに置いていたのである。
それをたまたま駅のホームに立った時に思い出してしまったのは、不運としか言いようがない。
哀れな犠牲者となったのは、線路を挟んで向かい側のホームで電車を待っていた人。
長い髪を乱した女性だった。年齢は自分より少し若く、二十代後半ぐらいか。顔色は悪いが、身なりを整えればそれなりの美人になったのではないかと思う。
だがあろうことか、その女性と自分の目が合った時。
私は腕を持ち上げて、「おいで、おいで」と手招きしてしまったのである。
軽い気持ちだった。出来心だった。そういえばあの日は会社で嫌なことがあった気がする。ムシャクシャして誰でもいいから八つ当たりをしたくて。それにこんな地味な都市伝説なんて、あの女の人が知るわけないだろうと思ったのだ。加えてこの程度ならもし後で咎められたとしても、知人と人違いをしたのだとシラを切れる。そんなことを考えていた。
けれど次の瞬間、女性は前のめりに崩れたのである。周りのどよめきが彼女を捉えない内に、一歩、二歩三歩とヨタヨタ足を動かし、前に出る。
やがて、その体がホームギリギリに立ったかと思うと。
女性の体は、ゆっくりと線路の中に倒れていった。
女性の顔はずっとこちらを向いていて、一度も私から目を逸らさず、まばたきすらも無く。
そして最後に、ニィと嫌な笑顔を作って――。
こちらのホームとあちらのホームを分断するように、特急電車が通り過ぎた。
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その日、私の乗るはずだった電車は人身事故の為に大幅に遅延した。
私は冷静だった。人身事故が起こったと確信するや否や、踵を返して駅の外へと出た。混雑する前にタクシーを捕まえようと思ったのである。
そのまま家に帰った。普通にシャワーを浴びて、食事を済ませ、いつも通りの時間に寝た。
とんでもないことをしてしまったのではないかと恐怖したのは、翌朝人身事故のニュースを見た時である。
生々しいのは、昨日自分がいた駅が映像として流れている点だった。自分は確かにあの場所にいて、女性はあそこから落ちて……。忘れようとしたイメージが、ありありと蘇ったのだ。
テレビを消す。鞄を引っ掴んで、逃げるように家を出る。
その日一日、仕事が身に入らなかった。
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検索をしていた。
あの都市伝説の事を調べていた。
何故駅のホームで手招きしてはいけないのか。手招きをされた人はどうなるのか。した人はどうなるのか。
勿論情報も欲しかった。けれどそれ以上に、自分は仲間が欲しかったのである。
こんな事をしたのは自分だけではない。試しにやってみたけど何故も起こらなかった。人を手招いてしまったけど罪悪感なんて抱いてないし、一ヶ月全然平気で過ごしている……。
けれど、そんな書き込みは一つとして存在しなかった。それどころか、都市伝説そのものが見つからなかったのである。
「なんで……? なんで、なんで」
なんで。私は、確かに見たのに。
見たからこそ、実行してしまったのに。
焦っていた。焦って焦って、噛んだ爪がボロボロになって血が滲んだ。どうでも良かった。目の前の恐怖が多少でも薄れるのなら。
次の日、私は会社を休んだ。それどころではなかった。どうせ行った所で、仕事なんてできる気がしなかった。
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見つけられない。見つけられない。見つけられない。
あの事故から既に三日が経っていた。殆ど寝ていないのに、やたらと目が冴えていて眠気は無い。だからその分、私は望まぬ情報収集に動くことができた。
スマートフォンのキーボードをタップする。インターネットの掲示板に、SNSに、「おいで、おいで」の都市伝説を流し込む。
誰か反応しろ。反応しろ。反応しろ。反応しろ。
何度も画面を更新する。しまいに耐えきれなくなって悲鳴を上げながら連打して、スマートフォンを放り投げる。けれど次の瞬間にはまた飛びついて、私の声に応える文字を探していた。
けれど結果は梨の礫であった。
都市伝説は私だけを殺そうとしている。私はそう確信した。
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「一度精神科に行った方がいい」
私の豹変に気を利かせた友人が、そう言って医者を紹介してくれた。事故から一週間後のことである。
友人が言うには、良い医者らしい。唯一悪いのは、電車に乗らなければならない点か。
この時の私は明らかにおかしくなっていて、タクシーを使うなんて考えもしなかったのだ。
私はフラフラと、駅のホームで列に並んだ。
駅は混んでいた。混みすぎていて、今の私の気力では満員電車に進んで体を押し込むことができなかった。そうこうしている内に二本電車を逃し、とうとう私は列の先頭へ押し出されてしまったのである。
向かい側のホームに目をやる。大勢の人がいた。大勢の人がいて、どいつもこいつも私なんて見てやしない。
……いや。
一人だけ。いや、二人だけいた。
ちょうど真向かいの、二人組の男。
一人はサングラスをかけており、隣の男はサングラスの男が持つスマートフォンを横から覗き込んでいる。隣の男は時折顔を上げ、こちらをチラチラ見ていた。
気分が悪い。だけど私は、何故かその二人から目を逸らせずにいた。
しばらくして、スマートフォンを見ていた男がにんまりと笑う。私の方を指差し、もう片方の手でヒラヒラと手を振るようなジェスチャーをする。そしてそれを受けたサングラスの男が、右腕を持ち上げたかと思うと――。
私に向けて、「おいで、おいで」と手招きをした。
その瞬間、怒りが爆発した。
ああ、ついにこの時が来たのだ。私の怒りは、ごくごく自然に歓喜の一歩を踏み出させた。
腹の中をドス黒い何かが渦巻いていた。どこの誰とも知らない女に呪いをかけられて、振り回されて。挙げ句の果てに、私は今あの男二人のからかいの種になっている。それがどうしようもなくおぞましく、腹立たしくて堪らなかったのだ。
きっとあいつらは私の書き込みを読んだのだろう。そしてバカバカしいことに、試してみたくもなったのだろう。なんという偶然。なんという僥倖。今からお前らは、あの日の私のように呪いにかけられるのだ。
サングラスの男から目を離さない。男も食い入るように顔をこちらに向けている。それでいい。それでいいのだ。私が死ぬところを。私の肉が引きちぎれる所を。お前の悪ふざけが私を殺す所を、その目に焼きつけなければならない。
電車のアナウンスが聞こえる。もうじき電車が来る。私を止める手はいない。足をもう三、四歩踏み出す。
お前らが憎い。憎い。憎い。お前らを縛れるのが嬉しい。嬉しい。嬉しい。
おいで、おいで、おいで、おいで、おいで、おいで。
私は笑いながら、体を線路へと投げ出す。
こちらのホームとあちらのホームを分断するように、特急電車が通り過ぎた。