第三話 夏の終わり
夏祭りから二日が経った月曜日。
いつものように悠里たちは松岡の家に集まっていた。
健臣と直はテレビゲームをして、そのうしろでは拓也が二人のしているゲームを見ている。
悠里と真子は少し離れたところで話していた。
ゲームが一区切りついた時だった。健臣がおそるおそる直に尋ねる。
「なぁ、直。お前、夏休みの宿題、ちゃんとやってるよな?」
「しゅく、だい?」
直は首をかしげながら笑顔で言った。そして次第に顔色が青ざめていく。
「え? みんなは? まだやってないよね?」
直は焦ったようにみんなを見回している。
悠里たちは大きなため息をついた。
それは夏休みが終わるまで、残り一週間を切った日のことだった。
翌日からはそれぞれ残りの宿題を持ち寄っての勉強会となった。
直は健臣の恐れ通り全く手をつけていない。
悠里は数学のプリント、健臣は読書感想文が残っていた。
真子と拓也はすでに終えているようだ。
直はまず悠里と一緒に数学のプリントからはじめることにした。
数学が苦手な二人は真子と拓也に教えてもらいながら進めていく。
「お、終わるかな? 俺、終わるかな?」
直は青い顔でプリントを眺めながら言った。
「直が必死でがんばれば終わるんじゃないかな」
拓也は久しぶりにニヒルな笑みを浮かべている。
直は涙目になりながら、何度かうなずいた。
「みんな、いつの間にやってたんだよ。裏切り者ぉ」
直がぼそっと呟いた。
その日の昼過ぎ、悠里は時計を見た。
今日は親戚が家に尋ねてくる。母親に早く帰ってくるように言われていた。
「ごめん、もう帰らなくちゃ」
悠里はそう言って片づけをはじめる。
そして鞄を持って立ち上がった。
「じゃあ俺はアイス買いに行こうっと」
直は伸びをしながらそう言った。
すると健臣が手を上げる。
「俺、バニラ」
「俺はチョコミント」
拓也も便乗して言った。いつものように爽やかな笑顔を浮かべている。
直が顔を顰めた。
「お前らな。人をパシリに……」
「私、ストロベリーでお願いします」
直の言葉とほぼ同時にもうひとりそっと手を上げた。
直はぴたりと言葉を止めて真子の顔を見る。
真子がこうしたやりとりに口を挟むのは珍しい。
「真子ちゃんがそう言うならしょうがないな。ついでに健臣と拓也たちの分も買ってきてやるよ」
直は上機嫌でそう言った。だらしない笑みを浮かべている。
あいかわらず真子に弱いやつだ。
悠里は呆れた目で直を見た。
悠里と直は、エレベーターで一階まで降りる。
外は太陽が照りつけていた。
「あちぃな……」
直は独り言のように呟いて空を見上げる。
それからマンションの前の公園に目を向けた。
「まゆ?」
公園の入口には制服姿で不安そうにうつむいている東まゆみが立っていた。
まゆみは直に気がついてほっとしたような笑みを浮かべる。
けれどすぐにまた不安そうな顔になった。
直が早足で道路を渡り、まゆの前に立つ。
悠里はそのあとをゆっくりと着いて行った。
「ここにいたら直に会えるかなと思って」
「いつからいたの? 連絡くれればよかったのに」
直がそう言うとまゆみは微笑むだけだった。
まゆみは悠里を見る。
「悠里ちゃん、こんにちは」
「……こんにちは」
まゆみからはいつもと違う雰囲気を感じた。
穏やかな印象の彼女が今日は緊張感を漂わせている。
直もいつもと違って表情がわずかに固い。
悠里は二人の様子を伺うように直の一歩後ろから見つめた。
まゆみがうつむきがちに直に話しかける。
「直、少しだけ話せる?」
「……これから悠里を送るところなんだ。あとでもいい? 連絡するから」
直はちらっと悠里を見て、まゆみと視線を合わせずに言った。
直らしくない。いつもならきっとここで「なに? 今話せよ」などとあっけらかんと言って、まゆみと悠里を困らせるはずなのに。
きっと直はまゆみの用件を知っているのだと思った。
「さっきアイスを買いに行くって言ってなかった? わたしはひとりで駅まで行けるから。じゃあね、また明日」
悠里はそう言って二人の横を早足で通り過ぎる。
「わりぃ。また明日な」
「悠里ちゃん、ごめんね!」
直とまゆみは、悠里の背中に向かって声をかける。
悠里は振り返ることなく右手を軽く上げた。
悠里はなにも考えないようにさくさくと歩いた。
公園内にある池の傍まできた時、そこで足を止める。深いため息をついた。
池の周りに設置されている柵に腕を置いて寄りかかる。
池の水は濁っていてお世辞でも綺麗とは言えない。
そこに映り込む自分の姿を見つめた。
背が高くて、気が強くて、可愛げのない自分。
まゆみのように女の子らしくて可愛かったら。
今までそんなこと考えたこともなかったのに。
そんなこと思ってもしかたがないのに。
悠里は瞳を閉じて考えていたことをやめた。
悠里は来た道の先を見る。
直とまゆみがなにを話しているのか気になったのだ。
