千秋《せんしゅう》シニア野球クラブ
*
親父のバンの後部座席に、俺はみづほと並んで座っている。
少し離れた位置なのだが、意外に人懐っこい性格のみづほが話しかけてくるたび、かるく肩が当たり、たぶん美人の部類に入るのだろう整った顔立ちが、すぐ傍に寄ってくる。
……泥や汗のにおいに混じって、女の子特有の甘い香りがしてくるのに気づいたのは、いつからだろう。
「ね。ちーちゃん」
またみづほが話しかけてくる……だから近いんだってば。
「力こぶ、作って。左腕」
「ん? これか?」
俺はアンダーシャツを腕まくりし、力こぶを作ってみせる。するとみづほは、俺と同様に右腕をまくって力こぶを作り、ぴとっと俺の腕にくっつけてきた。
「うー。やっぱり全然違うなあ……」
腕を密着させたまま、考え込むみづほ。
どうやら、ふたりの力こぶの大きさを比較している様子。
最近みづほが、男女の筋力差について悩んでいることは知っていた。
……それより、さっきからさ。車の振動に合わせて、腕じゃない柔らかい何かが、俺の体に当たってるんだけど。
けして小さくはない、俺にとっては未知の領域の、みづほの胸の膨らんだところ。
俺はしばらく体を固くして、その感触に身を任せていた……が、やがて恥ずかしさが勝って、腕を引っ込めてみづほの肩をかるく押して体を離した。
「みづほだって女にしては、相当立派な筋力だぞ」
「女にしては、でしょ。遠投ではちーちゃんに敵わないし、ベースランニングも互角になりそうだし……」
いやいや、中3でそれって、めちゃめちゃすごいことなんだって言ってやりたい。
男子に付いていけているどころか、チームの押しも押されぬ中心選手なんだから。
*
「みづほちゃん」
やり取りを黙って聞いていた親父が、大声で話し始めた。
「無理して筋肉をつける必要はないと思うよ。それよりおじさんが感心してるのは、みづほちゃんは遠投力をカバーするために、スローイングをすっごく工夫してるだろ。中学生レベルじゃ、ふつうできないことだよ」
親父の言うとおりだ。
みづほは捕球してから送球動作に入るまでが、抜群に早い。
しかも肩だけじゃなく、腕全体と手首のスナップまで利かせて投げるから、スローイングの安定性が半端ない。
「いつでもボールの同じところを握れるため」ボールを握ったまま勉強できるように、左手で字が書けるようになったことを、俺は知っている。
だいたい、中1の終わりにアメリカから帰ってきた時、一緒のシニアチームに入るんだってみづほが言った時、俺はタカを括っていた。
中学生になって体ができてくると、自然と筋力やスピードで男女差が出てくる。
どこまでやれるか、食らいついて来いよ、くらいの気分だった。
が。
予想は大いに裏切られた。
入団テストで、みづほの走攻守の能力を見た誰もが、目を丸くして驚いた。
「とんでもない逸材じゃないか……」
関根監督が呟いたのを思い出す。
堅実で広い守備範囲、流れるようなフィールディング。みづほがとてつもなく美しく見えた瞬間だった。
バッティングでは「慣れているから」という理由で、木製バットで右バッターボックスに立ち、どの球に対してもきれいにミートした。コーチが投げたカーブも苦にしなかった。
脚も当時は速い部類だった。さすがに一番とはいかなかったが、無駄のないベースランニングだった。
たちまちのうちにショートのレギュラーポジションを獲得したみづほだったが、誰も異を唱える者はいなかった。
みづほの守備の巧さは他の追随を許さず、チームどころか地区内でも指折りの存在だった。
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ショートのレギュラーを奪われたのは……他でもない、この俺だった。
俺もチームでは有望株の一人で、三年生が引退した後、レギュラーに抜擢されたばかりなのに。
監督やコーチからはセカンドへのコンバートを打診されたが、当分はみづほの控えとセカンド、半々で起用されることが多かった。
俺はみづほの守備を吸収しようと、目を皿のようにして観察した。
定位置から捕手のサインを覗いて、守備位置を移動するタイミング。
捕球時のフットワーク。
スローイングの投げ方も、必死に真似しようとした。
やがて俺の体力がつき、守備が認められるようになり、中2の秋からは俺がショート、みづほがセカンドでコンビを組むようになった。
3番セカンド、遠野みづほ。
4番ショート、俺、秋山千尋。
それが中3シーズンの、不動のラインアップだった。
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「さあ、着いたぞ」
千秋シニア野球クラブ。
これが俺たちのチーム。今日で卒業、お別れになる。
「ありがとうございました」
用具を取り出し、深々とお辞儀をしてグラウンドに走っていくみづほ。
親父が感慨深そうにつぶやく。
「みづほちゃん、だんだん雅美さんに似てきたなあ……」
死んだみづほの母親の名前を口にした。
準備が終わり、俺もグラウンドに向かおうとする。
「ありがとうございましたっ」
グラウンド上では、野球人。親子といえども礼儀正しく。そう教えられた三年間。
そんな俺に親父が肯き、にやにやしながら耳打ちする。
「お前、みづほちゃんにおっぱい押しつけられて、鼻の下伸びてたぞ」
「……とーちゃんっ!!」
親父に向かって、思わず拳固を振り上げる。
「はははっ、すまんすまん」
おどけて頭を押さえながら、逃げる親父。
が、すぐに居住まいを正し、真顔になる。
「ゆうべ話したことは、覚えていますか?」
丁寧な口調は、関根監督の影響だ。
「はい」
みんなのお手本になるプレーをすること、試合が終わったら率先してグラウンドと用具の整備をすること、です。
「よし」
親父の目が細くなる。
「今日は父ちゃん仕事休みだから、最後まで付き合ってやる。全部終わるまで帰ってやんねえからな」
「うっす」