遠野家への訪問客
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帰路。
泥だらけのユニフォーム姿のまま、俺たちは親父のバンに乗り込む。
兄貴の少年野球の頃からずっとこうしていたので、バンの後部座席は、ちょっとすごいことになっている。
これでも、みづほが掃除してくれるようになり、俺も手伝う羽目になって、いくらかマシにはなった。
互いの肩が当たり、気づくと、みづほの真面目な顔がすぐそこにあった。話があるんだろうが、毎度の事ながらドキリとさせられる。
女の子の汗って、男と少し違う匂いがすると思い始めたのは、いつからだろう。
「ちーちゃん……高校はどこ行くの?」
「第一志望は兄貴と同じとこかな。やっぱ甲子園行きたいし」
明王大附属。西東京代表を充分に狙える強豪校で、今年の夏も準決勝まで行った。
兄貴は投手から外野手に転向し、二年生の今年はベンチ入り。新チームでは充分レギュラーを狙えるだろう。
「それより、みづほは?」
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そう。俺はみづほの進路が気にかかっていた。
高校野球では女子選手の公式戦参加が認められていない。みづほほどの実力があっても、女子という理由だけで、野球部では練習試合止まり。
女子野球部で野球を続けるか、いっそ野球とは別の道を選ぶか……
何しろみづほはアメリカ帰りで英語はペラペラ、全体の成績も学年トップクラスなので、受験だけで考えるなら俺と違って、高校は選り取り見取りの筈なんだ。
みづほと一緒に野球するのも最後なんだろう。
そういう覚悟で、今日は試合をしていた。
「うん。迷ってる、今……」
みづほが前を向き直して、俯いた。
「男子の野球部に入って、自分がどこまでやれるか試してみたい、という気持ちはあるんだけど、でも……」
天井を仰いで、大きく息を吐くみづほ。俺はかける言葉がなかった。
みづほならきっと、どこに行っても大丈夫だろう。
でもそれは、今言うと無責任な戯言になるような気がした。
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その日の夜、遠野家に客人が訪れた。
千秋クラブの片岡コーチ、そしてもう一人知らない男。30歳過ぎとは思うが、まだ若々しい青年だった。
「片岡さん……こんばんは?」
「お父さんが、もうすぐ帰ってくるはずなんだ。それまで少し待たせてもらえるかな?」
男は片岡コーチの後輩――ということは父の後輩でもある――で、大屋と名乗った。
「普段は髪を下ろしてるんだね。野球してる時はずっとおさげだから、初めて見たかも」
居間のソファに腰を下ろし、みづほの出した麦茶を一口飲んで、片岡がにこやかに話しかけた。
「あら、遠征の時もこの髪型ですよ?」
うなじに軽く掛かったショートの後ろ髪を触りながら、みづほは応える。Tシャツに短パンのシンプルな恰好だ。
「ははは、そうか。遠野さん、この時間はいつもひとりなの?」
「はい。秋山さんのとこで夕食をいただいて、その後はこの家にいます。父は帰りが遅くて、会えるのはよくて週に四、五日かな」
「官僚は大変なんだねえ……」
みづほもソファに腰かけた。
会話は弾まないかに見えたが、野球という共通の話題がある。コーチたちの思い出話や、みづほの野球選手としての資質など、話は尽きなかった。
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玄関の外に車のエンジン音が聞こえてきた。
「父が帰って来た、と思います」
みづほが席を立ち、玄関に向かう。果たして父であった。
「お父さん、お帰り」
自然な微笑みで父を迎える。
「ただいま。片岡、来てる?」
「うん。あと、大屋さんて方」
片岡と大屋は、居間に入って来た父に対し、立ち上がって深々とお辞儀した。
「本日はお忙しい中、どうもありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそお待たせしました」
やはり深々と頭を垂れる父につられて、みづほも戸惑いながらお辞儀する。気づくと、父と大屋が名刺を交換していた。
「大屋くんは、緑陵高校の野球部監督ですか」
「はい。来年度から正式に就任します」
緑陵……? 聞いたことないな。怪訝そうな顔のみづほに、大屋が話しかけた。
「今はまだ桜陽女子。来年から共学になって校名も変わるんだ」
「え、そうなんですか……」
父が上着を脱いでネクタイを緩め、打ち解けた様子でソファに腰かけた。
「堅苦しい挨拶は終わりにしよう。本題に移ってくれ……みづほ、おいで」
「えっ?」
会釈をして自室に去ろうとするみづほに、声をかける。
「実は片岡と大屋は、みづほの事で今日来たんだ。一緒に話を聴いてくれ」
「あっ……分かった」
みづほは父の隣に座った。
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「大屋から話すのが筋だろう。どうぞ」
「はいっ」
大屋が座り直し、改まった調子で話しはじめた。
「緑陵高校野球部監督、大屋明広です」
「それはさっき聞いたな」
「うん、聞いた聞いた」
「混ぜっ返さないで下さいよ緊張してんだから……コホン」
大屋はかるく咳払いして、すう、とかるく息を吸う。
「みづほさんに一目惚れしました。お嬢さんを、是非ください」
は……い??
一瞬、大屋を除く三人の目が、点になる。
その後、父と片岡が大爆笑した。
「片岡ぁ~。大丈夫か、こいつ?」
「お前、それはちょっとヒドイぞ」
「え……えっ?!」
きょとんとする大屋。
「お前の言葉そのままにとると、うちの娘を嫁にくれ、つってんのと同じだぞ」
「この馬鹿ッ。台無しにしやがってっ! いやこう見えても優秀なヤツなんです」
片岡が大笑いしながら、大屋の頭をはたく。
「うわっ、暴力反対っ……あ」
ここで大屋が、ようやく自分の失態に気づいたらしい。
「うわっ……違いますっ、違うっ……やり直させてください」
ともかく、場の雰囲気が一気に和やかになったことは、確かだった。
緑陵、千秋は、父母の母校の名前です。
このふたつの名前はすでに無く、名前を変更して続いていた両校も、本年とうとう統合となり消滅しました。
そのレクイエムの意味も兼ねて、父母が通っていた頃の両校の名前を使いました。
桜陽も桜蔭のもじりでないことは、わかる人にはわかるはずです。
舞台も両校のあった町にしたかったのですが、みづほの父親の職業を考え、東京郊外にしました。