6、悪魔の欲するもの
という予告があった後、本当にジュードさんは私の屋敷へ訪れた。もうそろそろ夜になるだろうという時刻に、空から。窓から偶然その姿を拝見した私は慌てて外へと飛び出した。そして漆黒の翼をばさばさとはためかせる姿に、やはり彼も悪魔だったのだと、今さらのように思ったのだ。
「こんばんは、ミシェル様」
私はポカンとしたまま、ジュードさんが華麗に地面に着地する様を見ていた。
「えっと、こんばんは」
ジュードさんは舞踏会に参加する貴公子のように、完璧な正装をしていた。ちなみに翼はきれいさっぱり消え去っている。
「改めて、自己紹介させて頂きます。私の名前は、ジュードと申します。本日は急な来訪、どうかお許し下さい」
洗練されたその仕草に、私は恐縮する。
「あ、いいえ。少し驚いただけですので、気にしないで下さい」
とりあえず詳しいことは中で、と私はジュードさんを中へお通しする。
友人の顔に、レドは飲んでいたワインをふきだしそうになり、思いきりむせてしまった。その背中を擦ってやりながら、私は大変なことになりそうだと他人事のように思った。
「おまっ、なんでここにいるんだよ!」
「いえ、久しぶりにあなたと話がしたいと思いまして。それで勝手ながらお家を調べさせてもらったところ、何やら事情がありそうでしたので、こうしてこっそりと伺った次第でございます」
どうやら私が家族と微妙な関係にあり、住居を別にしていることも調査済みらしい。正直両親にこのことがばれたら面倒なことになると思うので、ジュードさんの気遣いはたいへんありがたい。
「とりあえずお食事でも」
「はい。お気遣いありがとうございます」
「いや帰れよ!」
まあまあ、と私はレドを宥めながら、ジュードさんに料理を振る舞った。レドはまだぶつぶつ文句を言っていたが、ジュードさんと私が楽しげに話すのを見て、やがて諦めたように食事を再開させた。
「――それにしても、空を飛んできたのは驚きました」
ジュードさんはお上品に肉を切り分けながら、ふふと微笑んだ。
レドはフォークとナイフに慣れていないようだったが、ジュードさんのテーブルマナーは完璧である。やはりどこかの貴族ではないだろうか。
「ええ、悪魔ですから」
――悪魔。
正直、まだ信じられない。なんというか、レドという悪魔に慣れ始めていたので、ジュードさんのような方もいることに内心驚いていた。きっとレドとは違うタイプの悪魔なのだろう。どちらかというと、ジュードさんの方が狡猾で、より悪魔らしいと、直観で私は思った。
するりと人間社会に溶け込んで、いつの間にか背後を取られているような。
「私はそこの優しい悪魔さんと違って、血も通っていない非道な悪魔ですから。ミシェルさんが戸惑うのも無理ありません」
「おい、ミシェル。こいつに酒なんて出さなくていいからな」
自分はぐびぐび飲みながら、レドは言った。友人の失礼な物言いにも、ジュードさんはにっこりと微笑みで返した。
「あなた、いつも私と飲み比べて負けてしまいますものね」
「はっ。上等じゃないか」
とレドがまんまと口車に乗せられ、彼らはボトルを次々と空にしていく。昔の話を混ぜ返し、ジュードさんがレドを揶揄って、それにレドは怒って、照れを隠すようにグラスをあおって、そして――
「――寝てしまいましたね」
「ふふ。この勝負、また私の勝ちですね」
テーブルに突っ伏してしまったレドに、涼しい顔をしてジュードさんが言った。
レドが弱い、というわけでもないだろう。
ただジュードさんが大変お酒に強いだけだ。
「レド。ここで寝たら、風邪ひきますよ」
揺さぶって起こそうとするが、レドはむにゃむにゃとよくわからない言葉をつぶやくだけだ。
「私が後で運びますから、寝かせておいてやりなさい」
私よりもずっと大きいレドを運ぶのは確かに無理だ。ここはジュードさんの言葉に甘えよう。
