第一章3 「現実か、夢か」
女性の顔が怪訝に歪んだ瞬間、自分が何を口走ったかを理解し、全身から汗が噴き出す。
どうにかしなければ、と慌てて立ち上がる。しかし、弁解の言葉など思いつかず、金魚のように口をパクパク。頭は真っ白。
「……今、なんて?」
「あ、いや、えっと……」
問いかけられてようやく言葉を喋れた。だけれど、何を言えばいいんだろう? 素直に答える? さっきのことをもう一回言うとか無理!
「あの、その、今のは違くてですね……。言葉のあやというかなんというか……。いやまあ、嘘じゃないんですけど、えっと、……あ、何言ってんだおれぇっ……!」
思考がこんがらがってはちゃめちゃに。嘘じゃないとか要らない事を口走ってしまう。もう、穴があったら埋まりたい気分だった……。
「ーーあっはっはっはっはっはっ!!」
ーー突如、笑い声が響く。
声の聞こえる方へ反射的に顔を向けると、そこにはお腹を抱えて大笑いする女性がいた。余程可笑しかったのか肩が小刻みに震え、ポニーテールの髪がプルプル揺れている。
彼女はいったい……? この人も綺麗な人だけれど……。というか、今の見られてた? マジで?
「もう、マリ? なに笑ってるのよ」
助けてくれた女性が心底呆れたような顔でポニーテールの女性を見やる。
「はぁ〜……。いや〜、ごめんごめん。あんまりにも面白くってさ〜」
マリと呼ばれた女性は目尻に浮かぶ涙を拭い、俺に視線をよこす。その顔はからかいの色が多分に含まれており、なんだか嫌な予感を感じる。
そして案の定、面白そうに口角を上げながら近づいてきた。
「君、度胸あるね〜。フィーに、初対面で結婚申し込むなんてさ」
「あ、いや、あれはその、口が勝手に……」
「口が勝手にってことは、本心が漏れちゃったってことでしょ? それに、自分で嘘じゃないって言ってたしね〜」
「…………」
……俺はなんと言い訳をすればいいのでしょうか。誰か教えてください。神でもなんでもいいですから。
ああ、少し前の俺を殴りたい……! もっとよく考えて口を開け、と。
「あははは、困ってる困ってる」
マリさんはニンマリ笑顔で、俺の二の腕をバシバシ叩いた。その威力は意外と強く、俺は少しよろめく。叩かれたところがちょっぴり痛い。
その痛みで自身の体を意識した途端、なんだか気怠くなってきた。自業自得のハプニングで忘れていたが、大熊に追いかけられていたのだ。しかも、少女を一人抱えて。
今はまだどうにか大丈夫ではあるけど……。疲れた……。ついでに、マリさんとやらにからかわれたせいで心も疲れてる……。
「マリ、からかうのもほどほどにしなさい。さっきの発言は、……まあともかくとして、一応ネリスの恩人なんだから」
「ふふっ、それもそうだね〜」
「もう……。ごめんなさい」
思考に空白。まさか謝られるとは全く思っていなかったので、俺はフリーズしてしまう。
俺は我に返り、慌てて両手を前に突き出す。謝られるようなことではないのだから。それに、謝罪をするのはこちらのはずで、命を助けられたお礼さえきちんと言っていない。
礼儀も守らずいきなり結婚してくださいなどととち狂った阿呆な発言をした俺が悪いのだ。
「いえいえ! 今のは全面的に俺が悪いですから! 俺が変なこと言ったせいですから!」
「……ま、それもそうね」
……あっさりと肯定されてしまった。ということは、俺が言ってしまったことをバッチリ覚えているということ。
ああ、恥ずかしい……! どこかに穴はないだろうか? 頭から全力で入りたい。
「どうした〜? 顔が真っ赤だぞ〜」
「俺は、なんつーことを……」
「はぁ……。とりあえず、安全なところまで移動しましょう」
助けてくれた女性が呆れたような、疲れたようなため息を吐く。そして、ネリスと呼ばれた少女と手を繋ぎ、歩き始めた。
項垂れているとマリさんに背を押され、俺も二人の後に続く。
「フィー、この人任せても大丈夫?」
マリさんがフィーさん? の横に並び、そう話しかけた。この人というのは間違いなく俺のことだろう。他にいないし。
「ええ、大丈夫」
「なら任せた。それじゃあ、私は先に行ってみんなに無事を知らせてくるね」
「うん。よろしく」
なんとはなしに会話を聞いているとマリさんがこっちを向き、軽く手を振ってくる。とりあえず、会釈を返した。
ーーそして突如、マリさんが木の枝に飛び乗る。明らかに普通の人間の動きではなかった。
「え?」
現実的じゃない跳躍力に唖然とする。今俺が立っている場所と枝の間は、具体的な数字は分からないがそれなりの距離があるはず。
何がどうなって……?
「じゃ、後でね〜」
マリさんはそう言って、すんごいスピードで木の枝を飛び移りながら進んでいく。やがて、あっという間に見えなくなってしまった。
忍者かよ、とツッコミを入れる気にもならない。
ふと、これは夢だったと思い出す。
(ということは、全部夢……?)
しかし即座に、自分の思考が冷静に否定した。
夢にしては全てがはっきりし過ぎている。大熊の迫力や少女の感触。そして、フィーさんの端整な美しさは確かに目の前に存在しているのだ。他にも土の感触、草木の騒めき、頬を撫でる風。それらは俺の五感を刺激し、今も意識すれば明確に感じることができる。
現実としか思えない夢もあると、どこかで聞いたような気がしないでもないが……。これはあまりに、リアリティ溢れているような……。
「……本当に、夢?」
そんな馬鹿なとは思うのだけれど、夢である確証も、現実でない証明もできない。夢か現実か判断できず、俺の頭は混乱する。考えているようで考えていない……。答えは出ず、思考は止まる。
これ以上は、ダメなような気がして……。
「…………」
……ダメだ。上手く頭がまとまらない。
正直、大熊に襲われたこととフィーさんに結婚申し込んだ恥ずかしさで頭がいっぱいなんだ。
いろいろ処理しきれていない。というか、疲労と羞恥心で精神がすり減り、気力が全く湧いてこない。
「さ、私たちも移動しましょう。あなたも一緒にね」
「あ、はい。分かりました……」
状況の整理をしたいが、まずは落ち着くことが先決だろうと思う。……何かを考えるのは、それからでも遅くはないはず。
とりあえず、フィーさんとネリスが仲良く手を繋ぐのを後ろから眺めながら、ついていくことにした。
踏み出す足がやけに重く感じる。疲労のせいだ。……でも、きっと、それだけじゃない。