第四話 健臣の奮闘
今までなぜ健臣と真子が顔を合せなかったのか。
その理由のひとつはすぐに分かった。
「森野、またか……。今日でもう三日目だぞ」
担任の石黒智一が教壇で呆れた声で言って、ため息をついた。
真子は教室のドアの前でうつむく。生徒たちの小さな笑い声も聞こえる。
石黒は少し間をおいてから言った。
「遅刻をしないように努力をしなさい」
そう、森野真子は遅刻の常習犯だったのだ。
健臣がそれを知ったのは新学期が始まってすぐのことだ。
ちなみに新学期が始まってからまだ一週間ほどしか経っていない。
健臣と真子が在籍するBクラスの担任になった石黒智一は、四十代前半の体育教師だ。
健康的に焼けた黒い肌に、がっしりとした筋肉質の体格。
そして厳しいことで有名である。
健臣はそわそわしながら真子と石黒を交互に見る。
松岡の『真子ばか』がうつりつつある健臣は、真子が窮地に立たされていると心苦しい。
真子なりに反省しているのだからもう座らせてやってくれと健臣は祈った。
「……もういい。明日からは気をつけなさい」
その祈りが通じたのかは分からないが、石黒は大きなため息をついて真子を開放した。
真子は生徒たちと視線を合わせないようにうつむきながら早足で席に向かう。
そして自分の席に着くと、いつも通り空を眺めはじめた。
健臣は小さくため息をついた。
ほっとしたような、困ったような、そんな色々な感情が混ざり合ったため息だった。
その日の夕食のことだった。
「真子、石黒先生から聞いたぞ」
松岡がそう固い声で言った。
怖い顔に反して、いつも話し方は軽い松岡しか知らなかった健臣は、彼の様子を伺う。
顔がいつもに増して怖い。
夕食をとっていた真子は顔を上げて松岡を見た。それから箸を置く。
「去年は藤原先生だったから多目に見てくれてたけど、石黒先生は厳しい方だから、今年はそうはいかないんだからな」
真子はうつむいた。健臣はそんな真子を見かねて提案をする。
「……なぁ、真子。明日から一緒に学校行く?」
真子は首を横に振る。
「一緒に行かない……」
「なんでだ? せっかく常盤が言ってくれているのに」
松岡は真剣な表情で聞いた。
断られるとは思っていなかった健臣は、真子の様子を伺うように見る。
「常盤くんもクラスのみんなに言われる」
真子がうつむいたまま小さな声で言った。健臣はため息をつく。
「なんだ。俺のこと気にしていたの? 大丈夫だよ」
真子はゆっくりと顔を上げた。健臣は笑みを浮かべて言う。
「八時に迎えにくるから。ちゃんと支度しとけよ」
「……ありがとう」
真子はうつむいて小さな声で言った。
「悪いな、常盤。……そうだ。常盤に渡そうと思っていたものがあったんだった」
松岡はおもむろに立ち上がり、リビングの隣室に向かった。
戻ってきた松岡は、手に握っているものを健臣に手渡す。
健臣の手の平に乗ったものは銀色の鍵だった。
「真子が帰る前にきた時の為にな。あと真子が鍵を忘れた時の保険も兼ねて」
松岡はにっと笑った。健臣は手の中にある鍵を見つめる。
俺のことを信頼してくれているのだろうが、こんなに簡単に渡していいのだろうか。
だが、俺と真子が鍵を持っていればこの間のように締め出しを食らわずに済むなとも思って、ありがたく受け取ることにした。
次の日の朝。
健臣は予告通り八時に真子を迎えに松岡の家に赴いた。
チャイムを押すと真子が玄関から顔を出す。
「……どうした? その頭」
健臣は呆然と言った。真子の頭が寝癖で鳥の巣のようになっている。
真子は恥ずかしそうに髪を手で整えるが、たいして変わってはいない。
「八時に迎えにくるって言ったのに。早く支度しろよ」