「ジュードさんも今日はお泊りになって下さい」
「いえいえ。急に来て泊まるまでするのはさすがに無礼というもの。しばらくしたら、私もお暇します」
「ですが……」
ジュードさんはいいんですよと微笑んだ。私もそれ以上言うのは失礼かとこの話はお終いにした。お互い沈黙が流れ、何か話さなくてはと私は思った。そしてずっと聞きたかったことをこの機会に尋ねてみようと彼へ向き直った。
「あの、初めて会った時、レドのことを悪魔らしくないとおっしゃいましたよね?」
「ええ、言いました。気になりますか?」
私はこくりと頷いた。悪魔にも興味があるが、レドという個人のことがもっと知りたい。
ジュードさんは酔いつぶれた旧友に目をやりながら、どこか困ったように、しかしそれも仕方がないというような表情で言った。
「彼には力も知恵もありますが、悪魔として一番必要とされる残虐性を欠いているのです。いえ、自分や仲間を馬鹿にする者には容赦ありませんが、逆にいえば、気に入った者にはとことん甘い男と言えるのです」
「それは、悪いことなんですか」
レドから視線を戻し、親しみのこもった目で彼は私を見つめた。
「確かに人間同士の付き合いならば、それで構わないでしょう。ですが私たちは悪魔です。人間の魂を、上司に捧げるのが悪魔の役割です」
そういえば、レドもそんなことを言っていた気がする。
「その上司、というのは……」
「そうですね……こちらでいう王さまみたいなものでしょうか」
「なるほど。王さま」
「はい。ただ、善良な王というよりも、力ですべてを支配する暴君ですがね」
悪魔を束ねるのだから、そちらの方がしっくりくる気がした。
「悪魔たちは王に魂を捧げるのが仕事です。それをさぼれば、たちまち私たちは殺されてしまう。死よりも恐ろしい罰を受けることとなるのです」
「なるほど。だから悪魔も、必死で人間を誘惑するんですね」
はい、と出来の良い生徒を褒めるようにジュードさんが頷いてくれた。
「ですがそれとは別に、私たちが魂を食らうこともあります。穢れきった罪人の魂ではなく、純粋無垢な美しい魂。……あなたのようなね」
私はどきりとした。それまで優しく微笑んでいたジュードさんの目が、ぞくりと妖しく輝いたからだ。隙あらばお前の魂も頂くぞと言われた気がした。
「……ジュードさんも強くなるために魂が欲しいのですか?」
「そうですね。その気持ちも否定できませんが、第一と考えてもらっては困ります」
ふ、とジュードさんが柔らかく微笑み、私は甘い焼き菓子をついつい食べ過ぎてしまったような気分になった。
「魂を己の体内に取り込む。それはすなはち、自分の一部になるということです。天へ導かれることも、地へ堕ちることもない。永遠に自分のそばにいて、同じ時を刻む存在となる。そのために私たち悪魔は魂を奪い、喰らいつくす。そう考える悪魔も、中にはいます」
「永遠に自分のそばに……」
相手の心だけでなく、魂まで欲しい。それこそが、愛する人と結ばれた証拠。常軌を逸している行為だが、それは究極の愛の形とも言えるかもしれない。
「でも、レドは違うと言っていました。彼はただ己が強くなるために魂を奪うと」
「たしかにこれまではそうでしたね。でも、今もそうだとは限りませんよ」
どういう意味だろうか。
私はそう視線で問いかけたが、ジュードさんが答えることはなかった。ただ意味ありげに微笑むだけだ。
それはあなたが自分で見つけだす問いだというように。
「私も、あなたに聞きたいことがあります」
改まった口調に、私ははいと自然と背筋を伸ばす。そんなに緊張しないで、とジュードさんは優しい声で尋ねた。
「レドを召喚したのは、あなたですか?」
「……いいえ。召喚したのは、私ではありません」
ジュードさんの方に向き直り、私は正直に白状する。そうしないと、命はない。私の本能的な何かが、そう告げていた。わずかな沈黙の後、ジュードさんはふうと息を吐いた。
