真理5:一般的な悪意!
ある日の昼下がり、ヴェリタス探偵事務所に重い足取りで現れたのは、ビリー・ヴァンクロフト警部だった。ビリーがニーアとアスナに持ち込んだのは、警察からの正式な捜査協力の依頼だった。
依頼の内容は、極めて深刻なものだった。新王都の裏社会で「紫の魔石」が違法に大量取引されているという情報が入ったのだ。紫の魔石とは、国家の厳重な管理下に置かれている最高純度の魔力結晶であり、一般市民はおろか、下位の魔道士でさえ触れることすら許されない代物である。その強大な魔力は、都市のインフラを支える動力源となる一方で、一つ間違えれば街区を消し飛ばすほどの破壊兵器にもなり得る。ビリーの言葉によれば、その紫の魔石を裏ルートで横流ししている主犯格が、ある一人の「番号持ち」の獣人だというのだ。
新魔道士からの通報により、その獣人が潜伏している可能性が高い地域が特定された。警察の正規部隊を動かせばすぐに察知されて逃げられる恐れがあるため、遊撃的な調査が可能な探偵事務所に白羽の矢が立ったというわけだ。
ニーアとアスナは、ビリーから受け取った資料を手に、指定された地域へと足を運んだ。そこは、先日二人が歩いた混沌と喧騒の歯車通りとは対極にある、新王都の西部に位置する閑静な高級住宅街だった。
その完璧な美しさが、かえって二人の調査を困難なものにした。この街の住人たちは、見慣れない獣人の少女と黒ずくめの竜人に対して、あからさまな警戒心を向けた。ニーアが愛想よく聞き込みを行おうとしても、誰もが冷ややかな視線を向けて足早に立ち去り、時には警備の魔道自動人形を呼ばれそうになる始末だった。不審な獣人の目撃情報など、この清浄な街にあるはずもない。何時間も歩き回り、靴の底をすり減らしたものの、紫の魔石の手懸りはおろか、番号持ちの獣人の影すら見つけることはできなかった。
「あー、もう!全然駄目じゃない!この街の連中、すっごく感じ悪いわ!」
ニーアは石畳の道を力強く蹴り上げながら、溜まりに溜まった鬱憤を吐き出した。彼女の極太の尻尾は不機嫌そうに左右に大きく揺れ、頭の獣耳もぺたりと伏せられている。
「……論理的に考えて、この地域に犯罪者が潜伏している確率は低い。……ビリー警部の情報源である新魔道士の通報そのものが、何らかの欺瞞である可能性を考慮すべき」
アスナは周囲の豪邸を無表情にスキャンしながら、淡々と推論を述べた。彼女の歩みは一定のリズムを保ち、疲労の色は全く見えない。
「いいわ。一旦休憩!頭も体も糖分を欲してるのよ!あそこのドーナツ屋に入るわよ!」
ニーアが指差したのは、大通りに面したお洒落なオープンテラスのあるカフェだった。
二人が店内に足を踏み入れると、芳醇なバターの香りと、深く焙煎された高級なコーヒー豆の香りが鼻腔をくすぐった。店内は静かなクラシック音楽が流れ、上品なマダムたちが優雅なティータイムを楽しんでいる。ニーアとアスナは窓際の席に座り、それぞれ好みのドーナツとコーヒーを注文した。
「生き返るわ。やっぱり甘いものは正義ね。……ねえアスナ、この後どうする?調査は行き詰まってるし、映画でも見に行かない?」
ニーアが口の周りに砂糖をつけながら提案する。アスナは自分の前に置かれた漆黒のブラックコーヒーを静かに一口飲み、皿の上のプレーンなドーナツをじっと見つめていた。
「映画。……情報のインプットとしては悪くない選択。……しかし、現在我々は業務中」
アスナが真面目な顔で答えようとしたその時、カフェの入り口のドアベルが、チリンと軽やかな音を立てた。
ニーアは何気なく視線を入り口に向け、そして、その動きをピタリと止めた。
店に入ってきたのは、この高級住宅街にはあまりにも不釣り合いな二人組だった。一人は、古びた手動の車椅子に乗った少女。そしてもう一人は、その車椅子をゆっくりと押す、みすぼらしいコートを着た獣人の青年だった。
少女は、一目でそれとわかる特徴を持っていた。長く尖った耳、透き通るような銀色の髪、そして、この世のものとは思えないほど美しく、しかし同時に恐ろしいほどに蒼白な肌。エルフだった。
この世界において、エルフという種族は神聖視されている。彼らは自然界の魔力そのものと深く結びついており、何もしなくても体内から無尽蔵に魔力が発生する。エルフがそこに存在するだけで、周囲の植物は芽吹き、生命体は活性化する。彼らは息を吸うように魔力を生み出し、そして消費して生きている、まさに魔法の申し子のような存在だ。
しかし、車椅子に乗ったそのエルフの少女からは、生命の輝きが完全に失われていた。彼女の瞳は虚ろで、細い腕は枯れ枝のように痩せ細り、浅い呼吸をするたびに苦しそうに肩を上下させている。恐らく、身寄りのない孤児なのだろう。着ている服もひどく古びており、所々が擦り切れていた。
