第一章8 「異世界といえば」
この世界で初めて迎えた朝。うららかな朝日が窓から微かに差し込み、夜が明けたと教えてくれる。
俺の目覚めは最悪だった。強く打ちつけ、ジンジンと痛みを訴える腰あたりをさすりながら立ち上がる。
どうやら、ベッドから転げ落ちて腰あたりを打ち付けてしまったらしい。顔面からいかなかった幸いに喜ぶべきか、自分の寝相が悪いことを恨むべきか。そもそも、生まれてこのかた布団でしか眠ったことのない俺に、ベッドから落ちないように行儀よく寝なさいというのは難しかったのかもしれない。
……いや、そんなことよりも。
「……夢じゃなかった、か……」
昨日、ジルフィーナさんに案内された空き部屋を見回す。だいぶ前にフィオネさんのおじいさんが使っていた場所らしい。おじいさんはもう亡くなっていて部屋を片付けてから誰も使用していないので、俺の自由にしていいそうだ。
小さい棚がついた机と椅子、そしてベッド以外何もない部屋。ほとんど何もないと言ってもいいこの空間は、自分の部屋ではないこともあってか少し侘しさを覚える。
なんというか、ガッカリと言うか……。ため息をつきたくなる。重い重い、ため息を……。理不尽で不条理な現実に直面した気分だ。事実、その通りなのだろうけど。
ーーコンコン、とノックの音が響く。そして、返事をする間もなく扉は開いた。
「あ、起きてたの」
「フィオネさん……」
ジルフィーナさんの娘であり、俺の命の恩人。そして、一目惚れした挙句、開口一番に結婚を申し込んでしまった女性。ついつい口が勝手動いた美しさは一晩経っても見惚れてしまいそうで。一向に慣れそうにない。
彼女と出会えたことは幸せなことだとは思うのだけれど……。夢オチでないことを喜ぶべきか、悲しむべきか……。
しかし、朝一でフィオネさんを見れたのは、まあ、とても、非常に嬉しいことだ。そのおかげか、少しだけ気が軽くなった気がしなくもない。我ながら単純だとは思う。
「おはようございます」
「おはよ。……ぐっすり眠れた?」
「……まあ、そうですね。体は元気になりました」
昨日部屋に案内してもらい、なんとなくベッドに横になってからの記憶がないのだ。おそらく、肉体的にも精神的にも疲労していたので、一瞬で熟睡したのだろう。そのおかげなでしっかり休めたらしいが。
現に、肉体的な疲労は感じられない。朝の気怠さはあるけど。
「体は、ね……。まあいいわ。これから朝食だから食卓に……、ああ、昨日の部屋に来てくれる?」
「はい。今行きます」
フィオネさんと共に部屋を出る。
ドーナツ状になっている廊下に出て、木に沿うように取り付けられた細い階段を下りていく。手すりがなく角度も急なので、落ちないように慎重に下りていった。
視線が下に向いたことにより、あることに気がつく。自分の服が汚れていた。それはもう、割と酷い汚れ方で……。茶色いので、おそらく土だろう。昨日熊に襲われて転んだ時のものかもしれない。
まさか俺、昨日はずっとこんな姿だったの? ヤダ、恥ずかしい……。というか、こんな服でベッドに寝ていたなんて……。すっごく申し訳ないのだけど……。
「あの、フィオネさん」
階段を下りてからフィオネさんを呼び止める。
彼女は立ち止まり、俺の方を見ながら首をこてんと傾けた。……なんだか今、すごくキュンときた気がする。
阿呆な俺を隅に追いやり、気をしっかり持つ。俺の汚れっぷりになんて気付いていて行動してるんだろうが、こういうのは自分で確認しとかないと。
「俺、服汚れちゃってるんですけど……。大丈夫ですかね?」
「ああ、そのこと。今は仕方がないから、それでいい。着替えとかないしね」
そう言ってフィオネさんは歩き出す。あっさりだな、と思いつつ俺も後に続く。
「後で買いに行くわよ」
「はい。……えっ? 買いに行くって、そんなの……。そもそも、お金を持ってません……」
「心配しなくても、お金なら母さんに貰ってる」
そう言い残して、フィオネさんはさっさとダイニングへ入ってしまう。
金銭まで支払ってくれるなんて思ってもみなかった。というか、そこまでされると心苦しすぎて居た堪れない。……しかし、このままというわけにもいかないだろう。この家を汚すわけにもいかないのだし。
綺麗な服を手に入れる方法は……、他にない、か……。盗むなんてやり方も思いつくがそんなことはしたくないし、そこまで追い詰められた状況でもない。
(……いつか必ず返そう。絶対に)
それに、今の俺にはまだ何も出来ない。無力でしかないのだから。ここで、申し訳ないだの受け取れないだの言い張ったとしても、この世界の常識も何もかも知らない俺が、自分一人で解決できるわけがないのだ。
フィオネさんを見て少しは癒されていたはずの心が、また重くなったような気がする。それらの心苦しさを紛らわすように、再びのため息。
なんだか遣る瀬無い気持ちになりながら食卓への扉を抜けると、勢いよく誰かが突進してきた!
