第1話
正直言うと、ここに呼ばれる直前のことはよく覚えていない。
車に轢かれたのは思い出せる。トラックだったかバンだったか、まぁ少なくとも軽じゃなかった気がする。
その瞬間に運転手と目が合ったことも思い出せる。たぶん俺も同じ目をしていたんだろう。よそ見をしていたら致命的なことが起こってしまって、もう手遅れだと理屈だけは理解した時の目を。スマホの画面に気を取られていた俺が悪いのだから運転手には申し訳ないことをした……と初めは思っていたが、よくよく思い出してみれば運転手の右手にも同じものが握られていた。起こるべくして起こった間抜けな話だ。
こうして自業自得に自業自得を重ねたら、そこは見たこともない世界だった。
襲いかかってきたのは体を弾き飛ばす衝撃ではなく、足下が崩れたような浮遊感。しかし風もなければ音もせず、ただ背筋がぞっとする感覚だけが続いていた。
固く閉じていた目を片方ずつ開けてみて、やっと混乱を自覚する。
自分が何を見ているのか分からない。確かにいろいろなものが見えているのだが、それが何なのか理解できなかった。
人のようなものや森のようなもの、町のようなもの……見当をつけられないことはないが、どれも的外れな気がする。まるで忘れてしまった夢を思い出そうとしているような、不快で手応えのない感触だ。
「なんっ……!?」
意味のない声を上げると、それに応じたかのように音が蘇った。
聞こえてきたのは男の声、女の声、子どもの声。何かが崩れる音に、爆ぜる火の粉と煙の匂い。重い人と軽い人が砂を踏む音。
相変わらず何が起こっているのかは分からなかったが、聞こえてくるノイズが穏やかな雰囲気のものではないことだけは感触で理解できた。
そう思った時、今度は明確にこちらへ語りかける人の声が聞こえてきた。
「望むがいい。願うがいい。思い出は剣、希望は刃」
知らない言葉で知らない誰かが囁きかける。
「夢は鎧に、ためらいは毒に。ここにあるのは私の残骸。次はお前の番だ」
「誰だ? 何を言ってるんだお前は」
「次はお前の番だ。次はお前の番だ……」
知らない誰かの知らない言葉が不信の壁をすり抜けて、すっと胸に滑り込む。混乱した頭の中に一つだけ確信があった。
この声を、忘れてはいけない――。
声が薄れるとともに、急速にノイズが遠ざかっていく。その代わりに聞こえてきたのは女の子の声だった。
「流れて来たれ紬の火白。渡りて沈め彼方の黄白。深星成れかし夜縁の君よ――」
ほぼ同時に視界がぱっと開けた。青い空に白い雲、草原に山。ごく当たり前の……でも普通に暮らしているならば、あまり見る機会のない風景だ。
背筋に来る浮遊感はいつの間にかなくなっていて、両の足で固い床の上に立っていた。壁はなく細かい装飾の施された手すりが周囲を囲んでいる。高さは胸の辺りくらいまでだったが、その向こう側には何もない。2、3階どころではない、かなり高い場所のようだった。
眼下には市街地と思われる屋根が並んでいるが、どれも軒並み低い。高いものでもせいぜい3階建てくらいかと見当をつける。そしてその建築様式はどう見ても……現代日本のものではない。
そして何より、ごく当たり前の青い空には、太陽が二つ輝いていた。
手すりを掴みつつ、思わず叫ぶ。
「すげぇ! 異世界だこれ!」
「えっ!?」
「えっ!?」
後ろから聞こえた驚きに振り返ると、そこには数人の古風な格好をした者たちがいた。声を上げたのは円形の部屋(と言っていいのか分からないが)の中央に立ち、こちらを見ている女の子だった。
一言で言えばお姫様。他に例えようがない、というのが第一印象だ。
陽光に照り返す金の髪に、宝石をはめ込んだティアラがそれを飾る。宝飾品の目利きなどできない一般人の目にも高価なものだと分かる説得力があった。
同じく素人にも分かる仕立ての良いドレス。胸元にはこれまた虹色に輝く宝石が飾り付けられている。
