第四章45 『シ ア ワ セ』
避難所の外に出ていた。行先は、急遽作られた死体安置所。安置所と言っても、精霊たちの協力で作った森の広場に遺体を並べているだけだ。
そこはテジットたちの居た避難所から、やや離れた位置に作られている。避難民に配慮した結果だ。
ちなみに、そこだけではなく他の場所にも作られたらしい。俺が目覚めた避難所の近くにもあったそうだ。それだけ死傷者が多かったということだろう。
クラルさんの遺体は、ここの避難所の近くの安置所に運ばれたそうだ。そこに、リコルもヤンバムさんもいる。
俺は黙々と歩いた。何も喋らず、何も考えられず、ただひたすら足を動かし、ローレンさんの背中についていく。
その間、ジルさんとローレンさんは一言も話さなかった。
「……ここだ」
――悲しい場所だと、そう思った。
何人、何十人と死体が横たわっている。先ほどの治療所と同じく等間隔に、けれど苦痛に満ちた声もあげることなく静かに。寂しいほどの静寂。
死体の全てに白布がかけられている。顔だけではなく、全身を覆うような白布。そのおかげなのか、鼻腔を刺激する腐敗臭は全くしない。ハエのような虫がちらちら飛んでいるが、その白布には近付こうとしないようだった。
聞こえてくるのは泣き声。誰かを失った悲しみの呻き。家族か、恋人か、友人か。そんな誰かの死体の前で、残された誰かが泣いている。
ただただ、悲しみだけが広がっていた。
「ここのどこかに、リコルたちもいるだろう。俺は……、後から合流する。見知った奴がいたら、身元と名前を記載しなきゃならないんでな……。知り合いにも、挨拶しないといけない」
ローレンさんはそう言い残し、一人歩いていく。おそらく、何かの書類を持って遺族と話している守衛隊の人たちの所へ行くのだろう。
俺に出来るのは、彼の知り合いが遺体でないことを祈ることだけだ。
背中に手が添えられる。ジルさんだ。
「大丈夫?」
「はい……。なんとか……」
「そう……? 無理、してない?」
「無理は……、してないとは言えません。でも、会わないといけないんです。今日、俺が」
でなければ、きっと、苦しい。何かに急かされるような焦燥感を放ってはおけない。俺はそれから目を逸らせるほど器用ではない。
たとえこの行動が更なる苦痛を呼んだとしても、それは遅いか早いかの違いでしかないのだから。
俺には未だ、覚悟と呼べるものはない。だからと言って、目を背け逃げる意思もない。
故に、向き合うしかないのだ。
それ以外の選択肢を思いつかない。思い浮かべられない。
「……分かった。……私も、少し名簿を確認してくるわね。……苦しくなったら、遠慮なく頼ってちょうだい」
「はい。……ありがとうございます」
彼女は優しく微笑み、ローレンさんの後を追いかけていく。俺はそれを見届け、なんとはなしに足を進めた。
白布の間を歩く。夥しい数の死体の間を、俺は歩いている。
全て、生きていた人間だった。息をして、食べて、寝て。家族がいて、友人がいて、恋人がいた人もいただろう。この国で生活していたのだ。
罪人もいるかもしれない。
けれど、そのほとんどが平穏な生を謳歌していた一般人。魔物などという脅威などとは無縁な人生だったはずだ。今日死んでしまうだなんて、考えもしなかっただろう。
死んだのだ。ここに横たわっている全員、死んでいる。死んでいるのはここだけじゃない、各地の遺体安置所にある死体もそうだ。これから先も、治安の悪化により死んだり、瓦礫の撤去作業で死んだり、人生に絶望して自殺する人も出てくる。死者はもっと増えるだろう。
大蜘蛛という最悪の魔物のせいで。……いや、もっと根本的な原因がいる。
こんな事態を招いた元凶。魔物を引き寄せたと思われる人物。
数多の死者を生み出したのは全て、
「おれの……」
言葉にはしない。怖いから?
思考は止める。認めたくないから?
全ては大蜘蛛のせいなのだ。そうした方が楽だものな?
