3、悪魔を知る
悪魔とコミュニケーションをとるにはどうすればいいのか。悩んだ私は地下室にある怪しげな本を読みあさった。人間と違うからこそ、すれ違いや嫌な思いをさせてしまうのだ。ならばまずは悪魔のことについて調べよう。
私がそう思って本を読み耽っていると、誰かが地下室へと下りてきた。
「何をしている?」
読んでいた本はひょいとレドに奪われ、パラパラとめくられていく。本から顔を上げた彼は、眉間にしわを寄せていた。これは私にもわかる。怒っている表情だ。
「こんなものを読んでどうするつもりだ? 俺を服従させるつもりか?」
その言葉にぎょっとする。これでは仲良くなるどころか、ますます誤解を招いているではないか。違いますと慌てて否定するも、こちらを見る目は疑いに満ちたままだ。
「じゃあなんでこんな本を読んでたんだ? 弱点でも探すつもりだったんだろう」
ああ、そう捉えられてしまうのか。
私は己の考えなしの行動に反省した。
「誤解させてすみません。あなたのことを少しでも知ろうと、悪魔について書かれている本を読んでいたんです」
「俺のこと?」
「はい」
「……だったら俺に訊けばいいだろ」
顔を上げると、レドの顔は怒ってはいなかったが、何とも言えない微妙な表情をしていた。
「教えてくれるんですか?」
「嘘っぱちを信じ込まれたら迷惑だからな」
私は唇に弧を描き、ありがとうございますとお礼を言った。
***
「で。何が知りたいんだ?」
レドはどっしりと居間のソファに腰を下ろすと、尊大な態度で私にたずねてくる。
何を聞こうか、と私は少し考える。
やはりここは無難な質問をするべきか。
「あなたの好きなものはなんですか?」
「好きなものぉ?」
食べものとか、と補足すると、レドはしばらく考えた末、ぼそりと答えた。
「……りんご」
りんご。
欲深い人間や罪人という悪魔らしい答えを予想していただけに、私は彼の答えを意外に思う。それが顔に出ていたのか、ぎらりとレドの目が光った。
「なんか文句あんのかよ」
「あ、いいえ。えっと、では次に嫌いなものを教えて下さい」
レドは軽くため息をつきながらも、私の質問に答えてくれる。
「にんにく、玉ねぎ、豚、教会の鐘の音、神父サマが唱えるありがたいお言葉に、かび臭い場所だろ、それから……おい、なんだその顔は」
「す、すみません」
私は自分がどういった顔をしていたかわからず、思わず顔を触る。
「すげえ目真ん丸にして驚きすぎだ」
なるほど。驚いていたのか。
「好きなものはりんごしかおっしゃらないのに、嫌いなものは次から次へとおっしゃるので、少し驚いてしまいました」
「冷静に自分を分析するなよ」
ていうかそれのどこが悪いんだよ、と彼はぶすっとしている。まあ、そう怒らずに、と私は話を元に戻す。
「悪魔はやはり、教会や聖職者が苦手なのですか?」
レドは腕を組み、そっぽを向いた。
「別にそういうわけじゃねえ。ただあいつら、普段はどんなやつにも慈悲深くしろって偉そうに言うくせに、俺たちが悪魔だとわかると、見境なしに聖水ぶっかけたり、十字架なんかを問答無用で突き付けてくるじゃねえか。俺はそういうところが嫌いなだけだ。あと、鐘の音が嫌いなのはただ単にうるさいだけだ」
なるほど。悪魔にも悪魔なりの言い分があるらしい。
「でも、教会側からすれば、悪魔は人間を誑かす良くない存在なのでしょう」
善ある人間を悪の道へ唆そうとするから、教会は悪魔を嫌うのだ。私がそう言えば、レドははっと鼻で笑い飛ばした。
「俺たち悪魔からすれば、お堅い人間に生きる楽しみを与えてやろうとしているだけの話だ」
「そういう生き方を目標とする人も?」
「ふん。天使が悪に堕ちようとしている人間を更生してまっとうなやつに戻すのが仕事だっていうんなら、悪魔だって同じだ。娯楽をしらない、ガチガチの頭でっかちのやつを柔軟にしてやってんだよ」
おまえみたいなやつをな、という言葉は聞かなかったことにする。
「なんだか屁理屈に聞こえますね」
「事実だろ。真面目すぎる人間ばっかりだと、世の中回んねえぜ」
彼ら悪魔の考えは、教会の人間からすればとうてい受け入れることはできないだろう。私は興味深い気持ちで目の前の悪魔を見つめた。
「あなたも、人間を誑かしたことがあるんですか?」
レドはニヤリと笑った。
「そりゃあ、もちろん。なにせ悪魔だからな」
「誑かして、魂を奪うのですか?」
もちろんだ、と悪魔は頷く。
昔、母に教えてもらった通りだ。
悪魔はどんな願いだって叶えてくれる。
その代わり、対価としてその人間の魂を頂く。
「……人間は、あなたにどんな願いを叶えて欲しいと言いましたか」
そりゃ色々さ、と謳うように悪魔は言った。
「一生遊んで暮らせる金が欲しい。出世して人を見下したい。絶世の美女と寝てみたい。気に食わないやつをこの世から消したい。ってまあ、人間の欲望が尽きることはない。つまり、俺たち悪魔の存在が、この世から消え去ることはないっていう証拠でもあるな」
魂を引き換えにしてまで叶えたい願い。
十数年しか生きていない私にとって、彼の話に出てくる人間たちの願いはあまり胸に響かない。あるいはそれは、今の私の生活が満たされている証拠なのかもしれない。
レドは先ほどの不機嫌さはどこにいったのか、今やニヤニヤした表情で私を見ている。
