第1話
ピリリと全身を走る軽度の痛みを受けて、俺は目を覚ました。
「……っ」
沈んでいた意識がハッキリとしていくのと併せて、うっすらと視界が開けてきたと同時に視界を染める強い光に、眩しさから開きかけた瞼を再度閉じてしまう。
受けた光の容赦のなさが、徹夜明けに見る朝焼けの光に似ているので、今の時間帯は朝なのだという確証もない事を想いつつ、瞼越しからでも明るさにまだ慣れていない瞳を攻撃してくる光を遮るように、自分の腕で目元を覆って日陰を作ったときに、なんとなく違和感を感じた。
寝起きだから鈍感になっているのか、するりと思い出された″あの事故”の後だというのに、生きているという喜びも、死ぬかもしれなかったという恐怖も、俺の心から湧き出てこない。
それに、治療をされたとはいえ包帯に巻かれていない部分は当然あって、そこが顔に当たっているのだが、感触が慣れ親しんだものではなく……妙に柔らかくてスベスベしているのだ。
トラックが走る眼前に飛び出し、それを全身で受け止めるかのように……という死んでしまっても当たり前のような事をしたから軽傷で済むはずがなく、十中八九……瀕死の重傷だっただろう。
そうなると数日で目が覚めるという事はないだろうし、結構な期間を寝たきりであっただろうから筋力が衰えてフニャフニャの―――それにしても柔らか過ぎる気がしないでもないが―――腕であろう事は理解できる。
しかし、スベスベと肌触りが良いというのが良く分からない。
一般的な成人男性と比べれば薄かった体毛(産毛以上、薄毛未満)だが、顔に触れれば腕毛の感触がするくらいはあったはずだ……。
そこまで考えて、ふと思う。
何だろう。この胸の中にある既視感は?
どこかで体験している?違う、見た……いや、読んだことがあるのだ。
「……ライト、ノベル」
水分不足でガラガラな声なのに、聴きなれた自分の声よりもキーの高い声が自分の口から出る。
それと同時に、木が軋む音と共に人が近づいてくる気配を感じた。
「……ふむ、ようやく目を覚ましたか」
幾つもの経験と年齢を重ねた者だけか持つ威厳に満ちた重々しい声に、腕をどけて少し明るさに慣れてきた目で声のした方へと視線を向ける。
声の主が光を遮ってくれたおかげで、薄暗くなってしまったものの寝起きの目には優しい光度となった視界には、緑色のローブのようなものを身に纏った男が俺をのぞき込んでいた。
首の後ろ辺りで纏めた綺麗なグレーの長髪、目元や口元に幾分か皺があるものの、整った顔立ち故に渋みのアクセントとなっており、黒い瞳は老いなどを感じさせない活力に満ちており、「オジ様!」と黄色い声が聞こえてきそうな人物だ。
紳士然とした神官?のような(仮称)オジ様は、持っている器が二つ乗ったお盆を脇へと置くと、右手を俺の額の上へと置いた。
少しゴツゴツとして皺のある手は何となく安心する感じがして、自然と目を閉じてしまう。
すると、柔らかな温かさが彼の手からジワリと伝わってきて、全身からくる軽い痛みが消えていく。
「……体は問題ないな。香のおかげで、混乱もしておらんようだ」
容体確認の為だったらしい額に置かれた手は、問題がないというオジ様の呟きとともに離れていったときに名残惜しいと感じて、無意識に継続の催促を視線で訴えていた。
その視線に気づいたオジ様は小さく溜息をつくことで無視すると、お盆からじょうろのような形をした病院や介護施設などで見かける水を飲むための容器を取り出す。
「自分で飲めるか?」
飲めるという意思表示の為に容器へと手を伸ばす。
病的なまでに白くて、か細い、包帯が巻かれた痛々しい俺の腕が視界に視界に入り、ザワリと胸奥で様々な感情が蠢くが、直ぐに小さくなり消えてしまった。って、そんなことよりも腕を持ち上げて直ぐにプルプルと震え始めてしまい容器を受け取れない事の方が問題である。腕を空中で維持できないほど、筋力が落ちているようだ。
とはいえ、相手からすれば予想出来ていた事なのだろう。
ついに自重に敗けて寝台から落ちた俺の腕を元の位置に戻してくれたあと、オジ様は俺を片手で軽く抱き起しながら容器を口元へと当ててくれた。
