みづほの引っ越し
*
「聞こえなかったか? 母さん、千尋、今からみんなで遠野ん家に行くぞ」
午後九時を回っているこの時間に? どう考えても迷惑だ。
しかし、親父のただならぬ声が、その疑問を掻き消した。みづほの家で何かがあったんだ。
大したことじゃなければいいが――取るものも取りあえず、インターホンを押した。
「おう、すまんな。こんな遅い時間に来てもらって」
玄関に出たのは、みづほの父親だった。
「いや、俺も詳しい話を聞きたい――みづほちゃんは何て言ってる?」
「中で話そう」
俺たち三人は、みづほの家の居間に通された。
みづほは居間のソファに座って、口を真一文字に結んで、俯いていた。
明らかに、泣きそうになるのを堪えている顔つき。俺を見つけると、わずかに顔を上げて、唇だけで何か告げようとしている。
「お茶なんかいいよ、早く話しよう――で、どうだって?」
親父がそそくさとソファに座る。
俺がみづほの隣に腰掛けると、すがる様にギュッと俺の腕にしがみ付いてきた。
「まずは事情を話そうな」
お袋をエスコートした後、みづほの父親が腰かけて、説明を始めた。
*
話の内容は、みづほの父親の転勤だった。
「――四月から、イギリスに行くことになった。多分三年は向こうだと思う」
外務省だから外国に行くのは仕方ないが、それにしても急な話だ。
「この年で、こんな形の転勤食らうとは、なあ……」
「遠野お前、また何か上に逆らったのかよ。外務省辞めちまえば?」
「いや、乞われての人事なんで、困ったことに栄転なんだ。まあ、行かざるを得ないな」
めでたい話なのに、父親の顔は苦虫を噛み潰したようだ。
「問題は、みづほだ……同じ英語圏なので、言葉は大丈夫だろう。ただな――」
父親が肩をすくめながら、言葉を継ぐ。
「イギリスに、野球はない」
「俺の本音は、みづほと一緒に暮らしたい。それは変わらない。しかし、みづほの現在と将来を思えば――」
「お父さん、ごめん。あたし、緑陵を離れる気は、ない」
俯いたまま、みづほが小さな声で、だがしっかりと応えた。
俺の腕にしがみ付いた手の力が、一層強くなった。
「……緑陵で――ここで野球を続けたいの」
「うん」
みづほの父親が仕方ないなという風に、優しく微笑みかける。
「それは互いの道を進むということで、結論はついた。俺はイギリスに行き、仕事を続ける。みづほは日本に残り、高校生活と野球を続ける。寂しいがそれがベストかな」
俺としては、少しホッとした。
みづほがイギリスに行ってしまう最悪の展開は避けられそうだ。
みづほがチームから抜けるのは言うまでもなく大打撃だし、みづほと離れ離れになるのは、もっとイヤだ。
「ただ問題は――」
父親の言葉が続く。
「みづほが、独りでここに住むって、言い張って聞かないんだ」
*
「みづほちゃん?」
親父が、みづほの顔を覗き込みながら話し掛ける。
「うん」
「ここに居たいの?」
「うん」
「ひとりで? 住むの?」
「うん」
親父が腕組みして、みづほの父親を見上げた。
「親としちゃあ心配だよなぁ。この家に一人娘を置いたままにするのは」
「そうなんだよ。アメリカん時はバタバタして秋山に甘えちゃったから、今回はこの家を管理会社に頼んで、みづほは学校近くの女子専用のマンションか下宿に住まわせよう、と思ったけど――この頑固さ、誰に似たんだろ」
「お前だろ」
「お前の両親がここに来て、みづほちゃんと一緒に住むのは?」
「ダメ。田舎に引っ込んで畑やってるから、うちに来いよの一点張り。雅美の両親はみづほとは繋がりがあるけど、御主人が体を壊してね――それどころじゃないんだ」
親父の顔が優しくなった。
「それなら、俺たちにまた甘えろよ。友達だろ?」
「う……ん。友達だからさ、なおさら気軽に頼みにくいんだよ」
「お前、そういうとこ、あるよな」
父親がふたり、俯いたままのみづほをそっと窺う。
*
「あら、みづほちゃんの面倒見るの、私もお父さんも、全然苦にならないわよ? 実の娘も同然だもん」
今まで話を黙って聴いてたお袋が、口を開いた。
「ただ、遠野くんの心配も分かるの。一軒家に一人娘を独りきりで置いとくのは、防犯上いろいろ問題だと私も思う――だからさ、みづほちゃん、秋山の家で一緒に住まない?」
「――えっ?」
みづほがようやく顔を上げて、お袋を見つめた。
俺にしがみ付いてた腕が、ゆっくりと離れる。
「海斗が家を出ちゃったから、一部屋空いてるし、そこにみづほちゃんが住めばいいと思うの。遠野の家の管理は、私アメリカの時で慣れてるから、問題ないわよ」
お袋の提案に口あんぐりの、父親ふたり。
「いや、それはいくら何でも甘え過ぎ――」
「いやいや、みづほちゃんさえよければ、名案だと思うぞ。俺たちに思いっ切り甘えろ、遠野」
慌てて遠慮するみづほの父親を、親父が制した。
「うーん――いやいや、うーん……」
これだけ狼狽する、みづほの父親を見るのも珍しい。
可愛い一人娘のことになると、やっぱり平常心じゃ居られないんだろう。
みづほはといえば、半ば放心したように、大人たちの顔を代わるがわる見回している。
「うん、分かった。後はみづほの気持ち次第だな」
