九龍上陸
世界が裂けた、それを見た者はそう言った。
地面から空まで縦に一直線、まるで神の槍が突き立てられたように時空が裂けたのだ。
三十年前、世界が裂けるまで人々は『世界は一つである』と思い込んでいた。今自分たちが暮らしている世界が唯一で無二の存在だと。
裂け目は、世界を繋いだ。一つの世界と、多数の世界を。
幻想小説やお伽噺でしか読んだことがないような異形の世界、決して交わることのなかった世界が裂け目によって結ばれた。
今に言う、『九龍割譲』である。
裂け目が街へ呼び込む異形に危機感を募らせた政府は、この九龍を閉鎖し、九龍特別指定区として厳重な管理下に置いた。異世界の脅威が世界に統一政府を作らしめたのは大きな皮肉だった。
イーシャは、街を南北に切り裂く割れ目を見上げた。
光の柱のようにも見えるその裂け目は、異世界との通用口になる特性から門と呼ばれている。
門の存在は、この世界を歪めてしまった。
イーシャは初めて足を踏み入れた九龍特区の退廃ぶりに、座りの悪い心持ちになる。
こんな治安の悪そうな場所は歩いたことがない。九龍特区外の少女なら、それが普通の感覚だろう。
切れたケーブルや転がる瓦礫、補修の予定は永劫なさそうな亀裂の入ったアスファルト……打ち捨てられた街、という印象を受けた。
「東へ行く電車は……」
イーシャは門に向かわなければならない。
本来、外部からの立ち入りが禁じられている九龍特区にイーシャが送り込まれた目的がそれだ。理由は分からない。ただ門へ向かえ、イーシャはそう指示を受けていた。
地下鉄への入り口を見つけたイーシャは急ぎ足で階段を下りる。
アタッシェケースが少女の細腕には重い。門へ向かう電車のホームで、特区の行政官と落ち合う手筈になっていた。特区での政府機関はかたちだけで力が弱いと聞くから、それでも安心は禁物だ。
「お嬢さん、電車には不慣れみたいだねェ。何処に行くんだい?」
路線図を凝視していたイーシャは背後から声を掛けられて、びくりと肩をはねさせる。
下から見上げるように後ろを窺うと、鉄道員らしい制服を着た男が立っていた。眼帯をつけているせいか、どこかヤクザな雰囲気が漂っている。
「そう警戒しないでくれ、この街じゃそれも仕方ねェんだろうが。鉄道員はお客様のご乗車案内するのも仕事なんだよ」
「あの……門に……」
「珍しいところへ行くんだな。門へ行くなら尖東まで買いな。門へ近づくほど治安は悪いぜ……アンタみたいな女の子が行く場所じゃねェと思うが、タントリの力は見た目じゃねェからなァ」
イーシャが男の助言通りの切符代を渡すと、男は古紙に判が押されただけの切符をくれた。
タントリとは門の影響を受けた者が目覚める、異界の力のことだ。
もちろんイーシャには、そんな力はない。タントリがあるように見られるなんて予想もしていなかったイーシャだが、そう装った方がいいだろうことをすぐに飲み込んだ。無力な存在であるとバレれば、襲われる危険が高まるからだ。
イーシャは眼帯の鉄道員にぺこり、と頭を下げて、足早に改札をくぐる。
「再见」
鉄道員はにこにこと手を振って、イーシャを見送った。
駅のホームは薄暗かった。
段ボールが点在しているのは、ここに寝泊まりしている人間がいるからなのか。
ホームに他に人気はない。待ち合わせ相手は、まだ来ていないようだ。次の電車で来るのだろうか、イーシャは役には立たなそうな時刻表をちらりと見る。時刻表の看板は、正体の分からない電話番号やらの落書きで汚れてきっていた。イーシャは、何だか恐ろしくなって目を逸らす。
じっと手元のアタッシェケースを見つめていると、足音が聞えた。
地下の空間はよく音が反響する。階段を下りてくるゆっくりとした足音に、イーシャは目線だけをそちらへやる。
スーツ姿の男がこちらに向かって歩み寄ってくるところだった。眼鏡と整えられた髪がいかにも理知的に見える。
「お待たせしました。一人で不安だったでしょう、九龍特区、行政官のシキシマです」
シキシマと名乗った男は、そう言ってイーシャに手を差し出した。
イーシャは、その手にやっと拠り所を見出した気持ちになって握手を返す。ここまでは自然の流れだった。イーシャが異常に気がついたのは、シキシマがいつまで経っても手を離そうとしなかったためである。
「あ、あの……」
「電車が来ますね」
問いかけようとしたイーシャの言葉にかぶせるようにシキシマが言った。
近づいてくる車両の前部標識灯が、ほの暗いホームに光を差し込む。有無を言わさない強さで握られた手を意識せずにはいられない。
「乗って下さい」
ドアを開けたまま乗り入れてきた電車にシキシマは疑問を感じる風でもなく、イーシャを引きずり込もうとする。何かがおかしい。イーシャの足に、無意識のうちにホームへとどまろうという力が入る。
そのイーシャの抵抗にシキシマの顔は不愉快そうに歪められた。
「何やってんスか、シキシマさん」
思いがけず後ろから背を押されて、イーシャの抵抗はあっさりと崩れてしまう。転倒した勢いで、電車に押し込まれたかたちになった。
「よぅ、また会ったな。お嬢ちゃん」
背を突き飛ばしてきた男を見上げれば、先ほどの眼帯をした鉄道員だった。制帽のつばを上げて、にやっと笑う顔には親切心の欠片もない。はめられた、と反射的に理解する。
「何を抵抗することがあるんです、元々電車に乗るつもりだったんでしょう」
「貴方、誰……!」