第十二話 来訪者(前編)
病院から松岡の家に帰ってきて、買ってきたお弁当を食べると真子はすぐに寝てしまった。ビールを飲む松岡と健臣が二人きりになり、しばらくはしんとした空気が流れる。テレビからは明るい声と笑い声が零れていた。
健臣が唐突に切りだした。
「先生、真子からお母さんの話を聞いたよ」
松岡が健臣の顔を見た。その表情は驚きに満ちている。
「まぁが話したのか?」
健臣は小さくうなずいた。そして、棚の上に置かれた真子の家族写真を見た。真子の母親の真奈美を中心に父親の晃政と真子がいる。
「そうか。まぁはなんて? ……いや、常盤にだけ話したんだ。俺が聞いちゃいけないな」
松岡は何かを振り払うかのようにビールを一気に煽った。
「俺にだけ? 真子は先生やおじさんには話してないんですか?」
「いや、俺たちが悪かったんだ。その話題には触れないように、お互いがそうしていた」
健臣の父親が亡くなってすぐは健臣も母親の典子もその話題には一切触れなかった。話せなかった。だから、その気持ちはよくわかる。
松岡がビールの缶をテーブルに置く。
「あの事故の日は晃政さんが出張で離れていて、しかもアメリカって言うんで俺もすぐに駆けつけてやれなかった。晃政さんが到着したのは確か、翌日の昼頃だったかな。ついてからは事故のことでてんやわんやで、晃政さんもずっとまぁについていてやれなかったらしい。俺が着いたのがその翌日で、事故から二日経っていた。病院からまぁを連れて晃政さんの家に戻って、まぁが笑わないことに気がついた。事故から時間も経っていなかったし、その時はあまり深く考えてなかったな。時間が解決してくれると思っていた」
松岡がビールを一口含んで、缶をわずかに揺する。それをじっと見つめながら松岡が言葉を続けた。
「だが、姉さんの葬儀後、しばらくしてから晃政さんから電話があってな。まぁが全然笑わないし、話もしないって。晃政さんも姉さんの死後、参ってしまったらしくてな。会社が気遣って日本にある本社に戻してくれるという話になった。だが、日本で暮らしたことのないまぁにとっては馴染めなかった。中学ではひどいいじめにあったらしい。まぁが高校に上がる時に晃政さんはアメリカに戻ることになった。まぁを連れて行くか悩んだ晃政さんが俺に連絡をよこしたんだ。アメリカに戻ってしばらくは忙しいだろうから真子につきっきりでいられないと。あの頃と同じようにまぁの異変に気付いてやれないかもしれないと。アメリカに連れて帰ることに不安を感じていたようだった。だから、俺が一時的に預かると言ったんだ。晃政さんの生活が落ち着いたらまぁを呼べばいいと。それが正しかったのかは分からない。それに、まぁのために姉さんの話をしないようにしていたが、もしかしたら俺自身が姉さんの話をしたくなかったのかもな」
「それはしかたないですよ。俺の親父は病気で死ぬまでに時間があって、俺も母さんも覚悟を決めていたつもりでした。それでもショックは大きかったです。話したかったことも、一緒にやりたかったことだってたくさんあります。真子のお母さんは突然だったし、すぐに受け入れられない気持ちだってわかります。あの時――父さんが死んだ時、俺は直に助けてもらいました。あいつ、親父が死んでからひきこもった俺のために学校が終わって暗くなるまでうちで何を言うわけでもなくずっとそばにいてくれたんです。そして、俺が話すまで待っててくれた。きっと真子にもそういう気持ちを聞いてくれる誰かが必要だったんです。お父さんでもお母さんの弟でもなく、関係のない誰か。だから、俺が言うのもなんだけど、やっと話せる人が見つかったんだと思います」
そして、それが俺だったこと、真子の役に立てたことが素直に嬉しかった。健臣は松岡の顔をまっすぐに見つめる。
「きっとこれからは豊川さんや直や拓也だって真子が頼れる仲間になってくれると思います。真子はここに――先生の家に来れてよかったんだと、俺はそう思います」
「……そうか」
松岡は立ち上がり、キッチンへ行く。そして、健臣に悟られないようにさっと涙を拭いた。ずっとこれでよかったのかと不安を抱いていた。真子と父親である晃政を引き離してしまったことが正しかったのか、口を挟むべきではなかったのではないかと思っていた。だから、健臣の言葉に少しばかり救われたような気がした。