何も悪いことはしていない。罰を受ける覚えもない。俺はただ、ここにいて、ここで生きていただけだ。
それだけだ。
「――ナオヤ」
少女がいた。目の前に立っている。
彼女はリコル。リコル、のはずだ。纏う雰囲気がどれだけ淀み、俺を呼ぶ声音が昏く、うすら寒い笑みを張り付けていようとも。間違いなく、リコルだ。
「お母さん、死んじゃった」
平然と、一切の躊躇なく、彼女は言った。
「でもね、最期に話せたの」
俺の胸元に彼女は顔を寄せた。背中に腕を回され抱きしめられる。
「幸せになりなさい、だって」
暗く濁った瞳と目が合う。
「ふふ、よく分からないよね。お母さんがいないと、幸せにはなれないのに」
突き放したい衝動に駆られる。しかし、そんなことをする理由も意味もなく、理性が手を止めた。
「だけどね、お母さんの言ったことだから。考えたの。幸せになる方法。私、考えたんだよ。ずっと、ずっと、ずっと、考えてた」
衝動によって持ち上がった手を、ゆっくり彼女の両肩に置く。……震えていた。
その震えが自分自身のものなのか、リコルのものか、あるいは両方か。分からない。
「そしてね、気付いたの」
彼女がきつく、きつく、抱きしめる力を強めた。
目が蕩け、頬は朱に染まり、笑みを深める。
「ナオヤの傍にいると、幸せだなって」
言葉にならない感情が思考を真っ白に染めた。ぞわりと背筋をナニカが這い上がる。
俺は、何も言えなかった。
「だからね、ナオヤ」
彼女の瞳。淀んだ目。その目に反射した景色には、俺しか映っていない。
「私を、シアワセにしてね?」
森の中を一人の男が歩いていた。髪は白く、顔に刻まれた皺は年齢の深さを示している。けれど、背筋を伸ばし、腰に引っさげた刀の重さを苦にもせず、毅然と前を見据え歩くその様に些かの衰えもなし。
初老の男性、ヴァンへインは、二つの目的を持って進んでいた。
一つは、正体不明の魔物の捜索。大蜘蛛を最後の最後にかっさらった狡猾な魔物。
現在、大蜘蛛の齎した被害で隠れているのか、その魔物によると思われる被害らしい被害は見当たらない。しかし、未だフェルミアに潜伏している可能性がある以上、放置することは出来なかった。大精霊主導の元、口が堅く実力のある者たち少数で目下探している最中だ。
そしてもう一つは、ジルから頼まれた一人の男の回収である。名をアーガイル。木の根元に匿った、瀕死の男だ。
こちらの用事は既に済ませている。瀕死だと聞き、大精霊の力を借りて速攻で探し出した。聖獣ロウの力で凍えていた木々の根元、冷たい土に覆われて震えていた。
幸いなことに、アーガイルの出血は聖獣の力の影響で完全に止まり、意識は絶え絶えながらも保っていた。食い千切られた左腕はどうにもならないが、命だけは助かったと言える。
だが、彼の部隊仲間は全滅だとヴァンへインは聞いていた。生きていることは紛れもなく運がいいが、仲間は全滅した状況など素直に喜べる心境にはならないだろう。彼がどんな人物か知らないが、独り生き残ったことに対して微かな哀れみをヴァンへインは抱く。
しかし、所詮は他人事。加えて知り合いでもない他国の人間だ。そんな男がどうなろうと、ヴァンへインという人物に与える影響は皆無だ。憐憫に思えど、それ以上のことはない。
最優先すべきは謎の魔物だ。それをどうにかしない限り、脅威が去ったとは言えないだろう。本当の意味で安全を確保するには、一刻も早く排除しなければならない。
大精霊の推測では、およそ一月前にあった動物たちの殺戮、森奥で生きていた動物たちを悪戯に傷付け、食欲ではなく遊びで焼き殺した魔物だろうとのこと。
それが本当ならば、ますます放っては置けない存在となる。残忍な行動や性格をしていることは魔物であるというだけで納得できるが、森の守護者や管理者とも称せる大精霊でもその存在を一切感知できない隠密能力は危険極まりない。