「……やはりそうですか。そうかと思っていました」
「気づいて、いらっしゃったんですか?」
「というより、あなたのようなお嬢さんが悪魔を召喚するとは信じられなくて」
きっぱりとした口調だった。断言するような口調に、私の方が戸惑う。
「そんなに意外ですか」
「ええ。悪魔に魂を売ってまで何かを叶えようとする人間には見えませんから」
わかるんです、とジュードさんは芝居がかった仕草で肩を竦めた。
「ほら、悪魔って生物上、欲深い人間と関わることが多いでしょう? だからあなたはそうじゃない人間だと一目見た時からわかりました」
そうだろうか。私はジュードさんの意見にあまり賛成はできなかった。
「私だって、案外欲深い人間になるかもしれませんよ」
「そう言っている人間は、一生なりませんよ」
「そういう、ものでしょうか……」
むしろこういった人間こそ、欲しいと思ったらどこまでも執拗に求める気がする。と、以前レドは言っていた。
でも、ジュードさんは私をそういう人間ではないと判断した。だからこそ、レドを召喚したのは私ではないと言い当てた。
そう考えると、案外彼の言う通りかもしれない。
「それより、あなたが召喚したのではないのなら、誰が彼を呼んだのでしょう?」
「それは……」
私が言い淀むと、ジュードさんはすぐに何か事情があるのだと察してくれた。
「誰かを庇っていらっしゃるのですね。そしてその人物について……あなたはできることなら黙っておきたいと」
「ええ。その通りです」
ですが、とジュードさんはちらりとレドを見る。
「彼は、顔を知っているのではありませんか」
「レドと初めて会った時、彼は自分を召喚した人間は誰か、と私に尋ねました。だから、おそらく顔は知らないはずです」
「顔を見ていないから、というのはあまり問題ではありません。私たちは本能で、誰が自分を召喚したのか、わかりますから」
つまり、ばれてしまうのも時間の問題だというわけか。あるいは、もうばれている可能性も。
「レドが本当のことを知った時、どのような行動をとるのか。私は、不安になるんです」
レドは、こちら側に不条理に呼び出し、自身を閉じ込めた召喚者を許していない。再会すれば、報復するかもしれない。
いや、彼はきっとそうするだろう。彼は悪魔なのだから。
私は彼らが衝突するのが怖い。その人物にレドを傷つけないで欲しい。そしてレドにも、そんなことをしないで欲しい。
「よろしかったら、彼をこちらで引き取りましょうか」
え、と私は顔を上げる。ジュードさんは優しく微笑んでいる。
「成行き上、仕方なく面倒を見ているのでしょう? 世話やら何やらで、大変ではないですか」
「いえ、そんなことは……」
ない、とは言い切れなかった。食事や寝る所など、レドはなかなかこだわりの強い持ち主だった。しょっちゅう機嫌を損ねてしまうし、放っておくとさらに面倒なことになる。
「ね、私の所へ預けなさい」
預けなさい、と言ってくれているのだから、厚意に甘えればいい。ひょっとすると、ジュードさんはそれを望んでいるのかもしれない。
でも、と私はレドの寝顔を見る。
躊躇いは、何を意味するのだろうか。
「……でも、私はレドと約束しましたから。面倒を見ると。途中で放棄することはできません」
それに、いくらかつての友人だからといって、ジュードさんにレドのことを頼むのは図々しい気がした。
「そんなこと、気にしないで下さい」
スッとジュードさんが、私の顔に手を伸ばした。細くて長い指が、顔の輪郭をそっとたどる。糸のように細い目が、ゆっくりと見開かれる。アイスブルーと思っていた瞳は、今は血のような赤い色をしていた。
唇に弧を描きながら、端正な顔が私の方へと近づいてくる。魅入られたように目が離せない。動きたいのに、動けない。
「あなたのような極上の魂が手に入るならば、私は……」
「おい」