真子はうなずいて、そそくさと中に戻っていく。
健臣も真子のあとを追うように中に入った。
真子は洗面台の前で鳥の巣を必死にほぐしていた。
が、その動作はゆっくりと丁寧で、健臣はすかさず真子の手からブラシを奪い取ってうしろ髪を梳かす。
「ほら、行くぞ!」
「ま、待って……」
真子はリビングに寄って黒革の鞄を手に取り、健臣のあとを追った。
先に行った健臣はエレベーターのボタンを押して真子を待っている。
健臣は腕時計を確認した。八時五分を過ぎている。
学校までは歩いて二十分。
下駄箱から教室までの移動時間を考えるとHRがはじまる八時半までに間に合わない。
「真子! 自転車で行くぞ」
健臣はよろけながらあとを追ってきた真子に言う。
真子は戸惑うように健臣を見た。
「わ、私、自転車持ってない」
健臣は真子の手を引いてエレベーターに乗り込む。
なにも話さない健臣の顔を真子がちらりと伺って、それからうつむいた。
一階についた健臣は真子の手を引きながら早足で自転車置き場に向かった。真子は小走りでついて行く。健臣は自分の青い自転車に跨り、前籠に自分の鞄と真子の鞄を一緒に詰め込む。
「ほら、うしろに乗って」
真子は戸惑いの表情を浮かべて、健臣を見つめた。
「私、うしろに乗ったことない。常盤くんも遅刻しちゃうから先に行って」
「真子が遅刻したら意味ないから。ほら、難しくないよ。俺の背中に捕まってうしろに乗って」
真子はおそるおそる健臣の言うことに従う。
真子が乗ったことを確認してから声をかける。
「よし。ちゃんと掴まってろよ。飛ばすから」
真子は言われたとおり健臣の肩をぎゅっと掴んだ。
健臣は勢いよく自転車を漕ぎだした。
走り出してすぐに健臣の額に汗が滲む。
真子が心配そうにうしろから声をかけた。
「大丈夫?」
「うん……!」
健臣はうしろにいる真子をちらりと見る。
真子は黒い髪を靡かせて前を見ていた。
しばらくして健臣は真子がなにかを呟いていることに気がついた。
健臣は耳を澄ませる。聞こえてきたのは小さい頃によく歌った童謡だった。
名前はなんだっただろうか。少し考えたが思い出せない。
それよりもこちらは大変な思いをして自転車を漕いでいるというのに。
健臣はそう思って苦笑した。
しかしそれは一瞬で、真子を振り返った健臣の顔に笑みが浮かぶ。
真子がわずかに微笑んでいたのだ。
学校にいる時、夕飯を食べている時、一日のほとんどを真子と一緒の空間で過ごしているのにも関わらず、真子が笑っているところをほとんど見たことがない。
そんな真子が少しだが笑顔を浮かべている。それが嬉しかった。
健臣は前を向いて、ペダルを踏む足に力を入れた。
学校の校門を超特急で潜った。
うしろから教師の怒鳴り声が聞こえたが、健臣は振り返ることなく駐輪場に滑り込む。
健臣は自転車を止めて、前籠から鞄を二つ掴み取る。
時計を確認すると八時二十五分目前だった。
「走るぞ!」
健臣は真子の手を掴んで、駐輪場をあとにした。
健臣は下駄箱で素早く上履きに履き替えて、真子の上履きと真子の手を掴んで教室に向かった。
すれ違う生徒は必死の形相をしている健臣と、引きずられるようにあとをついて行く真子を振り返る。
しかし健臣は気にならなかった。今の健臣の脳裏にあるのはただひとつ。
石黒が教室に着く前に真子を教室に放り込むことだけだった。
ダンっと音を立てて教室の扉が開く。そこには息を切らしている健臣と、靴下のまま立っている真子がいた。
生徒たちが驚いた顔で健臣たちを見ている。
「ま、間にあったぁ……」
健臣はその場にへなへなと座り込んだ。
それと同時に始業のチャイムが鳴る。ぎりぎり間に合った。