だが、隠れる能力は高いが戦闘能力は低いと予想できる。それは、人の前に姿を現さないことと、大蜘蛛が瀕死になるまで潜んでいたこと、力を吸収するために大蜘蛛を捕らえたと思われることが根拠だ。同時に、賢い頭を持っていることも示しているが。
なんにせよ、今なら、最小限の被害で倒せる可能性が高い。厄介な存在に成長する前に、潰すのだ。
まあ、全ては見つけ出してからの話だけれど。
歩みを止める。ヴァンへインはゆっくりと後ろへ振り返りながら、鞘に納めたままの刀を抜く。
――巨大な刃が彼の眼前に迫っていた。鋭く研がれた剣は容易く人肉を断ち切り、分厚い刀身を持って骨格を完膚なきまでに破壊するだろう。
しかし、ヴァンへインは焦らず、困惑も驚愕もなく、ただただ冷静に、刀の鞘を迫る刃の腹に添えた。すると、音もなく剣筋が横に逸れ、巨大な刃は血肉を抉ることなく横の地面を叩き切る。
ヴァンへインは鞘を構えたまま、自身の身の丈を超える大剣を殺意全開で振り下ろしてきた男を見据えた。
男が浮かべるは獰猛な笑み。
「よう。久しぶりだな、親父」
「……グラン。帰っていたのか」
グラン。大きく、分厚く、重たい大剣を軽々と片手で担ぎ上げるその男は、ヴァンへインの息子だった。
今は亡き妻との間に出来た忘れ形見。子宝に恵まれなかったヴァンへインたちに、42年前、ようやく授かった大切な息子。
「ここに魔物がいるんだろ? そいつをぶっ倒しに来たんだ」
しかし、今は力を求め、各地を放浪する浮浪者となっていた。有り体に言えば無職である。
己を高め、力を得て、経験を磨き、強くなる。そして、いずれは英雄と讃えられた父親を超えるために。グランは家を飛び出し、自分の生まれ育った国を出た。
久方ぶりに再開した息子の発言に、ヴァンへインは嘆息する。
「本気で言っているのなら、お前は愚か者だな。どれだけ強くなったのか知らぬが、その慢心がある限り、私には決して届かない。ついでに言うと、魔物はもういない」
「ああ、知ってる。遠くからでも見えたぜ、大蜘蛛が凍り付けになって爆散するところは。俺も戦ってみたかったから、ほんと、心底残念だ」
その発言にヴァンへインは眉を顰めた。
「お前も街の様子を見てきただろう。蜘蛛どもの死骸に人々の亡骸、破壊されつくした街並みを。……それを見た上での言葉か?」
「それがどうしたってんだ。大蜘蛛以外の雑魚に用はないし、それで死んだ奴は弱かったというだけの話だろう。街に至っては建て直せば済む。それだけのことだ。俺とは関係ない」
グランは躊躇いなくそう言い切り、大剣を肩に担ぐ。そして、本気で斬りかかった父親にあっさりと背を向けて、どこかへと歩き始める。
「……どこへ行く? もう国を出るのか?」
「せっかく来たんだ。しばらくはこの国に、この街にいるさ」
グランは空いている左手をヴァンへインにひらひらと振った。
「国を出る時にまた来る。……俺が親父に近付いていることを、教えてやるよ。じゃあな」
不穏な言葉と共に歩き去ったグランを見送り、ヴァンへインは刀を下ろして溜息を吐く。
息子と久しぶりに会えたことは純粋に嬉しい。けれど、強くなることにこだわり、それしか見えなくなっている状態には呆れるばかりであった。
そして、彼は思う。……面倒くさい、と。
ヴァンへインには被害確認やら正体不明の魔物の対処などなど。これから気の休めない忙しない日々が待っている。ただでさえ疲れている所に、今度は放蕩息子だ。
グランをもっとマシな性格に教育出来なかった自身に責任感は感じるも、気を回すほどの余裕はない。不器用であることも自覚しているが故に、下手に干渉するのも憚られる。
息子が罪を犯さないことを祈る他ない。多少の問題が起こることは姿を見た時点で諦めている。
ヴァンへインは深く、深く、息を吐いた。
彼の脳裏に思い浮かぶのは、あたふたと焦るナオヤにフィオネが攻撃を仕掛けていたり、魔法を教える様子を眺めていた訓練の記憶。騒がしくも、平穏な日々。
あの平和で心休まる時間が再び訪れることを、ヴァンへインは強く願った。
第四章おわり。