急にすっきりした表情になり、父親は呟いた。
お袋がみづほの側に跪き、頭の上に手を置いて話し掛けた。
「みづほちゃん、どう? 高校の二年間だけ、私の娘になる気は、ない?」
*
みづほは、きょとんとして暫くお袋の顔を見つめていたが、やがて誰に語るともなく話し始めた。
「ん……お父さんね、今でも忙しいけど、お母さんが病気になるまでは完全な仕事人間だったの。だから、小さい頃の思い出は、お母さんのがほとんど。お母さんの思い出がたっぷり詰まったこの家に、あたしいつまで居られるか分かんないし、居られる間はここを離れちゃいけない、そんな気持ちでいたの――」
「でもそんなの建前に過ぎないって、最近は気づいてきた。だってあたし、野球ばかりしてて、家に居る時間ほんとは少ないし。お母さんの記憶もだんだん薄れてきて、今じゃ顔さえ朧げになってしまった。絶対に忘れたくない記憶の筈なのに、ね」
俺たちは黙って、みづほの話を聴いていた。
「お父さん、わがままな娘で、ごめんなさい。お父さんとの時間だって限られてるのは知ってるし、死んだ人より生きてる人との時間が大切なのも、分かってきた……でも、今のあたしには、緑陵での高校生活と野球が大事で――それと家族を比較するとか、そういうわけじゃなく――この生活を続けたい、という気持ちが強いの。あたしは緑陵で、野球を続ける。どうか許してください」
「いや、それについては結論はついた筈だよね」
深々とお辞儀するみづほの肩に、父親が手を置いた。
「本音を言います。あたし、できればこの家に居たい。でも独りは怖いし、寂しい。帰って来て、誰も出迎えてくれないし、待てども誰も帰って来ない。独りで寝て、独りで起きる毎日――それがずっと続くと考えると、気が遠くなりそうだった……秋山のお父さん、お母さん。あたしを高校卒業まで、住まわせてもらえますか? わがままでどうしようもない親不孝娘ですが――よろしくお願いします」
今度は親父とお袋に向かって、深々とお辞儀をするみづほ。
「おお! みづほちゃんみたいないい子、大歓迎だよ!」
「決まりね――これで解決でいいわね? 遠野くん」
お袋が、みづほの父親の背中をポン、と叩いた。
こうして、俺とみづほは、ひとつ屋根の下で二年間暮らすことになった。
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そんなこんなで、三月は公私ともに忙しくなった。
まず、野球部の練習が次第に本格味を帯びてくる。
中学を卒業した推薦組の入部予定者たちが、グラウンドを訪れ、一緒に練習もした。
特に船田と福富はさすがだったが――現時点では度会と有沢の方が、まだ上かな。
四月の春季大会に向けて、週末には練習試合も行った。
竹本は期待通り、ストレートとカーブ、チェンジアップだけで好投した。
打撃面では推薦組だった二人――松元と野口が、何かを掴んだ。
松元はテニスの効能か、肘の遣い方が巧くなり、ミート力に磨きがかかっている。
野口は駆け引きの初歩を学んだらしい。
相変わらず脆さと同居していたが、選球眼が格段に良くなった。
更に、俺にとっては憂鬱な憂鬱な、期末テスト。
各教科の先生方からの手助けをやんわり断り、笹田にとんでもなくハッパをかけられ、試験に臨んだが、めでたく全教科で赤点回避に成功。
「当然だろ、バカヤロ」
テストの結果を見た笹田から、荒っぽい祝福を受けた。
ちなみに、再び野球中心の生活に入ったみづほは、首席の地位を明け渡した。
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そして、野球部とも学校とも関係ないが、みづほの引っ越しも着々と進んでいた。
と言っても、遠野家から秋山家への、隣家へ生活必需品を移動するだけの、簡単なものである。
「忘れ物があったら取りに行けばいいだけだから、気楽よね」
兄貴の部屋は、簡素ではあるが、次第に女の子のそれらしく改造されていった。
「やっぱ富士見選手のポスターは、貼るのな」
女子の部屋としては異質な、でっかい野球選手のポスター。
仙台ウッドペッカーズの正二塁手。
稀代の守備職人、みづほが現在、いちばん尊敬してる選手だ。
「うん。今年は怪我で活躍できなかったけど、頑張ってほしいな」
貼ったばかりのポスターを満足げに見つめるみづほ。
それにしても、ずいぶん運んできたな。
家具はもちろん、私服や下着の大部分も、既にこっちにある模様だ。
「布団類まで持って来てさ……今、どこで寝てるの?」
「うん。お父さんと一緒に寝てる。寝室はお母さんが生きてた頃のダブルベッドのままだから、広いんだ」
残り少ない父娘の時間を、可能な限り一緒に過ごそうという、みづほの配慮らしい。
例の、何かに抱きついて眠るという独特の寝相が、父親に対して発動してないことを秘かに祈った。
「お風呂もね、一緒に入って背中を洗いっこしてるんだ――お父さんは無理しなくっていいよ、て言うんだけど……」
少し恥ずかしそうに頬を赤らめるみづほ。
「お父さんに、あたしを目に焼き付けて欲しいの……どんな大切であっても、記憶ってだんだん薄れていくものだから――」