リビングを見ると健臣はテレビを見て楽しげに笑っている。松岡は冷蔵庫から新しいビールの缶をとって、リビングへ戻った。
健臣は視線を上げて、松岡の手の中にある缶に顔をしかめる。
「あ、先生、駄目ですよ。一日二本までって真子と約束してるんでしょ?」
「今日はいいんだよ。まぁはもう寝てるし」
「明日、真子に言いつけよーっと」
健臣は悪戯っぽく笑ってからテレビに視線を戻す。
「おいおい、勘弁してくれよ」
松岡は弱々しく言いながらも、軽快な音をさせながらビールの缶を開けた。
それから三日後のことだった。
玄関のチャイムの音がする。リビングでテレビを見ていた健臣が視線を玄関の方へ向けた。そして、気だるげにグレーのTシャツに少しだぼっとしたジーンズ姿で立ち上がる。
「俺が出るよ」
ベランダで洗濯物を干している真子に声をかけた。白い半そでのシャツに花柄のスカートを着ている真子はうなずいて、「ありがとう」と言った。
健臣は夏休みに入ってからほとんど松岡の家に入り浸っている。利き腕を怪我したので食事や着替えがままならないし、どこにも出かけられない。そんなわけで朝から松岡の家で真子とお留守番だ。
玄関を開けると直がよっと手を上げた。赤いTシャツにグレーのスウェットを着ている。健臣は玄関の壁にかけられた時計を見る。ぴったり十時だ。
「お前、暇なのか? 毎日、毎日、同じ時間に……」
健臣がため息交じりに言った。そして、ドアを閉めようとすると、直が慌ててドアを掴む。
「お前のお見舞いに来てやってんだよ!」
「ふざけんなよ。お前は真子に会いに来てるんだろうが!」
二人は睨み合いながらドアの攻防戦を繰り広げている。しかし、片腕を負傷中の健臣は直の敵ではなかった。軽々と健臣を押しのけて直は玄関を潜り抜ける。すると、ちょうど真子がリビングのドアを開けて出てきた。空の洗濯物かごを手にしている。
「真子ちゃーん、おじゃましまーす」
「いらっしゃい。健臣くんが家から出られなくて暇みたいだから直くんが来てくれると助かる」
「真子ちゃんのお母さん度がレベルアップしてる……」
直が小声でつぶやいた。
しばらくすると拓也と悠里も松岡家にやってきた。夏休みに入ってから、松岡家は彼らの溜まり場と化している。リビングで慣れたように寛ぐ彼らを健臣は半ば呆れたように見つめる。
「いつも来なくていいのに……。夏休みをもっと満喫しろよ」
「なに言ってんだよ。俺がこないと誰がお前に昼飯食わせるんだよ。真子ちゃんか? 俺は断じて許さないぞ」
「俺はおもしろそうだから」
直は勢いよく立ち上がり、仁王立ちで言い放った。紺のTシャツに細身のジーンズを着ている拓也は胡坐をかき、直を見上げながらのほほんと言った。
チャイムが鳴った。時計を見ると十二時を過ぎたところだ。もうそろそろ松岡が帰ってくる時間である。松岡はいつもチャイムを鳴らす癖があるので、健臣たちは気にすることなく会話を続けた。しかし、玄関は開くことはなく、もう一度チャイムが鳴った。健臣と真子が顔を見合わせる。
「先生じゃないのかな。見てくるよ」
健臣はそう言って玄関に向かった。そっとドアを開けるとそこには紺のスーツを着た男が立っていた。背が高く、健臣は少し見上げる。そして、驚いたように目を大きくした。
「あれ? 間違えたかな。すみません」
男は綺麗に整えられた黒髪に手をやりながら、申し訳なさそうな笑みを浮かべて会釈した。そして、黒いスーツケースを片手にきびすを返す。
「あの、待ってください! ……真子のお父さん、ですよね?」
男は振り返る。松岡の家にある家族写真の中にいた真子の父親だった。男は健臣をじっと見てから表札を見た。そんな男をよそに健臣は慌てて家の中を振り返る。
「おーい。真子!」
真子はすぐにリビングから顔を出した。そして、一瞬だけ時間が止まったかのように父親を見て立ち止った。
「……お、お父さん?」
「真子!」
