三十秒
カチリ、と秒針がひときわ大きな音を立てる。
秒針があと半周すれば、五時で、もうすぐ家に帰れるなとぼんやり思う。
「付き合わないか」
彼の真剣なまなざしも、すべてが遠くの出来事のように感じる。
手を伸ばせば届く距離で、彼は私だけを見ていて、カクテルパーティー効果ではないが、はっきり聞こえるのは彼の声だけだというのに。
(冷静になりなさい)
私は、彼から微妙に視線をずらしながら自分自身に言い聞かせる。
気になっていた人から、こんなことを言われるなんて、少女漫画でもあるまいし、頻繁に起こることではない。
何とも言えない、居心地の悪い緊張感に耐え切れず、この雰囲気を笑いに変えそうになったのをなんとか踏みとどまった自分自身をほめる。そうなってしまえば、きっとこのチャンスは泡となって消えてしまっていただろう。
早く自席に戻らなければと思う。仕事をさぼっていると思われてはたまらない。(実際に今の状況は仕事とは全く関係のないことなのだけれど)
それに、他の人に見つかると何となく気まずいような気がする。
どうしよう、どうしよう。
「どうしてですか?」
理由なんて、知りたいような知りたくないような、今聞かなくてもいいような気もするが、何とか絞り出したのはこの言葉だった。
当たり障りのない言葉を必死に探している。
脳内コンピュータがフル稼働だ。
ヒートアップしている。
「ずっとみてたから」
その一言に、胸がキュンとなった。
なんとなく、不意打ちだった。
彼と働き始めて、かれこれ半年以上が経つけれど、今までほとんど話したことがなかった。
営業の彼と、内勤の私の接点といえば、「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」くらいのものだ。
同じ内勤でも、経験の浅い私よりも何でも知っている先輩のところへみんなは行くし、私の業務は本当の裏方だから、なかなか他部署の人と接する機会がない。
一番話したのは、もしかすると今日かもしれない。
年頃の女性が集まると、ついつい結婚の話になって(社内でもそれ以外でも、最近結婚の話が続いていることもあるのだと思う)、結婚相談所へ行ってみたら?なんて話で盛り上がっていたところへ彼が来たのだ。
「結婚したいの?」
と聞かれた時には、本当に驚いた。
彼が私に(私たちではなく、私に、というのが重要)話しかけるなんて、めったにないことだったからだ。
「結婚したいようには見えませんか?」
なんていう、かわいくない言葉が口から出たのは、動揺と緊張からだと思ってもらいたい。
結婚したくないわけない。
馬鹿みたいと思われるかもしれないが、小さいころから変わらない将来の夢は花嫁さんなのだから。
結婚式でかわいい花嫁さんになるには、タイムリミットがあるのだから、早く結婚したいに決まっている。
「ふーん、結婚相談所ねぇ……へえ、成立したらお金がかかんの?」
「これ、安い方じゃない?普通二十万とかもっとするよ」
「こんなんに頼んなくてもいいと思うけど」
「えー、なになに?こんなんに頼んなくてもおれが貰ってやるよって?かーっこいい!」
先輩と彼との会話が予想外の方向に向かったことにどきりとする。
「まさかここでプロポーズされちゃうんですか!?」
しかし、口から出るのは相変わらずかわいげのない言葉で。
「丁重に、お断りさせていただきます」
と、かわいくない私には、告白する前からノーサンキューという答えが返ってきた。
当り前だということは分かっているが、がっかりしたのも事実だ。
そして今日。
そして今。
こうやって、告白してくるのなら、あの時もう少し優しい言葉を返してくれてもよかったのではないかと、ふつふつと見当違いの怒りが沸き起こってくる。
(例えばそう、かわいい奥さんになりそうだね、とか。でもこんなこと言われたら、私はきっと素直に受け止めることができなかったに違いないから、彼の反応はもしかすると正解だったのかもしれない。でもそんなこと、認めたくない)
私だって彼を見ていた。
接点はほとんどなかったけれど、書類に書かれた彼の癖のある文字に、毎日胸をわくわくさせていた。
ときどきすれ違うたびにかおる、彼のにおいにドキドキしていた。香水はつけていないと言っているのを聞いたことがあるから、体臭にコーヒーとか煙草とか、そういう彼を構成するいろいろなものが混じり合ってそのにおいができているのではないかと思った。
気付けばつい、彼を目で追いかけていたし、いってらっしゃいもおかえりなさいも、一番に言いたかった。
それだけの理由で営業の人たちが出入りするドアが一番見えやすい自分の座席に満足していた。
かっこ悪い自分を見られたくなかったから、お昼休みはかぶらないようにとって、自分で作ったお弁当を見られないようにしていた。彼が、その辺の女の子よりもよっぽど上手に料理ができると自慢していたことから、私のお弁当箱の中身も、私がどんな料理を作るのかも、知られたくなかった。
そうやって避けているくせに、印象には残りたくて、甘い香りのするハンドクリームをつけてみたり(子供用の水薬みたいなにおいがすると、彼からは不評という結果に終わった)、みんなとは違う香水をつけてみたり(だから、どんなに好きでもクロエをつけるのはあり得ない)、つまり、これといった特徴のない私がささやかにアピールできるのは香りだけだと思って(確かこれをはじめたときに読んだ雑誌に、男は香りに弱いと書いてあったのだと思う)、私なりに頑張っていた。
彼は私を「みてた」と言ったが、私のこれらの行動は見ていなかったと思う。
むしろ、知ってほしくはないことかもしれない。(頑張ったことは知ってほしいという気持ちがなくはないのだけれど)
