1、悪魔との出会い
部屋に隠してあった本が一冊無くなっていた。朝方近く逃げるように屋敷を出て行った人物を思い出し、私は地下室へ行くことにした。
地下室には、普段滅多に入ることはない。暗くてかび臭い上に、怪しげな本や異臭を放つ薬がたくさん置いてあって、とにかく不気味なのだ。
それでも階段を下りていくたびに獣のような唸り声が聞こえてきて、無視するわけにはいかなかった。一段一段降りていくたびに、腐った肉のような臭いが強まり、吸い込まれそうな暗闇はまるで地獄へ近づいてゆく感覚に陥る。
私はいつもと違う雰囲気をたしかに感じながら、手にした燭台を暗闇に向ける。蝋燭のわずかな光に照らされて、五芒星や六芒星、その他複雑な模様をした図形や文字が浮かび上がってきた。幼い頃、本でひどく印象に残った紋様。図形や文字を囲むようにして描かれている、禍々しい赤い円。
その真ん中に、目の覚めるような美しい男がいた。
ただ今にも人を射殺さんばかりに目をぎらつかせ、凶悪犯のような顔をしていたので、せっかくの美貌が台無しになっている。
男は私を見ると、しばし目を見開いた。だがすぐにここから出せと大声で喚きだした。見えない壁に閉じ込められているように手足をばたつかせ、今でも飛びかかってくる勢いだ。
普通の人間ならば、今すぐにでも逃げ出したのかもしれない。
けれど私の足は、導かれるように男の方へと歩いて行った。男の突き刺すような視線を感じながら、じっと赤い円を見下ろす。何もしようとしない私に、男の喚きがますます強くなる。
「……少し、待って下さい」
私は完璧に描かれていた魔法陣にさらに近づくと、腰を下ろし、そっと赤い線を指で拭う。べっとりとした赤いものはおそらく動物の血であり、よく見るとそばにその死体が転がっていた。とっさに気分が悪くなり、自身の指に絡みついた液体を洗い落としてしまいたくなったが、どうしようもないので我慢する。
「……これでもう、大丈夫なはずです」
立ち上がり、距離を置く。男の身柄を拘束していた円はただの線となり、彼は自由の身となった。一歩、男が私に近づく。私がこれまで会った男性の中でも群を抜いて背が高く、古代服のような布を纏った身体には鍛え抜かれた筋肉がついている。私のような小娘など、容易く殺すことができるだろうと思った。
「おまえが俺を召喚したのか?」
低く、それでいて耳に残る声。
男はじっと私を見つめた。私もまた、目の前の男を見つめ返した。
金色の瞳。鼻は高く、すっと筋が通っている。濡れたような黒い髪はサラサラと流れるようで、男の持つ妖しい雰囲気を引き立てていた。凛々しい眉も、先ほどちらりと見えた鋭い犬歯も、どこか野生動物、そう、狼を私に連想させた。
容姿だけでも十分異質な存在なのに、男の背中には、人間にはない黒い翼が生えていた。加えて頭には角のようなものまで生えている。幼い頃、読んだ本にでてきた特徴と一致する容姿。
――今、私の目の前にいるのは、悪魔だ。
何でも願いを叶えてくれる代わりに人間の魂を代価とする。人間を常に誘惑し、悪の道へと誘いこもうとする恐ろしく、醜い生き物。私の目の前にいる悪魔はなぜか整った容姿をしているが、それもまた仮の姿なのだろうか。あるいはそれも込めて、私を陥れようと企んでいるのか。
彫の深い顔立ちは人ならざる美しさがあり、それゆえ怒りを露わにした表情は、震えあがるほど恐ろしく見えることだろう。本来なら悲鳴をあげて、逃げ出すべきなのかもしれない。
だが私は、ただただ、美しいと思った。
容姿の整った人間を美しいと思うのとはまた違う。まるで魂を揺さぶられるような、激しい感情。
「おい。なんとか言ったらどうなんだ」
この男のことが知りたい。声がもっと聴きたい。
そんなふうに思ったのは、生まれて初めてのことだった。自分の胸に湧いた感情に動揺し、男から視線を逸らした。男はもう一度、おいと言った。
「いいえ、違います」
心を落ち着かせ、努めて冷静な口調で私は答えた。
「……ですが、私が召喚したようなものかもしれません」
男はどういうことだ、と眉根を寄せていた。
私は燭台で床を照らし、無造作に放り出されていた本の一冊を拾い上げる。見るからに年季の入ったくたびれた表紙には、普通の人間ならばまず見たことのない文字が綴られていた。
──魔導書。天使や悪魔をこの人間界に召喚する方法が記述されている。
「この本に書かれていることを解読したのが私です。そして恐らくこれを元に、誰かがあなたを召喚したんだと思います」
男は忌々しそうに私が手にしている魔導書を見た。
「そいつはどこにいる?」
「……わかりません」
「じゃあ見つけだしてぶっ殺してやる」
私は男をじっと見上げた。視線に気づくと、男はなんだと鋭く目を細めた。
「あなたがお怒りになる心情は、よくわかります。でも、できれば殺すことはやめて下さい」
「そいつは無理な相談だな」
男は即答した。
当たり前とはいえ、やはり困った。どう説得しようか。
私がじっと考えていると、男の視線を感じた。上から下まで、全身舐めるように見ている視線は、正直心地よいものではない。
「おい、女」
「……何でしょうか」
男はニヤリと笑った。なぜか非常に嫌な予感がした。
「おまえが俺の望みを叶えてくれるなら、いいぜ」