夢の入口
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嬉しい。
ただただ、嬉しい。
みづほの前に立ちはだかっていた、公式戦出場という、越えられない高い壁。
閉ざされていたその大きな門が、押せばギイ、と音を立てて開こうとしている。
これで、みづほと一緒に甲子園を目指す夢も、にわかに現実味を帯びてきた――しかも、こんなに早い段階で。奇跡としか、言いようがない。
昨年のクラブ選抜大会でみづほが魅せた、数々の活躍による充分なアピールがあったとしても、だ。
緑陵高校野球部としても、これは紛れもない朗報。
みづほが居るのと居ないのとでは、チーム力に大きな違いがある。
女子選手参戦のニュースは、全国ネットで報道された。
ニュースには、みづほが嬉し泣きにむせぶ場面が、幾度も流れてくる。
……ちょっと悪趣味かな。
朝から取材が来ていたという事は、その日発表されるという情報はあったはずなんだ。ひょっとして理事長は知っていたかもしれない。
しかし俺たち野球部には、発表のその時まで、伏されていた。
みづほがそのニュースを聞いたら100%泣くだろう……実際にわんわん泣いたし。
それは間違いない。みづほにとっては、それほど将来に関わる大きな意味を持つ。
問題は、いつ泣かせるか。
大勢のカメラの前でみづほに話をして、みづほの涙をきっちり撮って「いい絵」として流そうとする、大人の見え透いた思惑が感じ取られた。
テレビ画面の中では、元プロ野球選手の桑野さんが喋っている。いち早くみづほの才能を見出してくれた、俺たちの恩人ともいえる人だ。
桑野さんは目を真っ赤に腫らし、目頭をハンカチで押さえ、声を詰まらせながら本当に嬉しそうに話していた。
心の底からみづほのことを思っていてくれたんだな……ジンと来るものがあった。
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それにしても、考えれば考えるほど、都高野連の大英断である。
案の定、高野連から「女子を試合に出すとはけしからん」と抗議の文言が来たらしいが、都は毅然と突っぱねた。
というのも、緑陵サイドの策略もあったろうが、あれだけメディアで大々的に報道された後だったので、どう考えても引っ込みがつかなくなっていた。
東京に続いて他県でも「女子にチャンスを」という声がないわけではなかったが、今年度は静観している様子だ。
初めての試みなのでうまくいくかどうか、という事と、認定試験の合格条件が思いのほか厳しかったからだ。
「この試験だけど……高野連は合格させる気、あるのかしらね?」
部室で水谷先生が、認定試験の要項を読みながら嘆息した。
「え……どういうことですか?」
みづほが心配そうに覗き込む。
認定試験の一次試験は身体能力測定。50m走と遠投。
プロ野球でも、テストの一次試験で行われる項目だが、そこに書かれてある『一次試験通過の目安』に書かれた数値が問題だった。
50m走、7秒3。遠投、70m。
「50m7秒3ってこれ、高校男子の平均値よ。うちの学校でこのタイムで走る女子って、陸上部を除けば学年で数人じゃないの?」
そうだったのか。常日頃、接している女性が水谷先生とみづほなので、そこんとこの感覚が麻痺していた。
「ちなみに普通の女子って、どのくらいのタイムですか」
「8秒台が普通ね。9秒台の子もざらにいるわよ。遠投の70mもキツイわねえ。私がそのくらいよ」
「そうなんですか」
遠投70mだと、野球部男子では平均以下だろう。
「男子が楽々こなせることも、女子にとってはつらいのよ。パワーという点ではもっと比べ物になんない。肩と足が男子と同格なら人並みに野球ができるだろう、という考えはわかるんだけどね……」
水谷先生がテーブルに書類を置き、再び嘆息した。
「……みづほちゃんは別格として、他に受かる子いるのかなぁ」
二次の技能試験に進む前に、女子にとってはかなり高い壁が立っているようだった。
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テレビのニュースの効果は、思わぬところで顕れた。緑陵への練習試合の申し込みが殺到したのだ。
新人戦都大会ベスト8の有力校や、他県からのオファーもあった。
こちらとしても、試合を重ねてチームを熟成させたいし、俺たちの力がどのくらい通用するのか試していきたい気持ちは、あった。
しかしこちらは、部員が一年生ばかりで、たったの10人。
しかも投手は、現時点では安田ひとりきり。一日に何試合も……というわけにはいかず、週一試合がせいぜいだった。
「俺にも投げさせてくれよー」
ブルペンで肩を作りながら、竹本が膨れっ面をしている。
度会や水谷先生が急造捕手役で、竹本の球を捕ってくれている。
「何言ってんだよ、お前野球初めてまだ一ヵ月だろ。焦らず頑張れや」
安田の言うとおり、竹本はまだ打者に投げられるようなレベルではない。
ただ、まったくの初心者であることを考えると、かなりのセンスを持っていると思えた。
「なあ、安田」
「ん?」
「打者を打ち取るコツを教えてくれ。はっきり言ってお前、初心者の俺より球遅いじゃん」
竹本も考えるとこがあるのだろう。
練習試合で打者をキリキリ舞いさせる安田のスローボールを散々見て、その差を思い知らされているに違いない。
「一球一球、丁寧に投げる事、足腰を鍛える事。お前はまず、そこから」
安田がブルペンで投球動作に入る。
高校に入ってから安田は、少し投球フォームを変えた。左腕を下げてスリークォーターからサイドの間で投げるようになっている。
「捕手を信じる事、バックを信じる事、同じミスをしない事……いろいろあるけどな」
安田のボールが根来のミットに吸い込まれる。
相変わらず、本気で投げてるのかと思うほどのスローボールが、右打者のアウトローいっぱいに決まった。
「まずは、自分を信じる事。信じるに足るだけの実力をつける事、だよ」
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練習試合を何試合かして感じた印象は「俺たち、意外に悪くないんじゃね?」だった。
野球のレベルとしては、シニアの頃に比べて一歩後退した感はある。特に守備のフォーメーションでは、練習と実際とではイメージの狂いもあり、凡ミスも少なからずあった。
その修正や再確認の意味でも、試合をした意義は充分にあっただろう。
一方で、打線はかなりの好調を維持した。
体の大きな野口は当たれば飛距離が出たし、松元のシュアなバッティングはヒットを量産した。
そして何と言っても、みづほがチームの頭脳として充分に機能した。
打順がひと周りする頃には、相手投手の球種や配球の傾向など、ほぼ丸裸にされた。
カウントが悪くなるとカーブでストライクを取りに来るなど、具体的な狙い球を教えてくれるので、俺たちはそれに従って打つだけだった。
四月の二試合、ゴールデンウィーク中の二試合。それほど強くない高校が対戦相手だったとはいえ、緑陵は連戦連勝だった。
勝利の瞬間の有沢の笑顔が、忘れられない。しばらくして打ち明けてくれたが、有沢は出ると負けの弱小野球部で、レギュラーにもなれなかった。
「試合に出て、ヒットを打って、しかも勝つって……こんな気分なんだね」
勝利の歓びを誰よりも強く噛みしめながら、有沢は呟いた。
春の新人戦が一段落ついた、五月連休明け。
みづほの将来がかかった認定試験は、間もなくである。