「うごっ……」
結構な勢いだったが咄嗟に足を踏ん張り、なんとか耐える。突拍子もなさ過ぎて変な声が出てしまった……。
「お兄ちゃんっ、おはよー!」
犯人はネリスだった。可愛い。自然と笑みが浮かぶ。不安や苛立ちは未だにあるけれど、ネリスを怒る気には全く全然これっぽちもならない。
「おはよう、ネリス」
無意識に頭を撫でてしまう。これぞ、ザ・癒し。……俺ってこんなに子供好きだったっけ? まあいいや。
と、自分が汚れていることを思い出す。衛生面的にも良くないのでネリスを離そうと肩を掴む。
「あの、俺汚れてるからさ。ネリスにも汚れついちゃうし、離れてくれないか?」
「えー」
まるで離れたくないとでも言うかのように不満そうな声を出しながら、より一層抱き締めてくる。
ああ、可愛い。
しかし、食事前に汚れるというのは良くないことだ。なので、苦渋の決意でネリスを離れさせる。
「そこの奥から入った所、台所だから。そこで手を洗ってきて」
フィオネさんが木製のコップにポットのようなもので水を入れながら言う。
テーブルには、おそらく3人分の食事が用意されていた。小麦色のパンが2つにシチューっぽい匂いと色合いのスープ。肉野菜炒めだと思われるモノと玉子焼きみたいな黄色い物体がある。
そういえば、昨日は何も食べていない。無意識に滲み出てきていたヨダレをごくりと飲み込む。
「あ、一応ネリスももう一回手洗っときなさい」
「はーい」
「分かりました。さ、いこ」
ネリスと連れ立ってキッチンへと入る。
すぐに洗い場的な形の場所を見つけた。ここが洗い物や手を洗うところで間違いないだろう。ネリスもそこに近づいているし。だが、あるはずのものが見当たらなかった。
蛇口がない。捻るところもないのだ。これじゃあどうしようもない。排水が流れていく所はあるようだけど……。どうやって手を洗えばいいんだろうか?
俺が困り果てていると、ネリスが洗い場へ手を差し出す。何をやっているんだと思った次の瞬間。
ーー何もない空間から水が出現した。
「……ぇ?」
常識。それどころか物理法則をも逸脱した光景に目を奪われる。俺が呆然としている間にネリスは手を洗い終わった。
彼女が手を離した瞬間に水は止まる。綺麗さっぱり。
全く、意味が、分からない。
「ネ、ネリス……?」
堪らず、タオルで手を拭っているネリスに詰め寄る。
「ん? なぁに?」
「い、今なにしたんだ……?」
おそらく、おそらくというか状況的にネリスが何かしたのだろうと思う。というか、この子しかいない。
「手を洗っただけだよ?」
「いや、えっと、なんていうか、水が突然出てきただろ? あれ、どうやったんだ?」
ネリスはこてんと首を傾げる。まるで、当たり前のことをなぜ聞いてくるんだろう、と思ってそうな顔だった。
ここでふと、異世界であることを思い出す。
俺の常識にはなく、この世界では当たり前のこと。そしてそれは、水が何もない空間から突然出現するという現象を引き起こせるナニか。
……ああ、それはつまりアレだ。ファンタジー系の小説やアニメではよく出てくる定番の概念。
「ーー魔法で出したんだよ?」
予想的中。正体は魔法だった。