第2話
オジ様。
俺が心の中でそう呼んでいた初老の男性は、【ルドルフ=エーベルスト】といって、御年70歳を迎えるお爺さんであった。
とはいえ、動きの機敏さや活力に満ち溢れた黒い瞳は、とても70歳とは思えず、かと思えば年齢と経験に裏付けされた言葉からは、歳を重ねてきた者だけが持つことが出来る威厳と重さがあった。
そして、そんな人の養女となったのが、俺こと【アリシア=エーベルスト】。一応、10歳という事になっている。ちなみに、俺の元々の名前はこの世界では発音しづらいらしく、また男名だった為にルドルフがつけてくれたものだ。
そんな俺は、透き通る白い肌に、澄んだ赤い瞳と人形のような整った顔立ち、サラサラと背中の中ほどまであるストレートの銀髪、ルドルフ曰く「黙っておれば、深窓の令嬢と言われても納得の見た目」だそうだ。
まあ仕方ない事である。中身は、この世界の常識を知らぬ20を超えた男なのだから。
ルドルフとの初対面の挨拶後に行われた事情説明では、感情の起伏を抑制する香が焚かれていた為に転生モノにある異世界に来てしまったことによる混乱をせずに聞いていられた。
というか、ビー玉サイズで毬のようなアクセサリーがついたネックレスを常に身に着けているように言われていることから、効果は薄くなっているのだろうが現在も香の影響下にあると思う。
もしかしたら、感情の整理がつかずに騒ぎになった前例者がいたのかもしれない。と思える対応だ。
そうして、目が覚めてから1週間が経過したが、俺は部屋から出ることもなく“篭の中の鳥”状態になっている。
別に閉じ込められているという訳ではなく、単純に寝たきりによる筋力低下と、成人男性から少女という外見の変化から来る動きの違和感から、介護がなければ満足に日常的な生活を送ることが出来ないのだ。
間隔に慣れた今は体力がない中でも自分で一通りが出来るが、最初の頃のルドルフにトイレの世話をされたりして、香の効果がなかったら恥ずかしさで死んでいただろう。というか、効果があっても恥ずかしくて、ルドルフに対しては羞恥心を捨てざる得なかった。
そんな引きこもり生活をしていれば、鏡もないログハウスの一室のような部屋と、窓から見える一本のあぜ道とそれを覆うような茂っている木々だけしか見えないので「本当に異世界に来ているのか?」と思ってしまう事がふいにある。
まあ視線を下に降ろせば、縮んた体と、消え失せた“永遠の相棒”がここは元いた世界ではないと、俺を現実逃避から引き戻してくれやがるのだが……。
「……アリシア、入るぞ?」
「はい。どうぞ」
しばらくすれば消えてしまう悶々とした感情を弄んでいると、それを打ち切るかのように木製のドアからノック音と共に聞こえてくるルドルフの声。
寝台で上半身を起こしているだけながら少し姿勢を正してから返事をすると、最近は固形物が混じり始めたスープの入った器を乗せている盆を持ったルドルフが部屋へと入ってくる。
「調子はどうだ?」
「問題ないです。軽く運動しても殆ど息が上がらなくなりました」
「そうか」
俺の言葉を聞きつつ、ルドルフは日課となっている俺の額に掌を当てての触診を行う。
少しすると、手のひらから柔らかな暖かさがジワリと染み込んでくるような感覚がし、それが全身へと広がっていく。
目を閉じて暖かさに委ねつつも、その暖かさが自分の体を巡っていく感触を明確に感じ取れるように、体の内側に神経を集中させる。
「ふむ。魔力の流れを感じ取ることに、たいぶ慣れてきたようだな」
「……んっ……ありがとうございます」
触診を終えて離れていく掌の名残惜しさに小さく声を漏らしつつも、褒めてもらえたので素直に感謝の言葉を口にする。
目覚めてから一週間。
貧弱な今の体に障らぬよう気を使って行われた現状説明と勉強の中で、俺の知っている世界との差異で強く印象に残ったのは【魔力】という概念が存在することだった。
ファンタジー世界にはお馴染みのこの魔力には【火】【水】【風】【土】【光】【闇】の6つの属性が存在していて、人類はそれらを日常や戦闘で使用することで外敵から身を守りつつ繁栄を続けている。
そして、この魔力は生き物であれば量の差があるが誰もが内包していて、体内を循環しているのだが、枯渇すると意識混濁や生命活動の低下を招き、死に至るかもしれない第二の血液ともいえる大事なパラメーターともなっている。
当然ながら、転生した俺にも魔力はあるのだが、転生の影響なのか上手く循環していないために、純粋な肉体的な貧弱さに追い打ちをかけている状態らしい。
自分で操作して循環させることが出来れば一番なのだが、魔力なんて概念が存在していない世界にいた俺が出来るはずもなく。朝昼晩の食事の前に、ルドルフが空気中にある魔力を自分の魔力を通して俺の体内へと流し込むことで、半強制的に魔力の流れを作り出して完全に停滞してしまうのを防ぎつつ、俺は魔力が動くという感覚に慣れて自分で動かせるようにする練習中なのである。
またこの方法には、通常であれば目減りした体内の魔力は自己生成したり空気中から補充していくのだが、それすらも出来ない俺の貴重な外部からの魔力供給源ともなっている。
「この分であれば、近々に循環させることも習得できるだろう」
「頑張ります」
「お主がそれなりに動けるようになれば、街に出ることになる。覚えておくように」
「街、ですか?」