からかわれているだけかもしれない。
そんな気さえする。
ここで喜んでオーケーの意を示した瞬間に、「本気にした?」なんて言われたら、私のプライドはズタズタだ。きっと、立ち直ることさえできないだろう。
しかし、私たちもいい大人で(小学生でもあるまいし)、そんなことはありえないだろう。
こうやって疑心暗鬼に駆られて、いつだってチャンスを逃してる。(そして、そのことには取り返しのつかないくらい後に気付いて後悔する)
カチリと、秒針が再び大きな音を立てる。
終業のチャイムが鳴って、ちらりと自席付近を見ると、若手はみんな帰り支度を始めている。
私も戻らなければ。
そして答えを、結論を出さなければ。
「あの、とりあえず、メールアドレスを教えてください」
しまった、うっかり先延ばしにしてしまった。
大きなため息をひとつついて、彼は名刺の裏に携帯の番号とメールアドレスを書いて私にくれた。
ため息を聞きたかったわけではないのに。
返事は決まっているのにどうして言えないのだろうか。
私にいったい、どんなプライドがあるというのだろうか。
帰り道、携帯を見ながら何度もため息をつく。
斉藤美香です。私のメールアドレスと電話番号は……
ここまで打って、そこから先の文章がどうしても見つからない。
私の中で決めたタイムリミットは帰り道。
返事は早いに限る。
今日はありがとうございました。とてもうれしかったです。
この調子で。
ああどうして、メールなんて消えることのない媒体を選んでしまったのだろう。
と言っても、今日聞いたばかりの電話番号に着信する勇気もない。
お疲れ様です。今日はありがとうございました。とてもうれしかったです。
よければ、美味しいご飯でも連れて行ってください。
これでどうだ。
からかわれていたとしても、開き直りはできる。
でも、私のうれしかった気持ちを入れることはできた。
よし、送信。
勢いのままに、ボタンを押す。
送信完了を確認して、携帯を閉じる。
一仕事が終わった。
大きく息を吐いて、気持ちをリラックスさせる。
もうすぐ家に着く。
夕食を済ませ、お風呂にも入って、ぼんやりしていると、携帯が鳴った。
いつもはマナーモードにしているけれど、今日は家に着いてからそれを解除し、お風呂も含め肌身離さず手元に置いていた。
深呼吸する。
着信音が鳴っている。
早くとらなければ、切れてしまうかもしれない。
「はい」
会社で受電するときのように答える。
「はい、斉藤です」
「おつかれさま、今いい?」
やっぱり、それは彼で、その声は会社の電話機越しに聞くよりもずっとクリアで、そんな声が耳元で聞こえているということにドキドキが止まらなくなった。
「はい、だいじょうぶです」
準備は、ずっとできていた。
名刺をもらった時から、この電話を待っていた。
女の子と話すのとは違って、長い電話ではなかった。
金曜日の仕事帰りにご飯を食べに行こうということ。
嫌いな食べ物はあるかということ。
もしかすると、少し待たせるかもしれないということ。
電話を切ってからも、何度も何度も心の中でリフレインした。
そのうち、どこからどこまでが本当のことで、どこからどこまでが想像なのかが分からなくなってきた。
男の人と食事なんて、本当に久しぶりで、二人でとなると、記憶をさかのぼっても思いだすことができなかった。
そして、約束の日、約束の時間を少し過ぎて、彼はやってきた。
「ごめん、どうしても仕事が終えられなくて」
「いえ、おつかれさまです」
自分の仕事が終わっていても、帰れない事情があることは同じ職場にいるからわかる。
職場が入っているビルのスターバックスで待っていたのに、彼を見逃すまいと出入り口にずっと目を光らせていたのに、彼以外の同じ部の人が出てくるのは見ていない。
つまり彼は、一番に抜けてきたわけだ。
その優しさに、胸をギュッとつかまれる。
彼の言動すべてに、胸がドキドキする。
ああこれは、恋に違いない。私は彼のことが好きなのだ。そう確信した。
他愛のない話をした。
仕事のこと、趣味のこと、家族のこと。
ついつい、話しすぎてしまう私にも笑って耳を傾けてくれた。
今日の本題をいつ話そうかと考えていると、うまくきっかけがつかめない焦りから、どうでもいいような、話すつもりのないようなことまで話してしまった。
おなかは満たされて、頭もいっぱいで、お会計も済んで、ごちそうさまも言って。
「あの」
「なに?」
「今日ずっと言おうと思っていたんですけど」
この、始め方をスターバックスで考えて、何度も練習した。
そして、ここから先に言いたい言葉がなかなか言えずに、あの、えっと、とどもってしまう。
「この間の返事をさせてください」
「よろしくおねがいします」
彼はニヤッと笑って、「もっと早く言えばいいのに」とでも言いたいのか、からかうような視線をこちらに向けた。
この間までの私だと、なんて失礼な人なんだろうと、嫌悪感を抱いていたかもしれない。
惹かれていた気持ちを撤回していたかもしれない。
けれど、今の私は、もうすっかり彼に惹かれてしまっているから、そんな顔さえもが嬉しい。
会社では決して見せない顔を、私にも見せてくれるということが純粋に嬉しかった。
彼は私の横を歩いていて、彼の顔を見上げると気付かれてしまうだろうから、たったそれだけのことができず私はうつむいていた。
目に入る彼の大きな手を触りたい、手をつなぎたいと思ったが、そんな恥ずかしいことはとてもじゃないが言えそうになかった。
今日この時、私たちの関係はぐっと近づいた。
心の距離も、もっと近づけばいいのにと思った。
私の気持ちに気付いてほしいと思った。