そして、車椅子を押す獣人の青年。彼の首筋には、はっきりと「番号持ち」の烙印が刻まれていた。通常、獣人という種族は生まれつき魔力を持たない。強靭な肉体と鋭い五感を持つ代わりに、魔法という世界の理から切り離された存在だ。しかし、ごく稀に、突然変異として強大な魔力を持って生まれてくる獣人がいる。彼らは社会から危険視され、厳重な監視下に置かれる「番号持ち」となる。
ニーアの目は、その獣人の青年から目を離せなくなった。探偵としての直感、あるいは同じ獣人としての本能が、彼から発せられる異常な気配を感じ取っていたのだ。青年から漏れ出ている魔力は、尋常なものではなかった。それは、魔力の頂点に立つはずのエルフにすら匹敵する、いや、それをも凌駕するほどの圧倒的で高密度な魔力だった。世が世であれば、あるいは国家の制度が違えば、この青年はその比類なき才能によって社会から絶大な評価を受け、英雄として迎えられていたかもしれない。しかし現実は残酷だ。新王都において獣人は最も地位が低く、その上で強大な魔力を持ってしまった彼は、社会の最底辺として忌み嫌われ、迫害される運命にあった。
青年は周囲の冷たい視線に怯えるように肩をすぼめながら、店の隅の小さなテーブル席に少女の車椅子を移動させた。彼は自分の分の注文はせず、少女のために一杯の温かいコーヒーだけを頼んだ。
そして、青年は周囲の目を盗むようにして、懐から小さな紙包みを取り出した。
ニーアとアスナの席からは、その手元がはっきりと見えた。青年が震える手で紙包みを開くと、中から現れたのは、妖しくも美しい紫色に発光する結晶だった。紫の魔石だ。青年は素手でその硬固なはずの魔石を軽々と粉々に砕き、紫色の粉末を少女のコーヒーの中に静かに混ぜ込んだ。
「あ……」
ニーアの口から、小さな声が漏れた。
エルフが魔石を砕いて摂取する。それは、この世界の常識に照らし合わせれば、あり得ない行動だった。無尽蔵に魔力を発生させるはずのエルフが外部からの魔力補給を必要とする状態。それはすなわち、「魔力欠乏症」を意味している。原因は不明だが、自身の体内での魔力生成器官が完全に機能不全に陥り、外部から極めて純度の高い魔力を強制的に摂取し続けなければ、細胞が崩壊して死に至るという、エルフにとっては絶望的な不治の病だ。少女が生き延びるためには、あの最高純度の紫の魔石が不可欠なのだ。
青年は、紫の粉末が溶け込んだコーヒーが入ったカップを両手で包み込むように持ち、少女の青白い唇にゆっくりと近づけた。少女は微かに口を開き、その液体を一口、また一口と飲み込んでいく。すると、ほんの僅かではあるが、少女の頬に赤みが差し、虚ろだった瞳に微かな光が戻ったように見えた。青年はその様子を見て、安堵した表情を浮かべた。
しかし、そのささやかな平穏は、周囲の悪意によって容赦なく踏みにじられた。
「店長?獣人部落の連中を店に入れるなんて、衛生観念が疑われるぞ。空気が汚れてコーヒーが不味くなる」
離れた席に座っていた身なりの良い老人が、ワザとらしく大きな咳払いをして、周囲に聞こえるように吐き捨てた。
「本当よねえ。それにあのエルフの娘、なんか気味が悪いわ。障害者なんじゃないの?病気をうつされたらたまらないわ」
向かいに座るマダムが、露骨に顔をしかめてハンカチで鼻を覆う。
「見てあれ。キモすぎ。なんで豚が人間の街にいんの?」
近くの席の学生風の少年たちが、クスクスと下品な笑い声を上げながら、青年と少女に指を差した。
青年は反論することも、怒りを露わにすることもなかった。ただ、申し訳なさそうに何度も周囲に頭を下げ、少女の車椅子の前に立ちはだかって、冷たい視線から彼女を守るように背中を丸めた。
「……ッ!」
ニーアは拳を強く握りしめ、立ち上がろうとした。
しかし、それより早く、アスナが静かにニーアの手首を掴んだ。
「……アスナ離して!あいつら、言わせておけば……!」
「……ニーア。……感情による行動は、事態を悪化させるだけ。……ここは、出る」
アスナの青い瞳は、普段の無機質なデータ処理の輝きとは違う、底知れぬ静かな怒りのようなものを宿していた。彼女はテーブルに硬貨を置くと、まだ半分以上残っているコーヒーとドーナツには見向きもせず、踵を返した。ニーアは悔しさに唇を噛み締めながら、青年の震える背中を最後に一度だけ振り返り、アスナの後を追って店を出た。
店を出た後、重苦しい沈黙が二人を包み込んだ。空からは本格的に冷たい雨が降り始めていた。
「……映画。……行く」
不意に、アスナがポツリと呟いた。
ニーアは驚いてアスナを見た。いつもなら業務中であることを理由に絶対に断るはずのアスナが、自ら映画に行こうと言い出したのだ。ニーアは何も聞かず、ただ静かに頷いた。