ほっと安心したようなため息をつく。
真子は健臣の顔を覗いた。
「上履き、ちょうだい」
「ああ。はい、どうぞ」
健臣は真子の上履きを床に置いた。
真子は上履きを履いて、健臣が床に置いた自分の鞄を掴む。
「ありがとう」
真子は健臣の目を見て言った。
真子から視線を合わせてくれたのは初めてのような気がする。
そう思いながら健臣は真子のうしろ姿を眺めていた。
「……まぁ、間にあってよかったってことで」
健臣はそう独り言を呟きながら立ち上がるとぱこっといい音を立てて頭を叩かれた。
健臣は痛む頭を撫でながらうしろを振り返ると、そこには口元が引き攣った笑みを浮かべた担任の石黒が立っていた。手には出席簿を持っている。
校門で叫んでいた教師がいたことを思い出した。
健臣はまずいと内心焦りながら、とりあえず愛想笑いを浮かべてみる。
「おはようございます、石黒先生。今日もいいお天気ですね」
「常盤ぁ、分かっているよな? なんで俺が怒ってるのか」
「はい……、承知しております」
健臣は体中から汗が噴き出すような感覚を覚えた。
愛想笑いを浮かべる口元が引きつる。
石黒は健臣の頭に手を乗せてため息をついた。
「あとで職員室な」
「はい……」
健臣は頭をかきながら席へ向かった。
途中で男子生徒に冷やかされたが「うるせー」と蹴散らして席についた。
「よし、朝礼始めるぞ。席に着け」
石黒は教壇に向かいながらそう生徒たちに声をかけた。
昼休み。
健臣は職員室に呼び出された。健臣は石黒の前で反省したようにうつむく。
健臣は一通り叱られたあと、一緒に乗っていた女子生徒が誰だったのか問い詰められたが全く口を割らなかった。
平行線をたどる会話に石黒はため息をつく。
「もういいや。戻って昼飯食え」
「はい……」
憔悴しきった健臣はよろよろときびすを返した。
「失礼しました」
頭を下げたのか、よろけたのかよく分からないが、健臣はドアの前で石黒の方を向いてから職員室を出て行った。
職員室を出た健臣は深いため息をついた。
ふと顔を上げると職員室の近くの階段の方から隠れるようにして松岡が手招いている。
健臣は松岡に招かれるまま近づいて行く。
松岡は辺りを見回して誰もいないことを確認した。
「悪かったな」
健臣は「いいえ」と苦笑する。
「それで、石黒先生はなんて?」
「……安心して下さい。真子のことは言っていません」
松岡は安心したように微笑んだ。
この真子ばかめ……。健臣は心の中で悪態をつく。
それが視線に現れていたのか、松岡は慌てて顔の前で手を振る。
「いやいや。本当に健臣君には悪いことをしたと思っているんだよ」
松岡はわざとらしく何度もうんうんとうなずいた。健臣は小さくため息をつく。
「そうですか……。でも、どうして先生が知ってるんですか?」
「ああ。まぁから聞いて心配になってな」
どうせ真子のことが心配できたのだろう。健臣は目を細めて松岡を見る。
その視線を受けて松岡はまた慌てた。
「いやいや、誤解だよ。まぁのせいで常盤が呼び出されてるのに放っておけないだろ」
「真子のせい?」
「そう聞いたけど? 遅刻しないように自転車に乗せてくれたって」
「別に真子のせいだなんて思ってないです。でも、明日からは七時五十分集合にしようと思います。もう呼び出しは嫌なので」
松岡はきょとんと健臣を見たあと、盛大に笑った。そして健臣の肩を叩く。
「お前はいいやつだな」
そう言って松岡は職員室へ去って行った。
健臣は首をかしげなら教室に戻った。
健臣が教室に戻ると、それに気がついた直が声をかけてくる。
「よぉ、遅かったな」
「お疲れ様。大丈夫だった?」