男は玄関で靴を脱ぎ捨て、転がるように真子の元まで行って、真子を抱きしめた。真子は慌てて父親から離れる。その表情は驚きに満ちていた。父親の腕を掴んで見上げる。
「ど、どうしてここにいるの?」
「サプライズだよ。驚いたかい?」
満面の笑みで言った。対して真子はすっと眉をひそめた。
「昼ごはんはチャーハンにしようと思ってたけど、冷凍ごはんが足りなくなっちゃった。……そうめんかな」
それを聞いて、リビングから顔を出していた直が嫌そうな顔をした。
「えー。昨日もそうめんだったじゃん」
「わたしもそうめんあきたー」
悠里も続いて言った。真子はリビングを振り返りながら小さくため息をつく。
「なんか、突然帰ってきてごめんね」
父親が寂しげにぽつんと呟いた。
「おい、お前ら玄関開けっぱなしでなにやって……晃政さん?」
松岡は開けっぱなしの玄関から声をかけた。そこにスーツ姿の男がいることに気がついて、松岡は驚いた表情でその男――晃政を凝視している。
「やぁ、和宏君。サプライズだよ」
やっと驚いてくれる人を見つけて晃政が嬉しそうにそう言うと、松岡は、はっと意識を取り戻す。
「お、お久しぶりです。お元気そうでなによりです。……あれ? ビール足りっかな。おつまみもあった方がいいですよね? 俺、買ってきます」
松岡はきりっとした表情を浮かべて言った。そして、そのままスーパーまで走っていきそうな松岡を晃政は慌てて止める。
「なんか突然帰ってきてごめんね! あとで一緒に買いに行こう!」
健臣はそんな晃政を苦笑気味に見ていた。写真の印象では爽やかな印象だったのに、実際に会ってみたらその印象は儚くもあっさりと崩れ去った。案外、世の中の父親なんてこんなものなのかもしれないと少しだけ寂しく思った。
リビングでは真子と松岡が晃政と向かい合うように座り、少し離れたところに健臣と直と拓也と悠里がわずかに小さくなりながら座り、様子を伺っている。
「久しぶりだな」
晃政が笑みを浮かべながら真子に言うと、真子は小さくうなずいた。
「驚かそうと思って帰ってきたら、こちらが驚かされたよ。和宏君の家から男の子が出てくるんだから。それで、彼は誰?」
晃政が固い笑顔を浮かべて健臣に視線を向ける。健臣は背筋を伸ばした。
「常盤健臣といいます」
健臣は人の良さそうな笑顔を浮かべた。晃政は健臣を頭の上から下までゆっくりと眺めた。その視線を受けて健臣は一気に震え上がった。先程は突然でなにも考えられなかったが、真子の父親に挨拶しているんだという意識が沸いた。
「……常盤君か。それで、真子とはどういう関係なのかな?」
「お、お友達をさせていただだいております」
今、自分がどんな表情を浮かべて、どんな声で、なにを話しているのかが分からなくなる。となりで直が「落ちつけ」と耳打ちしてきた。健臣は小さくうなずいて、深呼吸をする。
「そうか。真子がお世話になっているね。『お友達』の常盤君とは仲良くできそうな気がするよ」
『お友達』を強調しながら言った晃政が真顔で健臣に手を差し出す。健臣は青くなりながら握手した。
「そちらの三人も友達かい?」
「豊川悠里ちゃんと……直くんと拓也くん」
「あれ? なんで俺たちは名前だけなの?」
直が首をかしげながらふと疑問を口にする。健臣は直を笑顔ではぐらかし、あとで真子には直と拓也の名字をこっそり教えなければと思った。
晃政は健臣たちの顔を見て表情を和らげる。
「真子の父親の森野晃政です。娘がお世話になってます」
「真子のお父さんって『叔父様』って感じ」
悠里は晃政をうっとりと見つめ、ため息交じりに小さく呟いた。健臣と直と拓也はそっと悠里を見る。モテるのになぜ彼氏がいないのかがなんとなく分かったような気がした。
「実は君たちのことは少しだけ聞いているんだ。和宏君から」
健臣は松岡に視線を移す。松岡は照れくさそうに首筋をかいていた。
「こう見えて和宏君はまめな人でね。毎晩、真子の近況報告のメールをくれるんだ。二スクロールくらいしないと読み切れないやつ。しかも、全部ローマ字」
「すみません。英語はどうも苦手で……」
松岡は恥ずかしそうに、わずかに顔を赤く染めて小さくなった。
「うん。それはいいんだけどね。俺も日本人だから日本語は読めるし、分かるよ」