差し出された器を両手で抱えるように受け取りつつ、ルドルフの言葉をオウム返しのように口に出す。
自己紹介を受けた時に、ルドルフはこの家(屋敷?)で一人自給自足の生活をしており、街に住んでいる友人が遊びに来る際に森では手に入らない物を買ってきてもらうため、十年以上街へと降りていないと話していたのを思い出したからだ。
ちなみに俺も自己紹介をしたのだが、前の世界の言葉や名前が日本語として聞こえるようで、無意識にこの世界の言葉を自分が話していることに気づいた要因となっている。
そういた理由で「魔法とは別の動力を利用した文明の中で生きてきた」という事以外、ルドルフは俺の事を外見や言動から知るしかない状況だ。
「奴にお主の事を紹介せねばならぬし、街でしか学べぬこともあるからな」
「分かりました」
「それにお主の為の小物や服を用意せねばならん。いつまでも、私の使っているものを併用するのは拙かろう」
「……」
食事の手を止めて、自分の見た目を確認する。
ほぼ寝たきりの生活とはいえ、背中まである髪の毛は纏める事はせず、包帯が巻かれていた時は気持ち程度であったが肌を隠せていたものの、必要がなくなったことで外されてからはルドルフの黒っぽい肌着を一枚を身に纏っているだけだ。
ルドルフに対して羞恥心は捨て去ってしまっているので気にしていなかったが、確かに動き回れるようになった時を考えると、それなりに身なりを整えておきたいとは思う。
そんな話をしてから三日後、俺は魔力を体内で循環させる方法である【魔力循環】のコツを掴むことに成功した。
転生者という事で念には念をという事で触診は今後も続けるそうだが、呼吸のように無意識にとはいかなくとも、意識をそれほど集中させずに自分の中にある魔力を動かせる程度まで慣れると、それに併せるかのように体力も激しい運動であったり長時間運動でなければ倒れることがなくなるほど向上し、先のルドルフの言葉通り街へと向かうこととなった。
いつも来ていたルドルフの黒っぽい肌着の首回りを調整してもらうことで、丈が膝下まであることを利用した疑似的なワンピースにして、彼のお古であるマントを俺の身の丈に合わせて裁断し、ポンチョのようにして縫い直して全身を隠すことで、街で俺用の服を買うまでの繋ぎの服を作ってもらった。
靴も、動物の皮で足を覆って革ひもで固定するという簡易な物を用意。
髪の毛はショートにして、面倒を減らそうかとも思ったのだが、「年頃の娘が軽々しく髪を切ってはならん」というルドルフの言葉を受けて、黒っぽい布を使って彼と同じように首元あたりで髪を一纏めすることにした。
そうして、彼の指導のもとでそれらを身に着けていく。
「……一時的とはいえ、年頃の娘にこのような格好をさせねばならんとは……己の至らなさが嘆かわしい」
「街で服を買うまでなのですから、そこまで気になさらなくても……」
「……お主は、もう少し恥じらいを持つべきだ」
「ルドルフ様に対してならば、今更だと思います。全て見らてしまっていますから……」
「う……むぅ」
結局、羞恥心に関してはこれ以上の問答はなくなり、ルドルフは準備した馬に跨ると自身の前にクッションのようなものを置き、そこに抱き上げるようにして持ち上げた俺を横向きに座らせると、自分のコートで隠すように覆う。
そうして、顔以外のほどんどが隠れたのを確認し、納得がいったのか一人頷く。
「速度を出さないようにするが、しっかりと私の服を掴んでいなさい」
「分かりました」
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ルドルフは、アリシアに自分の服を掴んでいるように指示を出すと、いつも以上に慎重に馬を歩かせ始める。
そうして馬を進めながらも、己の指示に従って素直に小さな両手で自分の服を握りしめる彼女を見て、魔力を奪い取った上に反則技のような方法による【隷属の儀式】を行ってしまった己の愚かさを見せられているようで、胸が痛んだ。
隷属の儀式の影響による感情が抑制されてしまうことに関しては、本来は【魔力回復を促進させる効果】のある香の効能を隠して、抑制されているのは香の効能であると誤魔化してはいる。
主に対して無条件で従う従順さは、話す内容に注意して、“命令”ではなく“指示”とすることで娘を教育する少し厳しい親と言う形にして誤魔化す。
思いのほか知性があるようだが、自身の常識が通用しないことを理解できているから、気づかれている様子はないが、このままで良いはずがない。
奪い取ったが為に虚弱となってしまったアリシアへ魔力を返す為に、触診と偽り、治療の為にと本来は魔術師が使う魔力循環を教え、【魔力暴走】を起こさぬように少しづつ返していく。
しかし、奪ってしまった魔力量は、今の返還速度ではルドルフの寿命が尽きるまでに返しきれないほど膨大であった。
そんな“転生者”が本来持つべき量の魔力を体内へ貯めて置けたのはルドルフだからこそであって、そこらの者だったら体内に留めて切れずに魔力暴走を起こして、主従になった瞬間に双方が死に至っただろう。
そういう考え方をすれば、儀式を行ったのがルドルフであったことは不幸中の幸いと言えるだろう……何の慰めにもならないだろうが……。
そうして、自分一人では色々と無理であると判断したルドルフは、糾弾されるのを覚悟で古い友人を頼った。
「幼い少女を助けるために、手を貸してくれと」