拓也がそう言って爽やかな笑顔を向ける。
「大丈夫。注意で済んだ」
「よかったな」
そう言った直にうなずきながら健臣は自分の席につく。
「で、なんでお前らは俺の席にいるわけ?」
直と拓也が顔を見合わせる。そして直は不思議そうに首をかしげた。
「なんでって、いつも健臣の席で昼飯食べてるだろ?」
「俺がいないのに、どうして俺の席なの」
「まぁまぁ。健臣、いいものあげるよ」
拓也が爽やかな笑みを浮かべながら取り出したものは焼きそばパンだった。
健臣は瞳を輝かせる。
「お前ら……!」
「戻ってきてからだと購買になにもないからね。一緒に買っておいたよ」
健臣は焼きそばパンを受け取って頬ずりする。
呼び出された時点で今日の昼食はあまり期待していなかった。
「機嫌なおった?」
「なおった! サンキュー!」
健臣は焼きそばパンにかぶりつく。拓也は健臣に手を差し出した。
健臣は不思議そうにその手のひらを見る。
「俺、手相は分からないよ」
「焼きそばパン代」
健臣は拓也の白い歯が光る爽やかスマイルをじっと見つめる。
「……おごりじゃないの?」
「あはは、まさか」
健臣はため息をついて拓也の手のひらにお金をのせた。
「まいどありー」
健臣は不満そうに焼きそばパンを頬張る。
「でも、これは俺たちからのおごり」
直はにやにやしながら紙パックのお茶を健臣の机に置いた。
「まじ? サンキュー」
健臣はそのお茶にストローを差して飲んでいると、直がじっと健臣の顔を見ていることに気がついた。
「なんだよ。今さらおごりじゃないとか言うなよ?」
健臣が苦笑しながら言うと、直は首を横に振った。
そしてやっと口を開いた。
「魔女とつきあってるの?」
「え? なんで?」
「今朝、一緒にきてたじゃん」
健臣は呆気にとられる。直はじーっと健臣を見て、拓也はにこにこと健臣を見ていた。
「つ、つきあってねーよ!」
健臣は慌てて否定する。そして真子と仲良くなった経緯を説明した。
「始業式の日に直と拓也と駅前のファーストフード店で昼飯食べたじゃん?
その帰りに真子が俺の住んでるマンションの前の公園にいてさ、実は同じマンションに住んでることが分かったんだよ。
で、真子も俺も鍵を忘れて家に入れなくて。一緒に待ってたら、真子に鍵を届けにきたのが松岡先生で驚いたぁ。直からうわさを聞いたばっかりだったし。
でも、先生は真子の叔父さんなんだって。家の事情で今は先生の家に住んでるんだって言ってた。それで母さんが帰ってくるまで先生の家にいさせてもらって。そしたら母さんと先生がなんか意気投合しちゃってさ。帰りの遅い母さんの話を聞いて、先生が『だったらうちで夕飯食べれば?大勢で食べた方が楽しいから』って。それ以来、先生の家で夕飯ご馳走になってるんだ。
だから直が言っていた真子と先生のうわさ話は単なるうわさでした。残念だったな」
健臣が直に焼きそばパンをつきつけながら最後の一言を言うと、直は悔しそうな顔をした。
そして目の前に突きつけられている焼きそばパンにかぶりつく。
「おい、直! お前、俺の焼きそばパン食うなよ!」
健臣が慌てて焼きそばパンを引っ込めた。
直はもぐもぐと焼きそばパンを咀嚼している。
拓也はそれを見て、にこにこと笑顔を浮かべていた。
昼休みがもうすぐ終わる頃に真子は教室に戻ってきた。
健臣は自分のうしろを通る真子を見上げる。
「真子! 明日から七時五十分な。ちゃんと支度して待ってろよ」
健臣はにっと笑った。真子は少し驚いた表情をしたが、小さくうなずく。
そして席に座って空を見上げた。
それは青空の綺麗な空だった。
※自転車の二人乗りは危険なのでまねしないでくださいね。




