夏への扉
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明くる日の朝。自転車に乗ったみづほが、いつものように迎えに来る。
「ちーちゃん、おはよ」
「よっ、歴史を変えた少女」
認定試験のニュースは、あちこちで報道された。
女子選手の参加。都内限定とはいえ、高校野球始まって以来の大改革である。
テレビでは『ひとりの少女の活躍が、高校野球の歴史を変えました』と、なんともセンセーショナルな前置きで、試験の様子やみづほらの談話が流されていた。
「えっ……あれ、あたしのことなの?」
これを素で言っちゃうのが、みづほのホントに怖ろしいとこだと思う。
謙虚とか天然とかではない。少し違う。
自らの実力を過大にも過小にも評価せず、野球選手として自分が出来る事を冷静かつ正確に把握しているのだ。
自分が選手として足りない部分、プレイヤーとしての限界点を知っているからこそ、慢心することなく努力を続けられる。見習うべきことだと心から思う。
みづほ自身の感覚としては、高校野球でレギュラークラスの実力があったとしても、それ自体は歴史を変えるような大それたものではない、という評価なのだろう。
「ちーちゃん、昼休みに付き合って。監督に昨日の試験、報告に行くの」
「ああ、いいよ」
今日から中間テスト期間に入るので、練習は休み。
放課後はまるまるフリーとなる……学校側の言い分としては勉強しろ、ということなのだが、H組の通称スポーツ組に属する俺としては、部活させてくれよーというのが本音だった。
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大屋監督からはねぎらいの言葉を貰い、水谷先生からはトレーニングメニューを渡された。
「他の子たちには昨日のうちに渡したけど、ふたりは居なかったから」
これは有り難い。これでテスト期間中、体が鈍らないで済む。
「ふたりとも基礎体力はついてるから、これからはパワーとスピードを重点的に上げていくメニューにしたわよ……それから」
水谷先生が俺だけに、プリントを更に何枚も渡していく。
「これは各教科の先生方から秋山くんに。これだけは勉強しておきなさい、って。赤点取ったら補習よ、分かってるわね」
「はっ、はいっ!」
うわー。先生方よく分かっている。
受験組じゃなかった俺は、高校の授業なぞチンプンカンプンなのを、把握されていたようだ。
これだけ心配されてるとこを見ると、もしかしたら推薦組のなかでも、俺は特に出来が悪いのかもしれん……
渡り廊下を歩きながら、みづほが各科目のプリントに目を通している。
「これくらいなら三日あればなんとかなるかも。ちーちゃん、晩ご飯食べたらあたしん家に来て。特訓よ」
「ういっす」
是非お願いします、みづほ先生。
*
「みづほちゃんにあんまり迷惑かけるんじゃないわよっ」
「わーってるよ母さん。んじゃ息子、勉強してきます」
夕食後、お袋からあからさまな非難の目を浴びながら隣家に向かう。
出迎えたみづほは、ブラウスにデニムのミニスカートと、比較的まともな恰好だったので少し残念、半分ホッとする。
ただ、湯上りのいい匂いはいつも通りで、熱気を取るためかブラウスのボタンは第二あたりまで開いていた。
「お邪魔します」
今夜はみづほの父親も居て、挨拶する。ここんとこなるべく早く帰宅するようしているらしい。
みづほの部屋に入るのは久しぶりだった。
シンプルながら、女の子の部屋らしい小綺麗な印象だが、異彩を放っているのが壁に貼ってある大きなポスター。
仙台ウッドペッカーズの正二塁手、富士見選手だ。
親父たちの後輩が在籍していた関係で、俺たちはふたりとも東京ドルフィンズのファンだが、それとは別に、みづほは富士見選手の、大が100個つくくらいのファンだった。
そう言えばプレースタイルも似ているような気がする……相手も味方もすごく研究して、頭を使って守備してるんだ、ってみづほが熱く語っていたのを覚えている。
「あ……あの熊、まだあるんだ」
ベッドに置いてある大きなクマのぬいぐるみ。
みづほが持っていたのは、母親を亡くした前後くらいからだろうか。当然、アメリカにも連れて行った。
「みづほ、まだクマさん抱っこしないと眠れない?」
「やあね、さすがに卒業したわよ」
多分、母親代わり。
みづほの話では、アメリカでは当初、友だちを作るのに苦労したらしい――野球してるアジアの女の子は相当奇異な目で見られたようだ――ので、友だち代わりにもなったのだろう。