低い声に、私はびくりとした。はっと我に返り、慌ててジュードさんから顔を逸らす。レドは乱暴に口元を拭うと、椅子にのけ反りながら言った。
「ジュード。おまえ、もう帰れ」
「おや、ひどい。せっかく良いところでしたのに」
レドはもう一度帰れと言った。金色の目が、ぎらりと燭台の炎で光った気がした。部屋の温度が下がり、何か言いようのない寒気が背筋を震わす。ジュードさんはレドの顔を見ると、やれやれと肩を竦めた。
「まったく。わかりましたよ。帰りますよ」
貸しですからね、とジュードさんは言うと、ここへ来た時と同じように背中に黒い翼を広げた。そして惚れ惚れするほど完璧なお辞儀をまた私に向けてした。
「ミシェル様。今日は楽しいお食事、誠にありがとうございました。たいへん楽しい時間を過ごさせてもらいました」
私はそんなことないですよ、と慌てて言った。さっきは少し怖かったけれど。
「私も、あなたと話せて楽しかったです」
「本当ですか?」
「はい。レドに大切なご友人がいるとわかって、嬉しかったです」
ジュードさんは私の言葉に軽く目を瞠り、レドの方へ目をやった。
「だそうですよ、レド。よかったですね」
うるせえ、とレドはぶっきらぼうに答えた。そんな彼に目を細め、ジュードさんはこっそりと私の耳元に囁く。
「大丈夫。彼はあなたの言うことはきちんと守りますよ」
では、とジュードさんは黄金の光と共にその姿を消してしまった。悪魔は突然消えることもできるらしい。まるで魔法みたいな出来事に、私はしばしポカンとする。
「おいミシェル」
だが不機嫌そうな声に、すぐに現実に引き戻された。恐る恐る振り返ると、レドの顔がすぐ目の前に。思わず逃げようとする私の頬をぐいーっと引っ張って、悪魔はがみがみとお説教を始めた。
「おまえなあ、あいつは悪魔だぞ! 魂狙われようとしてたんだぞ! もっと危機感持て!」
おっしゃる通りである。それにしても悪魔であるレドに言われるとは、なんとも不思議な状況である。
「おい、聞いてんのか!?」
「き、きいてましゅ」
「なんだその腑抜けた返事は!?」
だってレドが頬を引っ張ったままでいるからだ。
「む、そうか」
それでもしばらくむにむにとレドは私の頬をつねった。つねる、というより感触を楽しんでいたような気がする。私がそろそろ離してくれないかと視線で訴えかけると、レドは渋々ながらも、ようやく解放してくれた。
「なあ、ミシェル」
引っ張られた頬を慰めていると、レドが真剣な表情をして私の名を呼んだ。まだお説教は続くのだろうか。
「はい、なんでしょうか」
「……おまえ、俺にここを出て行って欲しいのか」
私は目を丸くしてレドの顔を見つめる。それに気づくと、どうなんだよと怒ったように彼の眉が吊り上がる。
「そんなこと、望んでいませんよ」
安心して下さい、と私は微笑んだ。
「気が済むまでここに居て下さい」
「ふん。どうだか」
そっぽを向いたレドは、どこか拗ねているようにも見えた。
「本当です。ジュードさんにも言いましたが、約束したでしょう? 私があなたの面倒を見ると」
そうだ。彼はその約束を守って、本当の召喚者を探さないでいてくれている。私がそれを疑ってどうするのだ。レドを信じよう。
「……じゃあ、俺が出ていくって言ったら、どうしたんだよ」
「その時は……」
「その時は?」
なぜか食い入るようにレドは私の答えを待つ。
「レドのお望み通りに。快く見送りします」
私がそう言うと、レドはがっくりと肩を落とした。
「あ、そ。期待した俺が馬鹿だったわ」
「レド?」
「俺、もう、寝るわ」
ふらふらと部屋を出ていく彼に、困惑したまま私はお休みなさいと挨拶をした。きっと色々あったから疲れたのだろう。私も後片付けをして今日は早く休もう。
「それにしても、レドが自分から出ていく、か」
いつもはあっさりと承諾するはずなのに、一瞬でも迷いが生じたのはどうしてだろう。