限定思考
石英のトンネルを抜けると世界はより閉塞していて、存在と非存在のみの空間よりも魅力というか、個性がなかった。光が一本、二本と束になると、川を形成し、トンネルから抜けていく。ディスプレイに未知の映像が生まれ、情報は川のようにとめどない流れのようだ、実際音がする。冷却ファンの音はせせらぎ。
脳内変遷をしたことがあるか、ネットサーフィンが、ある固有領域限定の変遷だとすると、脳内変遷は無限、そこに言葉がある限り独自の映像として目前に現れる。例えば、「逆差別」という言葉を聞いたことがあるか? ここで大事なのは認知ではなく、視覚に存在する文字で、第一感として呼び起こされた映像。私は電車へと変遷した。
通勤、通学で朝の電車は異常に混む。定員オーバー。虫かごにトンボを詰め込んでいくと羽音は次第に減退、やがて全滅。人間は抵抗せず、自分の意思で(ある場合は拒みつつも)電車に身を委ねる。この空間では、人間は本来の概念を放棄し、「荷物」というオブジェクトとして定義されても何ら損傷はない。それだけ、動作は限定されているし、私の認識の範疇ではそのように処理される。私はどこに存在するか。私は今、電車そのものであるから、私は前述のようなことを言える。つまり、体内に多くの人間 = 荷物を抱えていて、いわば大食いしたような胃のもたれた状況で、仕事をしているのと同等である。
逆差別という言葉がなぜ私にこのような変遷を与えたのか。要因はいくつかあるが、私が以前考えた「健常者席」という概念による部分が大きい。「健常者席」とは健常者の座ることが許された椅子であり、障害者に席を譲らない馬鹿が電車に乗っていたときに閃いた言葉である。優先席というものがあるが、意図どおりの機能を果たしていないのではないか、ならば、健常者席を作って、そこ以外に健常者を座らせなければいいのではないか。これは過剰な発想であり、逆差別といえる。
私は私の空間内(この場合電車)で動作の限定された健常者と障害者を区別することはない。内部の人間の善意によって区別や差別が行われ、やがて常識になり、世界を形成する。それは電気信号で形成された存在、非存在よりも複雑なようで、安定しており、光が束にようなことはない、ようするに急に世界が歪むような大仰なエラーは起きない。障害者がエラーの一端だとすれば、光の戯れは世界では差別化され、個性とは解釈されないだろう、面白くない。言わば、それが私が世界は閉塞していると発想した所以だろう。
光は石英のトンネルを自由に戯れ、今日も情報として、世界を彩る。インターネットのような、限定がつくる個性は、自由な脳内変遷によって模倣され、いずれ淘汰されればいい。私は変遷する。私はそう言いつつ、ディスプレイ上の文字を目で追った。