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あいうぃるりぃゔいんでぃすわーるど  作者: 迷い猫
第四章 消えゆく平穏
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第四章43 「生きていてくれて」



 苦しい。痛くて、冷たい。

 陰鬱だ。気分が重い。胸の奥に、氷でも刺さっているようだ。心まで辛くなってしまう。消えてなくなってしまいたい。


 どこかの道を歩いている。誰もいない。雪が降っている。周りには住宅が並んでいた。きっとそこにもいない。人っ子一人いやしない。

 まるで、世界にただ一人となったような感覚。どうしようもない孤独が胸を貫く。


 隣には誰もいない。見守ってくれていた誰かは、もういない。一緒に歩いていたあいつも、もういない。

 一人だ。一人だ。一人だ。


 独りだった。


 ……ふと、足元に黒い点が見える。ソレは紛れもなく蜘蛛だった。足で難なく踏み潰せるソレは、いくつもの紅い瞳で見つめてくる。

 蜘蛛は嗤った。人間のように笑窪を作り、不気味なほど白い歯の隙間から真っ赤な舌を覗かせる。ガチッ、と歯が噛み締められた。


 激痛が全身を砕く。腰が千切れ、両足が消えていた。

 明確な痛みの中、声を上げることは出来ず、朧げな意識で近付いた蜘蛛を見やる。蜘蛛はナニカを咀嚼し、雪の上に血を滴らせていた。


 白い雪上に落ちる深紅の血液は不思議と魅入ってしまう。まるで、花でも咲いているような。そんな鮮やかさを胸中にもたらす。


 ガチッ。


 気付くと倒れていた。蜘蛛は相変わらずナニカを喰っている。さっきよりも大量の血が純白の雪を穢す。

 その光景は綺麗で。けれど、狂気と忌避感を抱かずにはいられなくて。苦しく狂おしい愉悦が脳を焼く。

 息が出来ない。痛みが引かない。


 蜘蛛は眼前にいた。パックリと開かれた口。狂気と愉悦に浸された笑み。嗤っている。狂っている。

 その黒さは邪魔だ。消さなければならない。殺さなければならない。だって、邪魔なのだから。だってこんなにも、おいし


 ーーガチッ。


 雪と血に染まった。故に、わらう。




「ウっ……!?」


 慌てて上半身を起こし、口を抑える。食道を昇ってくる苦い酸を塞き止め、喉の痛みを我慢しながら吐き気を飲み込んだ。

 気色の悪い気持ち悪さが口内と鼻腔の奥にへばりついてしまった。


「がぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


「大丈夫か……? ナオヤ?」


 気怠い意識の中、視線を隣に向ける。ローレンさんがいた。

 返事を返したい。けれど、口を無理に開けば吐き気が戻ってきそうで。きつい……。


「ああ、無理して喋るな。ちょっと待て……。ほれ、水だ。ゆっくり飲めよ」


 木製のコップに入った水を彼が差し出してくる。それをありがたく受け取り、軽く会釈をしてから口に含む。

 冷たく潤った水分が口内の気持ち悪さを洗い流し、喉奥の嫌な酸味も和らいでいく。


「嫌な夢でも見たか? ……まあ、無理もない。悲惨だったからな。今、生きているのが不思議なほどに……」


 気分がやや落ち着いた。そして、彼の言葉で自分が意識を失っていたことに気が付く。

 頭はまだ少しぼんやりしている。とりあえず、現在の状況を確認するために周囲へ視線を向けた。


 まず目に入るのは大量の人。人。人。けれど、誰もかれもが暗い表情で俯き、嗚咽を漏らし、涙を流している。陰鬱な雰囲気が広がっていた。

 そんな人垣の奥には大きな屋敷。その屋敷を中心にして人々は集っているようだ。


 蜘蛛の大群ではないことに安堵するも、人々の多さに酔い、憂鬱な空気に滅入ってしまいそうで。何とも言えない気分になる。

 ぼんやりした思考は重たい光景ですっかり目が覚めた。同時に、ここが避難所なのだと察する。


 空は未だ曇天。いつ雨が再び降り出すかも分からない。そんな中に、屋内に収まりきらなかった避難民はいる。


「ここは避難所の一つ。結果は見ての通り。……嫌な空気だ」


「……大蜘蛛のことは?」


「魔物が大精霊様と聖獣様によって排除されたことは既に広まってるし、正式な発表もされたが……。だからって失った物は戻ってこない。地獄のような光景も、記憶から消せやしない。……無邪気に喜べる奴は誰もいなかったんだ」


 分かる気がする。


 多くの人が亡くなった。それぞれがそれぞれの交友関係を持っていただろう。家族、友人、恋人など……。色々な交友関係が連鎖して、避難所は悲しみに満ちている。

 蜘蛛が人を食っていた光景は、俺の脳裏にも焼き付いていた。今でも鮮明に思い出せる。嫌な気分と共に。……知り合いでも何でもない人だったけれど、ここまで覚えているのだ。

