(After/Another)3. 六月 緑陵野球部OG会
*
「待った?」
「ううん」
静かなカフェの一角で、ブルーベリージュースをちゅるちゅる啜っていた紫苑は、みづほの元気そうな声に顔を上げ、にっこり笑った。
「髪、切ったんだぁ。似合うよ」
紫苑は肩の辺りまであった髪をセミロングにして、軽いパーマを当ててあった。
当人はもちろんお洒落のつもりだが、少し大人っぽく背伸びをした感じで、むしろ小動物感が増した印象さえある。
「いやー、ちょっと失敗したよ。梅雨時にパーマなんか掛けちゃダメだね、朝起きたら髪、爆発してボワボワ」
そう言うと、もの凄く可笑しな事があったように、ふたりで大袈裟に笑い合う。
「みづほは、変わんないね」
ホットのカフェオレを注文したみづほは、スポーティな飾り気のない恰好で、相変わらず有名人的なオーラがない。
雑踏に紛れ込むと、普通の女子学生とほとんど見分けがつかなくなる。
「それ、褒め言葉だよぉ。毎日の運動量がハンパないから、油断してるとすぐ筋肉落ちちゃう」
言われてみれば少しほっそりしたかな、と紫苑は思った。
「プロ野球の世界って、そんな大変なの?」
「んー……あのね、レベルの高いとこで野球やれる、て意味では面白いんだけど――」
掌で頬を擦りながら、言葉を選ぶように考え込む、みづほ。
「女なんかに負けてられるか、って何度も言われたよね――相手チームだけじゃなく、味方にまで。緑陵や目野のみんながどれだけ紳士だったか、思い知らされたわ」
「ふうん」
「サッくんがいつも護ってくれるんだ、あたしの事。『こいつを女とか、そういう目で見てると絶対後悔しますよ』て。ほんと感謝しかないね」
「サッくん、て?」
「あ、櫻田くんだよ、同期のチームメイト」
「――――へえ……」
みづほって確か、あっきぃ以外の男子は何々くんとしか、呼んでなかった筈。
思わぬみづほの変化を、紫苑は発見した。
*
店員に会釈し、届いたカフェオレのカップを掲げて、紫苑に向けるみづほ。
「紫苑、改めて東大合格、おめでとう」
「ありがと」
みづほのお祝いに、紫苑がにっこり微笑む。
「東大、どう? 宇宙人みたいの、たくさんいる?」
「私が今まで逢った中で、いちばんの宇宙人はみづほだよ」
あまりの無自覚さに、紫苑は思わず苦笑する。
「まあ――頭の回転は、おっそろしく速いよね。それから勉強で手を抜く人、ほとんど居ない。意外にガキが多いのは、ちょっとびっくりしたけど」
「ふうん」
紫苑が髪を掻き上げ、ちゅるるとブルーベリージュースの残りを一口だけ啜る。
「――で? 何か話したいことがあるんでしょ?」
「さっすが紫苑、察しがいいわね」
キコたちも加わっての緑陵野球部OG会は、そもそも『うさぎや』で行う事になっている。
ところが先日、紫苑の元にみづほから、ふたりきりで逢いたいと連絡があった。
そしてOG会に先立って、『うさぎや』とはかなり離れたこのカフェで、紫苑はみづほを待っていたのだった。
「まさか、私の合格を祝うためだけに、わざわざこんな事したわけじゃないよね?」
紫苑を陥れるような、変な話だとは思っていない。
みづほは、そういう企みからいちばん遠い性格をしている。
「その、まさかだとしたら?」
「はぐらかさないでよ」
紫苑は再び髪を掻き上げ、ストローをもう一口吸った。
*
「――何よ、それ。意味が全然、分からないんだけど」
「意味も何も、言った通りそのままの意味よ」
「だから、その意味が分からない、て言ってんの。『あたしにもしもの事があったら紫苑、後はお願い』て、まるで遺言じゃないのっ」
「そ、だから遺言。もしも、あたしが死んだら」
「――え……」
「こんな事、紫苑にしか、言えないよ」
「何なのよ、いったい……」
紫苑は思わず、みづほを凝視した――健康そのものの18歳の少女の姿が、そこにある。