大事にしているのには、おそらく理由がある。馬鹿にする気は毛頭ない。
熊の名前は教えてくれなかった。
訊いても、いつも話題を逸らされるので、俺は『クマ』とだけ呼ぶことにしている。
俺の勉強は、みづほの予告どおり三日で片がついた。
「教えたこと、繰り返し読んで覚えとくのよ。前日に最終確認するからね」
うへえ、厳しい。
でも自分の勉強を後回しにしてまで、俺の勉強をみてくれたみづほに、感謝した。
中間テスト。結果から先に言うと、俺は見事な綱渡りで赤点回避。みづほは学年3位だった。
「人に教えると自分も覚えるものよ」
事も無げにみづほは言ったが、みづほが俺に教えたとこなんて、勉強ではきっと初歩の初歩。みづほにとっては勉強時間が半減しただけの無駄足だったはずだ。
前後するが、テストの翌日が、みづほと野球部にとって大切な日だった。
認定試験の合否発表である。
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その日、俺たちはユニフォームに着替え、全員で部室に待機していた。
そろそろ16時、発表の時間。
合格は間違いないと思うんだが、張り詰めた空気が全体を包んでいた。
大屋監督が紙切れを手に、すごい勢いで駆けて来る。まだ30代なので動ける人なのだが……
「あれ、転ぶよな」
果たして、脚がもつれて派手にすっ転んだ。
「あーあ」
「監督、鍛え直す必要あるな」
かるい笑いが広がり、緊張の糸がほぐれていく。
「みづほちゃんっ! こっ、これだよっ!」
監督から書類を渡され、みづほが立ち上がってじっと見つめる。
部室はシンと静まっている。注目を浴びながら、みづほが書類を読み上げた。
「厳正な公式戦出場資格認定試験の結果、東京都主催の公式戦に限定して、以下の者に出場資格を与える。
私立堀内学園高等学校、上杉早矢香。
私立希望ヶ丘高等学校、早坂恵美。
都立広瀬高等学校、栫 愛菜。
……私立緑陵高等学校、遠野みづほ」
ワーッという歓声と拍手が、広くない部室に響き渡った。合格だっ!!
深々とお辞儀したみづほは、次の瞬間、みんなからハイタッチの祝福攻めに遭う。
「さあ、新しい緑陵の門出だ、練習行くぞー!」
「おーーっ!!」
監督の発破に、全員がガッツポーズを作りながら部室を飛び出して行った。
*
「みづほちゃーん」
「おめでとー」
部室を出た俺たちを出迎えたのは、みづほの友だちをはじめとした一年女子たちだった。
『みづほおめでとう! 目指せ甲子園!!』と書かれた大きな横断幕を、皆で持っている。
――作ってた形跡、なかったよな。学校はテスト期間だったしなあ……と思いながらも、頬が緩む光景だ。
「ありがと。ほんとにありがと」
みづほも笑顔で駈け寄り、きゃあきゃあと手を取り合ったり飛び跳ねたりしている。その奥にはテレビカメラやら記者やらが待ち構えていた。
抱えきれないほどの花束を持って、人垣を掻き分け戻ってくるみづほ。
正直うちの高校、演出し過ぎだろ。
「これがスタートなのに、ね」
報道陣から呼ばれたみづほは、苦笑しながら俺に花束を渡し、インタビューに臨む。
インタビュアーは、みづほをどうにかして泣かそうとしていたが、不合格になった佐藤さんたち四人の話を持ち出しても、唇をかるく噛んだだけだった。
「試合に出られない人だけじゃなく、そのチャンスさえ貰えなかった、東京以外の女子選手の人たちのことを考えると、あたしはほんと幸せだと思います……あたしなんかよりずっと巧い女子が、全国にはいるかもしれないのに」
そりゃきっと、ねえわ。
聞いていた俺たちは目配せして、肩をすくめた。
「あたしは……あたしは、道を作りたいんです……作らなくちゃいけないんです……実力ある女子選手が、何の障害もなく甲子園で野球できる……そんな道を」
唇を噛みしめながら、低い声だがしっかりした口調で、みづほは話した。
そうか。
今まで何かあると、すぐピーピー泣いてたみづほが、ついに泣かなかったのはそんな決意があったからだ。
全国高校野球選手権大会。夏の甲子園、西東京大会まで、あと一カ月半。
夏への扉は、俺たちの眼の前で音を立てて開いたばかりだった。
みづほの憧れである「仙台ウッドペッカーズの富士見選手」は、楽天の藤田選手がモデルです。
みづほが度々やってるマーベラスな守備は、藤田選手や西武の辻監督のセカンド守備を参考にしてます。
プロって、凄いですね。