 もっと悲惨な光景を目にした人もいるだろう。そこに知り合いが入っていたら、言わずもがな。トラウマ確定だ。


 なんにしても、時間が必要なのかもしれない。動転した心を落ち着かせ、現実を受け止める時間が。

 俺がこの世界を現実だと受け止めるまでに費やした時間のように。


「……そういえばジルさんは?」


「そこだ。フィオネもいるぞ」


 彼が指さす先を見れば、ジルさんとフィオネが抱き合っていた。ジルさんの肩にフィオネが顔を埋めている。その背中にはネリスが眠っていた。

 その近くにはマリリンさんも立っており、貰い泣きでもしたのか目を何度もぬぐっている。


 俺はそっと目を逸らす。きっと彼女たちの大切な瞬間なのだから。


「……呼んで来てやろうか?」


 ローレンさんの気遣いに、俺は首を横に振る。


「いえ……。無事なら、それで……。ローレンさん、聞きたいことがあります」


 俺の意識ははっきりしてきている。それはつまり、今日のことを思い出してきているということにもなり。……嫌な予感を抱きながらも、確認しなければならない人達がいる。

 聞くのが怖い。胸の奥が冷たくなっていく。見えない何かで喉が詰まったようで。唇がやけに重たい。

 けれど、聞かないわけにはいかないのだ。遅かれ早かれ、現実というのは容赦なく突き付けてくるのだから。苦しくて受け入れがたい、残酷な事実を。


「……皆は、無事ですか?」


「……皆ってのは、具体的に誰のことだ?」


 怯えて濁された俺の言葉を、彼は見抜いてくる。しかし、俺は何も答えられなかった。

 名前を出して聞くのが躊躇われて。結果を知ってしまうのが、怖ろしくて。


 しばしの沈黙の後、ローレンさんは口を開く。


「テジットは軽傷。俺の部下であるサミュも軽傷、セリーナと野郎二人は重傷一歩手前だが無事。スノウの奴も、まあ、重傷だが後処理で動いてるのを見るに大丈夫だろう。ああそうそう、聞いただけだが雑貨屋のクリケットも無事らしい」


 知り合いの無事に確かな安堵感が胸に広がる。けれど、心臓にぴたりと張り付いた冷たい感覚は消えやしない。嫌な予感はこれっぽっちもなくならない。


「あと、ゲリックだが……。何とか命は取り留めた。まだ目覚めていないし、左足はもうないが、生きてる。今は傍にテジットが付いてるから、後で様子を見に行くと言い」


「……はい」


 良かった。本当に良かった。心からそう思う。

 これからゲリックさんは片足の無い不自由な生活を強いられる。それを思うと苦しくなるけれど……、死んでいない。生きていてくれることに、安心した。

 でも、彼は最悪ではない。俺が知っている重篤な人は、彼ではない。


 ああ、耳を塞ぎたい。予想が付いてしまうから。結果が分かってしまうから。きっと残酷なのだから。


 でも、聞かなければならない。それがどれだけ、受け入れがたい事実でも。逃れられない、現実なのだから。


「……クラルさんは、どうなりましたか」


「――死んだよ。リコルとヤンバムさんに看取られて」


「…………」


 やっぱり。ただそれだけを思った。

 それ以上の言葉は何一つ浮かんでこない。

 冷たい何かが、心を刺し貫く。

 悲嘆か、苦痛か、陰鬱か、罪悪感か。重たく昏い何かが胸奥に沈殿する。


 残酷だった。


 どれだけ心に予防線を張っていても、その残酷さはこれっぽちも衰えなかった。


「……今は、何も考えない方がいい。まずは自分のことを、整理していくんだ。ゆっくりでも」


「……はい。その……、リコルは、……彼女の、様子は?」


「……後で様子を一緒に見に行こう。こことは別の場所だからな。そのためにはまず、自分自身の回復だ」


 頷き返すことは出来なかった。リコルの状態を見るのが、少し、恐くて。仮にあったとして、なんと声をかければいいのか分からない。


「ーーナオヤ」


「……ジルさん」


 目元を赤らめたフィオネを伴って、ジルさんが近くに立っていた。いつの間にか、ローレンさんはいない。

 周囲の動きに気付かないほど、随分と考え込んでしまっていたようだ。


 フィオネと目が合う。咎めるような、責めているような視線に思えた。俺はすぐに顔を背ける。


「……ちゃんとこっち見て」


 容赦なく紡がれた彼女の言葉に逆らう気などなく、俺は恐る恐るもう一度視線を合わせた。

 ーーフィオネが手を振りかぶっている。間違いなく、叩かれるのだろう。

 咄嗟に目を瞑り、痛みに構える。……しかし、いつまで経っても衝撃はこない。


 うっすらと目を開く。ーートスっ、と軽い衝撃が頭に響いた。

 彼女のチョップが俺の前頭部に触れている。


「どう、して……」


 フィオネは手を離し、呆れたように溜息をつく。


「別に許したわけじゃない。本当は沢山、文句だって言いたい。……でも、あんたは生きて帰ってきてくれた。今は、それでいい。……まったく、心配したのよ? ネリスなんて、それはもう大変だったんだからね……」


「……ごめん」


 俯き気味に頭を下げる。まともに顔を合わせられない。申し訳なくて。これしか言えなくて。


「……バカね。ナオヤはほんとに、バカ」


 ーー体がぬくもりに包まれる。優しい声が、耳元で聞こえる。

 フィオネに、抱きしめられた。


「生きててくれて、ありがとう」


 胸の奥から沸き上がった衝動を、咄嗟に下唇を噛み締めて抑える。それでも、止まれない衝動を、拳を握りしめて堪える。けれど、その衝動を留めることは出来なかった。

 視界が滲む。涙が溢れ出る。喉が震え、呼吸が乱れる。


 ーー誰かが、フィオネごと俺たちを包み込む。見なくても分かる。ジルさんだ。


「私たちは、もう家族同然。悲しいことも、苦しいことも、辛いことも、皆で分かち合っていきましょう。だって、……私たちは家族なのだから」


 もう耐えられなかった。

 言葉になんて、出来やしない。

 ただただ、涙が流れていく。


 俺を包む三人の温かさが、優しくて、嬉しくて、大切で。

 冷え切った心に深く、深く、染み込んでいった。




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