どこをどう見ても、死とは無縁の存在にしか思えない。
「みづほ――身体、どっか悪いの?」
「ううん、まだ大丈夫」
「まだ、って――これから悪くなるような言い方、しないでよ……」
「あのね」
みづほがカフェオレのカップを、手首だけで器用にクルクルッと回す。
薄茶色の液体が、きれいな渦を描く。
「あたしの家系の女って、みんな短命なんだ……」
カップの渦を見ながら、みづほの話が始まった。
*
「ちょ、ちょっと待ってよ」
慌てた様子で、紫苑が口を挟んだ。
母親が36歳で、その母親、みづほの祖母が20代前半で病死したと、みづほが話していたところだった。
「みづほのお祖母ちゃん、ふたりとも生きてるって言ってなかったっけ? 再婚てヤツ?」
「さすが紫苑、すごい記憶力ね」
「記憶も何も――時々お祖母ちゃんちに行ってたじゃない、月イチくらいのペースで」
「まさに、そっちの――母方のお祖母ちゃんなんだけどね。お母さん、養女だったの。だから血は繋がってないの」
「ああ、道理で……」
「で、実のお祖母ちゃんは、お父さんが調べてくれて分かったんだけど、緑陵の理事長の愛人だった人」
「ふえっ?!」
ジュースの最後の一口を吸い込もうとしていた紫苑が、盛大に咳き込んだ。
「けほっ、けほっ」
「大丈夫? 紫苑、そんなに驚かなくても……」
「驚くに決まってんでしょっ! むしろ理事長の実の孫だって分かってて、平然としてるみづほの方が怖いわっ」
みづほに背中をトントンされて、ようやく紫苑は落ち着いた。
「まあ、そうね……今さら認知されても、と言うか、今のみづほなら向こうから認知させて下さい、って言ってくるかも知れないわね」
「それって意味分かんないよぉ。でもあたしの家族は、もう居るから、もういいの」
みづほはいつも通りの、穏やかな笑顔のままだった。
*
「話を戻すと、さ」
みづほがクイッ、とコーヒーカップを傾ける。
「みづほ、茶色いヒゲ付いてる」
「えっ、うそうそっ」
慌ててナプキンで口元を拭くみづほ。
あーあ、あんなにゴシゴシ擦って、きっとスッピンなのね――と思ったら、少し化粧してた。
「みづほのお馬鹿ッ、今度はリップはみ出してるじゃないっ。ちょっとナプキン貸しなさいっ」
身を乗り出し、紫苑に鼻の下を拭いてもらいながら話を続けるみづほ。
絵的には、かなり締まらない構図だ。
「とにかくさ、他人には分からないかもだけど、あたしにとっては切実な問題なわけよ」
「でもふたりとも白血病だったんでしょ? 遺伝する病気じゃない筈だけど――はい、これでよし、と」
「ありがと、紫苑――当座のあたしの目標は、お母さんの死んだ36歳を越えて生きることなんだ。それまでは、あたしの出来る事、やりたい事は全部やる。いつ何があっても後悔しないように。目標の年齢を越えたら、改めて人生について考えるわ」
ああ、そうか。紫苑は気付いた。
みづほがいつも全力で生きてきたように見えてたのは、けして気のせいなんかじゃなかったんだ。
それはある意味『死の覚悟』に依るもの、だったんだ。
それを笑ったり、馬鹿にしちゃいけないな、と紫苑は察した。
「でも――さ。どうしてそんな話、改まって私にするの?」
「その理由、言う必要あると思う?」
みづほが紫苑の瞳を、真っ直ぐに見つめてくる。
その目が徐々に、切なげな微笑みに変わっていく。
ああ――みづほは知ってたんだ。
私もあっきぃを、好きだったって事に。
みづほとの友情のために、黙って身を引いていた、て事も。
「ほんとに――ほんとに、ありがとう。紫苑」
「――よしてよ、そんなの……」
紫苑はそっと目を伏せて、みづほから視線を逸らした。
*
みづほと紫苑が連れ立って『うさぎや』に到着すると、キコはもう来ていた。