そして慣れた手つきで、俺が咽たりしないように少しずつゆっくりと水を飲ませてくれる。
―――キュ~……
……喉が潤えば腹が鳴ってしまうのは、当然なのだ…………当然なのだ。
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器にあったスープを味わうことなく平らげて、再び寝かされた俺の枕元に、容器を軽く片付けたオジ様が丸椅子を持って腰かけた。
「さて……聞きたい事が色々とあるだろうが、まずは私の話を聞くように」
「……はい。分かり、ました」
喉も潤い腹も満たされた俺の声は、やっぱり知っているものとは違ってキーが高く、まるで少女のよう声に聞こえる。
それなのに、俺の感情が揺らめくことがない。
「……ん?……ああ、お主が感情的にならぬように香を焚いているのだ」
俺の内心を見透かしたかのよな言葉に、驚きの感情が瞬間的に浮かぶが直ぐに消え去り、何も匂いがしないが、そういうものなのだろうと納得しながら頷く。
「まず初めに、お主は漂流者だ」
「……?」
「詳しくは後で話す。要は、ここはお主の知っている世界とは違うという事だ」
「裏の、世界……?」
「違う。お主の世界を知らぬが、世界の理が違っているだろうと断言はできる。ここは別世界だ」
「…………」
香のおかげなのだろう。
寝たきりだったのが原因なのか、言葉を一気に話せずに途切れ途切れになってしまうという弱々しいという現状や、オジ様の話が非現実的なのに感情的にならずに話を聞いている自分がいた。
というか、疑問に思いつつも相手の言葉に不信感を持たないのも香の影響だとすると、何気に怖いモノを使っているのではないだろうか?このオジ様は……。
そう思いつつも、これまた深刻だとは思うことのない俺は、話の内容へ意識を向けてオジ様が来る前に建てた一つの仮説を口に出す。
「異世界、転移?」
「そういう解釈で問題ない。しかし、混乱を抑えているとはいえ理解が早い。説明する私としては助かる」
「似た状態を、知ってます、から」
「ほう?お主の世界にも、似たような事が起きるのか?」
「物語の、設定、ですけど」
「ああ、そういう事か」
顎を指先でさすりつつ興味深そうに俺の顔を覗き込むオジ様は、少しして話が脱線している事に気づいて、表情を改めてから口を開く。
「この世界の常識が、お主の持つ常識と同質であるとは限らぬ故に、この世界について学んでいきながら追々、詳細を話していくつもりだ」
「……はい」
オジ様はそこまで言うと、目を閉じて小さく深呼吸をする。
そして、活力に満ちた瞳を悲しい色へと変えて少し目じりを下げつつ、しかしハッキリとした口調で言葉を紡ぎ出す。
「すまぬが……私の不注意で、お主は私の娘となった」
「……??」
香の効果があっても微妙に混乱している自分を自覚して、もしなかったらどれだけ取り乱していただろうかと思いつつ、冷静な自分がオジ様の言葉を反芻して理解しようと考える。
俺の常識が通用しないこともあると前置きをされたので、オジ様の子供になった云々については後々に説明を受けつつ理解していくことが出来るだろう。
だが、問題なのは彼の口から出た「私の娘」というフレーズである。
娘?……誰が?
この部屋には、俺と彼しかいない。
となれば、俺の事を言っているのだろう。
でも、娘?……息子ではなくて、娘?
髪の毛が長いなという感覚は有ったので、それを判断材料にされているのかと思ったが、原理は分からないが事故の衝撃か何かで転移したとすれば大けがをしていた俺を治療したのはオジ様だ。
となれば、全身を見て判断したということに……。
そこまで考えてから俺は下半身へと手を伸ばし、トイレやお風呂、着替え等で見て触って慣れ親しんだ自分にとっての“永遠の相棒”へと触れようとするが
「……ない」
「?……どうした?」
「……ないです」
「……何がだ?」
「(ピーーー)がないですっ」
「ばっ、馬鹿もん!!年若い娘が、何という言葉を口にするんだ!!」
空を切る自分の手の感触とオジ様の叱咤の言葉に、俺は自分が男ではなく女、それも年若い娘―――たぶん少女?―――になっているという現実を突き付けられた。