二人の雰囲気がいつもと違っていた。胸がざわざわと騒いで煩い。
もう否定はできない。わたしは間違いなく直のことが好きだ。
そう思うと胸の奥からなにかが込み上げてくる。
それから気を逸らすように呟いた。
「帰らなくちゃ……。お母さんが怒るとめんどくさいし」
悠里は再び歩き出した。
その時、背後から名前を呼ばれた。
この声は直だ。悠里は前を向いてさくさくと歩いて行く。
振り返ることはできなかった。
「悠里、待ってよ! 待てってば!」
直は悠里の腕を掴んだ。それで足を止めたが悠里は振り返らない。
「なによ。離してよ」
「聞こえてるなら、待ってくれても……」
直はそう息を切らせながら言った。
うしろから覗き込むように悠里の顔を見る。
直が驚いたように目をぱちくりさせた。
「泣いてるの? なんで? 俺のせい?」
悠里は直の手を振り払おうとする。
しかしそれは叶わず、直を振り返った。涙を流しながら直を睨みつける。
直が不安そうに悠里を見つめていた。
悠里は耐えられなくてもう一度振り払おうするが、やはり直はその手を離そうとはしなかった。
「なんで泣いてるんだよ。言ってくれなくちゃ俺には分かんないよ」
直は弱ったように悠里を見つめている。
「直のくせにほんと……むかつく」
悠里はそう呟き、直の着ているTシャツの襟元を掴んでぐっと引き寄せた。
そして唇を掠めるようなキスをする。
そして呆気にとられている直の襟を離した。
悠里はきびすを返して走っていく。その顔は真っ赤だった。
残された直も顔を真っ赤にして小さくなっていく悠里の背中を呆然と眺める。
「え? どういうこと? 今のなに?」
直は混乱しながらゆっくりとその場に座り込む。
真っ赤な顔でうつむきながら口元を腕で覆い隠した。
翌日、悠里と拓也はいつものように駅で待ち合わせた。
近道の公園を通って松岡の家に向かう。
いつもと違うのは悠里の重い足取りと、マンションの前で直が待っていたこと。
拓也は直を不思議そうに見る。
その横で悠里の顔がわずかに苦々しく歪んだ。
直も二人に気がついて「よっ」と手を上げて挨拶する。
こちらはいつもの様子の直だ。
「直、どうした? 俺たちのこと待ってたの?」
拓也が尋ねる。直は悠里の様子を伺うようにちらっと見てから拓也に視線を戻した。
「ちょっと、な」
拓也はなにかを察したように笑みを浮かべてエレベーターを指差す。
「そう? 俺、先に行ってるね」
拓也はそう言って何食わぬ顔をして歩いて行く。
残された悠里と直は、お互いの顔を見ることなく向かい合っていた。
しばらくの沈黙のあと、先に言葉を発したのは悠里だった。
「なに?」
「き、昨日のことだけど……」
直が言いづらそうにそう言った。悠里の片眉がぴくりと動く。
「忘れていいよ。昨日はごめん」
悠里はそう言ってエレベーターに向かって歩き出した。直は慌てて悠里の腕を掴む。
「待って。……昨日の、どういう意味?」
その言葉で悠里は振り返って直を見る。
直は真剣な表情で悠里を見ていた。
悠里は頬を赤く染めてうつむきがちに直を見上げた。
「直のことが好き。……でも直がわたしのこと、そういう風に見てないことも分かってる。わがままだって思うけど、直からイエス以外の答えを聞きたくないの。もし直がわたしのことを好きになったら返事ちょうだい。それまでは忘れていいから。お願い」
悠里は直の瞳を見ながら言った。
直の返事を聞く前にエレベーターに向かって歩き出す。
直はなにか考えているのか悠里の背中を呆然と見つめていた。
しかしエレベーターに乗り込む悠里を見て直がやっと意識を取り戻す。
「あ、待って!」
悠里がにっこり笑ってエレベーターの扉を閉じた。
直の伸ばした手が虚しく落ちる。
「あいつ、本当に俺のこと好きなの?」
直は首をかしげながら上っていくエレベーターのランプを眺めていた。
エレベーターに乗った悠里はため息をついた。
エレベーターの壁に背を預ける。
昨晩はたくさん考えた。はじめて眠れない夜を明かした。
今日、直に会うのが怖かった。
悠里はそっと唇に触れると涙が零れた。
「わたしは直が好き。大好き」
直が自分を恋愛対象として見てないことも分かっていたのに。
まだ言うつもりもなかったのに昨日は気持ちが溢れて止まらなかった。
直が追いかけてきてくれて嬉しかった。
それと同時にまゆみに嫉妬していた自分を見られたくなかった。
そしたらいろんな感情が涙になった。
放っておいて欲しかったのに直が心配そうに泣いている理由を聞いてきた。
すべての理由は好きだから。
そう思ったら目の前にいる直の服を掴んでキスしていた。
そしてそのまま逃げてしまった。
ふられるのは嫌だ、距離を置かれるのも嫌だ。
でもこのまま友達のひとりは絶対に嫌だ。
直の特別になりたい。なら振り向かせるしかない。
悠里は涙を拭った。
そこにいたのは、いつもの勝気な豊川悠里だった。