「おまえには何か叶えたい願いはないのか。今なら特別に、この俺サマが叶えてやってもいいぜ?」
「あなたを召喚したのは、私ではありませんから」
悪魔は召喚した人間の願いを叶えるのだ。私は召喚者ではない。契約違反だ。
「細かいことは気にするな。魂が手に入るなら、そんなこと些細な問題だ」
それでも私は首を横に振った。悪魔に叶えて欲しい願いなど、今の私にはない。そう答えた私を、レドは呆れたように見ている。
「なんでそんなに固く考えるかねえ……もっと気楽に考えろよ。お前ぐらいの娘なら、ふつう両手で足りないくらいわんさか願いがあるもんだぞ?」
だいたい、とレドはなおも私に言う。
「おまえ、前に魔導書を解読したのは自分だって言ったよな? てことは、おまえにも叶えたい願いってもんがあったんじゃねえの?」
「あれは……ただ暇つぶしに読んでいただけです」
「ふうん。暇つぶしねえ」
私の実の母は、もうこの世にいない。亡くなった母が私に残してくれたのが、あの魔導書だった。母は魔術に精通している一族の娘であり、その知識は親から子へと伝えられる。幼い頃、私も母から魔導書の読み方や魔法円の書き方を教わった。
だが、それがあまり周囲から歓迎されていないことだとわかると、私は学ぶことがいつしか億劫になってしまい、ある日もう学びたくないと母に言ってしまった。
――ミシェルの人生だものね。あなたの好きなように生きなさい。
母は寂しそうな表情を浮かべながらも、娘の選択を受け入れてくれた。そのことを、今は少しだけ後悔している。せめて母が生きている間は、学び続ければよかったと。
病気で母が亡くなってから、私は孤独を感じるようになった。母の温もりが恋しかった。気づいたら衣装ダンスの奥深くにしまい込んでいた本を引っ張り出して紐解いていた。
悪魔の特徴が載った不気味な絵、長ったらしい呪文、複雑な魔法円。
ページをめくるたび、母の声が、優しい表情が、目に浮かぶ気がした。母に教えられたことを思い出しながら本を読み進めていくことが、唯一母との繋がりを感じられる行為に思えたのだ。
だから決して悪魔を召喚するために魔導書を解読したのではない。
「それに、私は亡き母を偲んであの本を時折読んでいましたが、母たち一族の本当の目的は、天使を呼ぶことでした」
「ほほう。それはまたたいそうなことで」
馬鹿にしたような態度に、私は本当ですよと言った。
召喚するのはなにも悪魔だけとは限らない。
天使だって召喚することが可能なのだ。
「人間が今日まで生き延びることができたのは、神や天使しか知らない知識を、私たち人間に授けて下さったから。魔導書は、普通ならば人間には届かない尊い存在と触れ合うための方法が書かれた本。母たちは、そう考えていました」
まだ知らぬ知識欲を満たす。知りたいという欲望を叶える点では、たしかに悪魔を召喚することと変わらないかもしれない。
けれどそれは、歩み続ける人間の未来のため。一個人の欲望を満たす人間なんかと一緒にされては、母たちも堪らないだろう。
「それに天使は私たち人間を守ってくれる存在でもあります」
守護天使、というもので神の加護がついた証として、その人間をどんな禍からも守ってくれるそうだ。たぶん母は一族の知識を伝えることよりも、老い先短い自分の代わりに娘である私を守ってくれる存在を召喚したかったのだと思う。だから私に魔導書を教えようとした。
結局私は母の意図を汲めず、悪魔の世話をする羽目になったのだけれど。
「で、おまえの一族は天使サマを呼びだすことに成功したのか?」
ニヤニヤしながら聞く悪魔に、私は肩を落とす。
「いいえ。やはり、そうとう徳の高い人物ではないといけないそうで」
「はっ。ただの偉そうな連中なだけだ。その点、悪魔は召喚にスパッと応じてくれる。優しいやつじゃないか」
「その代わり、悪魔は対価を要求する」
「当たり前だろ。いい思いするんだから」
そこでふと疑問に思う。
どうして悪魔は魂を欲しがるのだろうか。手に入れてどうするのだろうか。
「あなた方は魂を奪い、それをどうするのですか」
「お偉いさんに献上すンだよ。ま、たいてい向こうで媚びてるやつばっかだけどな。そんなもったいないことするやつ」
「あなたは違うのですか?」
「ああ。俺なら自分で食っちまうね」
「食べる……魂を?」
そうさ、と悪魔は歯を見せて笑いかける。
「極上な魂を体内に取り込めばそれだけ強くなれる。天使のヤロウどもとまた互角に殺りあえる。いいこと尽くしだからな」
「つまり私たち人間の魂は、悪魔にとって一種の栄養源、といったところでしょうか」
「そういうことだ」
おまえもどうだ? どレドはしつこく誘惑する。
「その代わり何でも好きな願いを叶えてやるぞ」
「遠慮しておきます」
今の話を聞いて、叶えてもらおうと思うのだろうか。
「けっ。面白くねえやつ!」
「はい。きっとそうなんでしょうね」
レドはあっそ、と興味を失ったようにごろりと寝っ転がった。
「本当、つまんねえやつ」
私は何と答えていいかわからず、すみませんと謝った。
「まっ、いいさ。おまえみたいなやつを堕落に導くのが、俺様の仕事だからな」
そう言ったレドの表情は、暇つぶしにはちょうどいいと楽しそうな顔をしていた。