ようこそ九龍へ!
シキシマの無線を受けたダーロンはすぐにやってきた。
死んだ運転手を見て、ひとしきりコールに対する悪態を吐いていたダーロンだったが、シキシマに足首を蹴っ飛ばされて仕事に頭を切り替えたようだ。
「だーもー、死体はどうすんッスか、シキシマさん」
「君の好きにしなさい。処理するなり、家族に届けてやるなり……その男に家族がいるのかは知りませんが」
口から紫煙が吐かれる。
「そりゃいるっつの、木の又から生まれてきた訳じゃねェんだからさ。……まあ、シキシマさんはそうだってんなら納得するんスけどぉ」
「持ち帰るなら、自分の物置に入れておくんですね。私は、死体と相乗りなんてごめんですから」
ダーロンの冗談にシキシマは取り合わず、口の端をつり上げた。
「シキシマさん、こっちのは」
話は終わりだ、とばかりに後部座席に乗り込もうとしたシキシマをダーロンが呼び止める。
こっちの、というのが自分を指し示しているのだと認識してへたり込んだままだったイーシャは慌てた。
「ああ、そんなのもいましたっけね。……まあ、持ち帰りましょうか。宝そのものではなくとも、宝の説明書くらいの価値はあるかもしれませんし。コールの奴、欲しいものの形も認識していないと言っていましたから、説明書きが売れることもあるでしょう」
完全にイーシャを物としか認識していない発言に疑問を呈することもなく、ダーロンはアイサー、とふざけた敬礼を返す。イーシャは積み荷のごとく抱えあげられ、助手席に下ろされた。
「はーい、シートベルトだぜ。お嬢ちゃん」
「なっ、や、放して!」
イーシャの抵抗をまるで意に介した様子なく、ダーロンはポケットから手錠を取り出す。あっという間に、助手席側についたアシストグリップとイーシャの手首は繋がれてしまった。
「少女に手錠。何か背徳的な感じだねェ」
「馬鹿を言ってないで、早くしろ」
シキシマが、後部座席から助手席を蹴り飛ばす。イーシャは九龍特区の常識ともいえる暴力的な行動の数々に縮みあがった。
「ハイハイ、せっかちなお兄さんだ」
言ってダーロンは地面に倒れている運転手の死体を抱えあげると、宙に向かって放り投げる。電車内での弾丸のように、死体は何処かへ忽然と消えてしまった。イーシャは、やはり何が起こっているのか理解できずに目を白黒させた。
車はすべり出しから、やたらと加速した。シートに重力で押しつけられる感覚に、イーシャは渋面をつくる。
「あの降ろしてください、私、特区の行政官と会うから……」
「そりゃやめといた方がいいぜ、お嬢ちゃん。特区の行政官ってのは、だいたい任期が一年しかない。何でだか分かるか?」
イーシャは謎かけなどしたい気分ではない。小さく頭を振った。
「奴ら、任期が一年でも満期でシャバに出られる前に死んじまうからさ。ここじゃ善良な公務員なんざ生きていけねェ。任期を全うしたけりゃ顔を繋げるしかねェワケよ。守ってくれそうな組織とな。だからまあ、嬢ちゃんが会おうとしてる行政官っつぅのも、十中八九どっかの息がかかってるワ・ケ」
「そんな……」
行政官の職務を刑務所の任期のように言うダーロンに、イーシャは陰鬱な思いを深くする。これでは約束を果たせない。
「あれは一体、何なのですか?」
「え?」
「あの鞄の中身ですよ」
もうすっかり自分から興味を失っていると思っていたシキシマの質問に、イーシャは頭を急いで回転させる。ハムスターの回し車のように、カラカラと空しい幻聴が聞こえた。
「……あれは、その、何でもありません」
「何でもない? お粗末な説明もあったものですね。それで私が、ああそうですか、と納得するとでも思ったんですか」
後部座席からネチネチと問い詰めてくるシキシマの重圧に、イーシャはミラーを視界に入れないようにうつむく。鏡越しにでも目が合ってしまったが最後、石にされそうな気がする。
「本当に何でもないんです、あれは」
「何でもないものなら中身を言っても差支えないでしょう」
シキシマはすっぽんのように執拗い。
どうしよう、言ってしまおうか。本当に何でもないものなのだ。それでもなかなか口にできないのは羞恥にほかならない。
「……あれは、ただの」
「ただの?」
イーシャの顔が赤らむ。
「着替えです」
ぶはっ、と隣でダーロンが噴き出した。
「女の子の着替え! コールが! 下着ドロ……!」
よほどツボにはまったらしく、げひゃげひゃと片目から涙を流して笑うダーロンのハンドルを握る手が狂いはしないかと、イーシャは気が気ではない。下着、という言葉に恥かしさは募るばかりだ。
「それが本当だとすれば、コールは狙いのブツを手に入れられなかったことになりますね。コールは目的のブツのかたちを知らない。ゆえに間違えた……」
「そんなら、本物はこの嬢ちゃんがまだ持ってるってことッスか?」
ダーロンの言葉にイーシャは勢いよく首を横に振った。イーシャは何も持っていない。この九龍特区に持ってきたのはあの着替えの入ったトランクだけだ。
「俄かには信じがたいですね。それなら君は何をしに九龍まで来たのですか」
「私は……祖父の遺言で来ただけです。門に向かえ、と」
一方的に質問を突きつけてくるばかりのシキシマに反発心を強めて、イーシャは更にうつむく。
祖父はイーシャの唯一の身内だった。
その祖父が亡くなって、すぐに『研究所』の人間を名乗る男がイーシャを訪ねてきた。イーシャの祖父は国営の研究所でタントリの研究をしていたのだ。
九龍に……《門》に行って欲しい、それが貴方にお祖父様が遺した最期の願いです。そんな曖昧な言葉に頷き、イーシャはここにいる。
九龍特区への通交証があっという間に発行された経緯から、そこに国家の思惑が介在していることは明らかだったが、そんなことは関係がなかった。大事な祖父が最期にそれを望んだ、それだけで十分だった。そこに何の疑問も差し挟みたくはなかった。
「分からないな。君は門に行って何をしろ、と言われた訳でもなく、ただ来たと言うのですか?」
「だから、そうだって言ってるでしょ……!」
つい声を荒げてしまう。
祖父が死んでそれほど時間が経っているわけでもない。思いだすと、辛くて堪らなかった。
一度、言葉を崩してしまえば、こんなひとたちに丁寧に話す必要なんて元々なかったんだ、という気もしてきた。いっそ目一杯、汚い言葉を使ってやろうと思い、そんなボキャブラリーがないことにも気がつく。祖父は汚い言葉なんて使わないひとだった。
「それなら君は、君も知らない内に何かを持たされている、と考えるのが妥当ではないかな。君自身には見たところ何の能力もない訳ですし」
「放っておいて!」
「そうはいきません。君の利用価値はまだまだあるようだ。君の身柄は私たちが大切に預かります」
欢迎来 九龍!
シキシマは観光客を迎えるガイドのごとき親切そうな笑顔で言った。