その後ろでは何人かの男たちが呆然とした様子でこちらを見ていたが、彼女だけは少し違った。驚いてはいたが、その目には力が……と言うか、熱がこもっていた。
「ああ……ついに」
感極まったように吐息を漏らす。
「ついにお越し下さったのですね、救国主様!」
「きゅう?」
「我らヒースワートの民、この時を心待ちにしておりました!」
「ひーすワ?」
「申し遅れました。私はヒースワート第一王女、ティアリアル・イル・サイズと申します。本来ならば国家の主たる父王がお出迎えすべきところですが、病床を離れられぬため私が……」
「てぃあり……すいませんもう一度いいですか?」
話についていけない様子のカイトを見て彼女……ティアリアルは目をしばたたかせると一度言葉を切り、
「失礼いたしました! ご無礼をお許し下さい、救国主様。突然のことにて戸惑われておられますでしょう。どうか我らの話をお聞き下さい。そして……この国をお救い下さ……」
ここまで一息に語ったところで再び言葉を切る。いや、正確に言えば重く響いた音に中断させられた。
眼下の市街地は城壁に取り囲まれている。そのさらに外、霞んで見えなくなるほどの距離で煙が上がっていた。火山の噴火ほどではないが、火事にしては小さすぎる。何より険しい顔を見せる姫の言葉を遮ったのは――
「爆発音……?」
カイトは以前見た戦争ドキュメントを思い出した。テレビのスピーカーから出た音であっても、害意のこもった重低音は心をざわつかせたのを覚えている。それと同じ種類の音だと感じていた。
「……申し訳ございません救国主様。時が迫っております……不可解かとは存じますが、手短に我らの置かれた窮地を……」
「あー、OKだいたい分かったお姫様。俺は八戸介人といいます初めまして。特別な力とかは持ってないですすいません」
「ああ! お名前を伺うのをすっかり失念しておりました!」
「いえそれは構いませんので顔を上げて下さいお願いしますやりづらいし。詳しいお話は後でお聞かせ下さい。俺は何をすればいいですか?」
「えっ?」
「この世界は何かに侵略されていて、その脅威から国を守るために俺を喚んだのでしょう? 時が迫っている、ということはさっきの爆発は戦闘音でしょう。市街地の中心にある高い建物に、王女だという貴女や高官と思われる方々が揃っているということは、ここはたぶん王城。神殿のたぐいならここまで高くはないでしょうからね。王都から目視できる距離で戦っているということはもはやギリギリのところまで戦線を押し込まれているということではありませんか?」
推測したことを一気に畳み掛ける。直感だが、今このお姫様に説明を頼むと恐らく時間がかかる。迫った危機を認識していてもなお「救国主様」を優先してしまいそうな雰囲気があると感じた。本来ならしっかり話を聞かなければならないのだろうが、もし想像が正しいならばここで時間は取れない。
ぽかんとした顔のティアリアルと、彼方の黒煙を交互に見ながらさらに押す。
「貴女は俺が何の力も持っていないと言ってもそのことには驚きませんでした。せっかく喚び出したのに、です。ということは貴女は俺個人の力を頼りにしていたのではなく、頼れる“何か”のために俺を必要としたのではないかと思うのですが」
後方でずっと沈黙していた老人たちからおお……と声が漏れた。ティアリアルにいたっては大仰な役者のように目を輝かせている。
「やはり……やはり言い伝えは正しかったのですね! このわずかな間に! これほどの! 観察眼!」
「いや落ち着いて下さいお姫様」
観察眼というか、小さい頃見てたアニメでよくあったパターンそのままだしな……。
そんなことはさすがに言えないし、言ったところで分かるはずもないので口にはしなかった。それにテンションが上がっているのは自分も同じだ。漫画やアニメのようなヒーローに憧れるような時期はもう過ぎたつもりだが、現実になったとなればさすがに平静ではいられなかった。
(まず俺が落ち着かないとな。楽しんでる場合じゃない。……じゃないぞ!)