「え? アメリカのパソコンって日本語表示できるんですか?」
「……もっと早く言えばよかったね。ごめんね」
「これからは日本語で送ります。これでもっと詳しく書けますよ」
「いや、できればもう少し簡潔に書いて欲しいな。食事の献立とか詳しく書かなくていいから。あと、真子はもう少しメールくれると嬉しいな」
晃政が真子に視線を向けた。そして、言葉を続ける。
「真子のフォルダーは『おはよう』と『おやすみなさい』が交互に並んでいて、そのー、綺麗なんだけどね。もう少しこうさ、なにかないかなーって時々思うんだよね」
「お父さんが毎日メール欲しいって言った。でも、毎日なにかあるわけじゃない。用がある時はちゃんと送ってる」
「うん、そうだよね。ごめんね。お父さんが悪かったよ」
晃政はうつむきながら小さく言った。その背中には悲壮感が漂っている。
「それで、どうしたんですか?」
「夏休みがとれたから、真子の顔を見にね」
松岡の問いに答えた晃政は真子に視線を向ける。そして、言葉を続けた。
「あと、そろそろ真子もアメリカに来ないかと思ってね。その話をしにきたんだ」
晃政の言葉に部屋の空気がしんと静まり返った。健臣は先程、松岡から聞いたばかりだし、直と拓也と悠里に至っては初耳のはずだ。自然と真子に視線が集まる。
「日本に残るときに決めた約束のひとつ。お父さんの生活が落ち着いたらアメリカに行くって」
真子はうつむきがちに話した。悠里がなにかを言おうとすると健臣が悠里の腕を掴んで小さく首を横に振った。
「そしたら俺たち、外で昼飯食べてきますよ」
「助かるよ」
晃政が健臣に笑みを向けて言った。真子はうつむいたままこちらを見ることはなかった。
「行こうぜ」
健臣が直と拓也と悠里を急かすようにして家を出た。玄関を出るとすぐに悠里が健臣を睨みつける。
「なんで? なにも言わないの?」
健臣が頭をかいた。困ったように悠里を見ている。
「とりあえずここじゃなんだし、どこか行こうよ」
拓也が爽やかな笑みを浮かべて健臣に助け船を出した。直が首をかしげる。
「でも、どこかって? ファミレス? 俺やだよ。ファミレスで健臣にあーんするの」
「俺だっていやだよ。左手でも食べられるようなもの……ハンバーガーは?」
健臣の提案に乗った彼らは駅前に向かった。駅のファーストフード店に入った健臣たちはお通夜のような表情で黙々とハンバーガーを食べている。悠里が不機嫌そうに健臣を見る。
「ねぇ。常盤くんはいいの? 真子がアメリカに行っても」
「俺はいやだよ! せっかく真子ちゃんと仲良くなれたのに……」
直が健臣よりも先に答えた。健臣はハンバーガーを置いて飲み物を口にする。
「俺だっていやだよ。だけど、真子には父親がいるんだ。なら、父親と住むのが自然だろ? 俺たちがアメリカに行くなと言うことはつまり父親と離れて暮らしてくれということだ。俺たちが横から口を出していい問題じゃないと思う」
直と悠里がぐっと黙った。ずっと黙っていた拓也が口を開く。
「健臣の言う通りだよ。もし真子ちゃんがアメリカに行くと決めても、二度と会えなくなるわけじゃないんだし。そう重く考えなくてもいいんじゃない?」
直と悠里は難しそうな表情を浮かべている。
「わたし、海外に手紙を送る方法を知らないわ」
「アメリカに行くのっていくらかかる? どのくらい貯めればいいのかな?」
拓也が爽やかな笑みを浮かべる。
「うーん。手紙もいいけど、メールの方が楽じゃないかな? どのくらい貯めればいいかかぁ。アメリカは遠いからな。でも、ほら。アメリカに行くぞってバイトすればやりがいになるし頑張れるかもよ?」
「そうだな。あとで、アルバイト情報誌もらってこようぜ」
「そうね」
直と悠里が拓也の言葉に真剣な表情でうんうんとうなずいて、ハンバーガーを頬張りだした。健臣は拓也を見て、よくまとめたなと感心する。拓也はその視線に気がついて爽やかな笑みを浮かべた。そして、健臣に耳打ちする。
「受験が控えてることはしばらく言わないでおこう」
健臣は苦笑しながらうなずいた。どんなバイトがいいか話合っている直と悠里を拓也は爽やかな笑顔で眺めていた。