元気そうに大きく手を振って、マスターの真奈美ともども、笑顔で迎えてくれる。
「やっほーい、みづおん」
「キコは相変わらずみたいね」
「えっと……どーしてふたりまとめて呼んじゃうのかなっ」
三人にとっては懐かしい、いつものパフェセットを注文する。
「みづほはさっきから、あったかい飲み物だね」
「プロは身体が資本だからね。なるべく冷やさないようにしてるの」
「むふ? さっすがぁ」
そして記念すべき、第一回緑陵野球部OG女子会が、パフェの乾杯で切って落とされる。
「かんぱーい、カチーン」
「いやいやキコ、無理やり乾杯するとパフェこぼれるからっ」
「真似だけにしよっ、真似だけ」
思い出話に花を咲かせるほど、まだ長く離れてはいないし、近況を語り合うほど、さしたる経験も積んでいない――いや、プロ野球選手という、得難い経験を積んでいる者がひとり居るが、どちらかと言うと他愛ない雑談が延々と続いていた。
話題が緑陵野球部の事に及ぶと、みづほの口数が多くなった。
「そう言えば雪菜、認定試験に受かったんだよ」
女子選手は試験に合格して初めて、公式戦の出場資格を得る。
「へー、おめでとうを是非、言いたいなあ――今日は野球部、練習だよね。何時までかな?」
「ん。今日はね、学校の行事があって、早上がりなんだって。ソッコーで戻って来る、て言ってたから五時過ぎには着くと思うおっ……ん? どーしたん?」
キコが気付くと、紫苑がかなり微妙な顔をしていた。
「キコ……どうしてキコが、野球部のスケジュール、知ってるの?」
「こころにOG会の事、教えたんだお? みづほに逢えるって大喜びしてた……いけなかった?」
その応えを聞いて、紫苑が掌でおでこをペチン、と叩く。
「あっちゃーっ、教えちゃったかあ」
「え……いいんじゃない? あたしもこころに、逢いたいよ」
「いや、そーいう問題じゃなくてね……まあ少ししたら、みづほも分かるよ……」
*
五時を少し過ぎた頃だった。
『うさぎや』の扉が乱暴に開かれ、こころと雪菜が先を争うように、みづほ目がけてダッシュしてきた。
「みづほさんっ! 逢いたかったっ!!」
「みづほさんっ! 私、試験受かったんですよっ!!」
ふたりとも満面の笑顔なのに、瞳が思い切り潤んでいる。
「知ってるよ。おめでとう、雪菜。頑張ったね」
「――はい……みづほさんの、おかげです……」
みづほの言葉に、泣き顔に変わった雪菜が、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「あーあ、せっかくの再会なのに、泣いちゃダメだよ――お久しぶりです、先輩方」
ゆっくりと歩いてきた立花が、気配りの挨拶をする。
「立花くん、久しぶりー。元気そうだね」
「ええ、なんとかやってます――で、みづほさんたちに逢いたかったのは、俺たちだけじゃないんですよ」
立花が親指で指差した扉の方から、主将の船田ら三年生が、総出で『うさぎや』に入ってきた。
「水臭いですよ、みづほさん。こっそり少人数で集まろうだなんて」
「船田くんっ! 福富くんっ!」
いきなりの大人数から、握手攻めに遭うみづほ。
「ほんと、サプライズって言うか……みんな来てくれたんだぁ」
「マジで、みんな来てますよ。一年から三年まで、マネージャーも含めて全員来てます」
「えっ……ははは……」
さらに後ろに控える大勢の部員たちを眺めつつ、笑顔が貼り付いたまま絶句するみづほであった。
総勢40名以上、緑陵野球部勢揃いの状態に、『うさぎや』は一気に満員御礼となってしまった。
「キコ……誰かに教えたらこうなるって、分かってたのよ……みづほは後輩全員から、慕われてたから」
後輩たちの人混みに埋もれるみづほを遠い目で見ながら、紫苑が呟く。
「うんうん、人徳だねー」
ちっとも悪びれてない表情で、キコが肯いた。




