4、悪魔と食事
私が住んでいる屋敷には、住み込みの使用人はほとんどいない。いや、基本的に一人もいない。週に何日か掃除をしにやって来るけど、毎日ではない。私とあまり関わりたくないのか、用事が済むとそそくさと本館の方へ帰ってしまう。
そういう状況だったので、料理や掃除の身の回りのことはたいてい自分でできるようになってしまった。屋敷が広いので掃除は大変だが、掃除自体は嫌いではない。やってみると、案外楽しい。
「夕食を作るのはあまり好きではないんですけど、お菓子作りは楽しいって思うんです」
「違いがわからん」
レドが目の前の菓子をじっと見つめながら言った。
「どうぞ、遠慮せず召し上がって下さい」
今日の紅茶のお供は、ふんわりと焼きあがったケーキ。彼が好きだと教えてくれたりんごを使用してある。
「焼き立てだから美味しいはずですよ」
レドは未知の生物を見るようにしばらくりんごケーキを睨みつけていたが、やがて覚悟を決めたようにフォークをぶすりと突き刺し、がぶりとかぶりついた。険しい顔立ちのまま、もぐもぐと咀嚼する。
さて、お味の方はお気に召すだろうか。
「……うまい」
ぼそりとつぶやかれた感想に、ほっと胸をなで下ろす。嫌いな野菜をどうにかして子どもに食べてもらったような、そんな不思議な達成感を得て、私は微笑んだ。
「よかった。まだまだたくさんあるので、遠慮せずどんどん召し上がって下さい」
ガツガツと食べていたレドは、私の言葉を聞くと、ぴたりと動きを止めた。
「お前は食べねえのかよ」
「私ですか? 私はいいですよ」
気に入ったのなら、レドがすべて食べていい。遠慮する必要などこれっぽっちもない。私がそう言うと、レドはむっとしたように黙り込んだ。どうしたのだろうか。
「おまえも食えよ」
「余ったら食べます。だから、」
「いいから食え」
食べないと許さない! とばかりに不機嫌なレド。先ほどまで機嫌は悪くなさそうだったのに……私はレドの態度に困惑した。
レドは食わないのか、と私を睨みつけたまま動かない。そこまでおっしゃるなら、と私は渋々とりんごケーキを食べ始めた。その様子をじっと凝視するレドに、マナーレッスンで講師の指摘を待つ生徒のような気分になってくる。
「うまいか?」
自分が作ったものに感想を求められてしまった。
「……はい。美味しいです」
「そうか」
レドは私の一言に満足し、りんごケーキを食するのに専念する。会話はなく、ただ黙々とケーキを平らげる私たち。何か話した方がいいのだろうか。
「あの……」
「なんだ」
「えっと、また作りますね」
「おう」
その後、どこから情報を手に入れてくるのか、夕食であれが食べたいこれが食ってみたいと、悪魔はリクエストしてくるようになった。
***
レドは初対面の時からわりと遠慮がなかったが、あれでまだ遠慮している方だったのだ。彼を知るようになって、そう思った。
夕食のリクエストもそうだが、気になったことはぜひともやってみたい。欲しいものは、欲しい。彼は私に、己の欲望を遠慮なく打ち明け、ぜひとも叶えて欲しいと強請った。
私はできる限りレドの要望に応えてやった。そこまで無理なお願いではなかったし、断るのも可哀そうな気がした。いちおう、彼は私の命の恩人であるという設定で屋敷に置いているのだから。
なんてことを建前として並べてみるものの、結局一番の理由は、私がこの悪魔の喜ぶ顔を拝見したかったからだ。
極めて個人的な理由だと思う。
でも、嘘偽りのない本音だった。
「――おまえは、何でも俺の言うことを聞くな」
つまらん。という顔で悪魔は本日の夕食を召し上がっている。別に何でも、というわけではない。魂を欲しいと言われたら、さすがの私でも断る。
「何かお気に召しませんでしたか」
精いっぱい努力しているつもりだが、悪魔を満足させるのは、なかなか難しい。
「別にそういうわけじゃない。おまえのメシは、その……悪くはない」
「それはよかったです」
「その微笑みヤメロ! ああっ、だからそうじゃなくてだな! こう、何か見返りに、願いを叶えて欲しいとか思わないのか?」
「願い、ですか」
前にも聞かれたことを、レドは再び私に聞いた。
「うーん……そうですねぇ……」
強いて言えば、彼を召喚した人間を探さないで欲しい。私はそう言いたかったが、逆に興味を持ってしまいそうな気がしたので、結局何もありませんと答えた。
「本当、つまんねえやつ」
今日のメインディッシュである肉をぶすりとフォークで突き刺し、レドは口の中へ放り込んだ。実に豪快な食べっぷりである。できればもう少しお上品に食べて欲しいところだが、やはりテーブルマナーは悪魔には難しいのだろうか。
私の心中をよそに、レドはグラスに入った酒で肉を流し込んでいく。プハッと袖で口を拭うと、再び私に視線を戻した。
「何か欲しいものとか、ねえのか?」
「欲しいもの……」
これもまた、以前聞かれたことだった。しばらく考えるが、やはり答えは同じだった。
「特に、ありませんね」
レドは頬杖を突いて、じっと私を見つめた。行儀が悪いですよ、と注意しても彼は聞かない。
「おまえみたいな人間が強烈な欲望を持ったら、さぞ見物なんだろうな……」
「はい?」
何でもねえ、とレドはため息をついた。
「私は今のままで十分満足していますよ」
「はっ、それは良いことで」
「だから特に叶えて欲しいお願いはありません」
はいはい、とレドはおざなりな返事をする。私は目を細めながら、本当ですよと答えた。
「賑やかな食事も悪くないと、初めて知りました」
本館にいた頃は、いつも重苦しい空気を感じていた。勇気を出して話しかけても、黙って食べなさいとぴしゃりとはねつけられた。レドのマナーは上品さに欠けるものの、本来の食事の楽しさとはこういうものなのかもと私に思わせた。
「それは俺に対する嫌味か」
けれどやっぱり上手く伝わらないようだ。
「あなたと食べるのが、楽しいということです」
「はっ、どうだかな」
そう言いながらも、レドの顔はうっすらと赤く染まっていた。酔いが回ったのだろうか。