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ヴェリタスの最終定理5 完結篇  作者: Wan Liyue
●第17章:NV ナラティブ・ヴェリタス

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真理7:暴走する警官と、溶かされる女優!

ニルヴァーナの地下アジトでの対話から数日が経過し、街の表面上の喧騒は普段の狂気を保っているように見えた。だが、その狂気の裏側に、新たな、そして極めて悪質な恐怖の種が蒔かれ、急速に根を張り始めていた。


「硫酸男」


いつしか新王都の裏路地や、情報空間の片隅で、その都市伝説のような怪人の噂が囁かれるようになった。

夜道や、人通りの少ない裏通り。突如として現れた外套姿の男が、すれ違いざまに女の顔面に向けて謎の液体を浴びせる。

それは単なる硫酸や硝酸といった化学薬品ではない。

かつて、世界の大戦において、あまりの非人道性から使用が永久に禁止された呪われた兵器、「呪詛融解液」の改良型であった。

この液体は、対象の皮膚を焼くのではない。付着した瞬間に強烈な魔導反応を引き起こし、対象の細胞構造そのものを強制的に変異、崩壊させる。骨は泥のように柔らかくなり、筋肉は液状へと変容し、被害者は自身の肉体が内側から溶け落ちていく様を、一切の麻酔効果を持たないまま、完全な意識の中で味わい尽くすことになる。

さらに悪辣なことに、この兵器は周囲の空間に対して強力な精神感応波を放つ。範囲内にいる人間は、肉体的な損傷を一切受けていないにも関わらず、被害者と全く同等の「内側から溶かされる激痛」を幻覚として脳髄に直接叩き込まれるのだ。かつては敵の一個小隊を丸ごと発狂させるために開発された、純粋な恐怖の兵器。それが、なぜか現代の新王都の路上で使用されている。


そして、この硫酸男の犯行には、極めて不可解で、そして偏執的な一つの法則が存在した。

狙われるのは、例外なく「黒い髪の女」だけであった。年齢や体型、服装は問わない。ただ、肩まで伸びた黒髪を持つ女性だけが、その理不尽な悪意の標的とされた。

街の黒髪の女たちは恐怖に震え、金や赤に髪を染め、あるいは帽子で深く顔を隠して歩くようになった。新王都警察は特捜本部を立ち上げたが、犯人の足取りは全く掴めず、被害者の数だけが静かに、しかし確実に増え続けていた。


なぜ、黒髪の女なのか。


その真実を知る者は、この世界でごく一握りしかいなかった。

それは、あの夜、路地裏で、怪異ユリカによって精神を完全に破壊された一人の男の、底なしの恐怖と狂気の残滓であった。ユリカという、血に濡れた黒髪を持つ怪異。その絶対的な絶望を脳髄に流し込まれた男は、廃人となった後も、ただ「黒髪の女」という視覚情報にのみ過剰に反応し、己を脅かすその幻影を破壊することだけを目的とする、惨めな殺戮人形へと成り下がっていたのだ。


そんなある日のことである。

新王都の中心部に位置する、巨大なドーム型の複合商業施設。その日は、ある大きなイベントが二つ、奇妙な偶然によって同じ施設内で開催されていた。


一つは、大ホールの隣に併設された中規模のイベントスペースで行われていた、世界的な人気を誇るドーナツチェーン店「ミスター・マジック」の新作発表会である。


そしてもう一つは、メインとなる大ホールで開催されていた、ある一本の大作映画「天国の貴婦人」の公開前日を祝う、大規模なプレミア・レセプションであった。


ニーアは、たった一人でその商業施設を訪れていた。

彼女は特に任務を帯びていたわけでも、何らかの陰謀を嗅ぎつけて警戒に当たっていたわけでもない。ただ、純粋に、ミスターマジックが満を持して発表した「究極のシュガーグレイズド・ドーナツ」の先行試食会という甘美な誘惑に抗いきれず、ニルヴァーナの息の詰まる地下アジトから抜け出してきたのだ。

狐獣人のしなやかな足取りで会場を回る彼女の両手には、すでに三つの箱が抱えられ、口の周りには白い砂糖が幸せの証のように付着していた。抗争や、因縁や、手足の幻肢痛。それらすべての憂鬱を、この砂糖の塊が、一時的にではあるが、確実に忘れさせてくれていた。


「ああ、やっぱりこの甘さこそが正義よね。アスナにも一つくらい残してあげようかしら。……いや、あの子はブラックコーヒーがあれば十分よね」


ニーアは箱の中から新しいドーナツを一つ取り出し、大きく一口齧り付いた。

平和な時間だった。

新作のドーナツを堪能したニーアは、帰路につく前に、隣の大ホールから漏れ聞こえる凄まじい歓声とフラッシュの光の波に興味を惹かれた。

そこでは、全世界が注目する超大作映画のプレミアが行われていた。そして、その映画で主演を務め、今まさに壇上の中央でまばゆい光を浴びて微笑んでいるのは、ゼランディア出身の若きトップ女優、ユカリであった。

ユカリは、美しい黒髪を優雅に結い上げ、新王都の最新モードを取り入れた純白のドレスに身を包んでいた。彼女の存在は、かつて新王都に侵略され、今もなお属国としての扱いを受けているゼランディアの人々にとって、希望の星であり、平和的な文化交流の象徴でもあった。

ニーアは、ドーナツの箱を抱えたまま、野次馬の群れの後ろからその華やかな光景を眺めるために、大ホールへと続く広い通路を歩いていた。


その時である。

彼女のすぐ横を、一人の男がすれ違った。

強烈な腐臭が、ニーアの敏感な狐の嗅覚を殴りつけた。

それは、何日も風呂に入っていないとか、ゴミ箱を漁ったというレベルの悪臭ではない。下水、古い血液、吐瀉物、そして何より、人間の尊厳が完全に腐敗しきった時に発せられる、精神の死臭であった。

男の姿は、まるで毛玉と汚物をこね合わせて作った泥人形のようだった。髪は油と泥で固まって顔を覆い隠し、足取りは覚束なく、左右に大きく揺れている。だが、その男が身に纏っているボロボロの布切れは、かつては鮮やかな青色をしていたであろう、新王都警察の制服の残骸であった。

ニーアは思わず足を止め、振り返った。

一瞬、彼女の脳裏に、かつて共に事件を追った、少し臆病だが正義感の強かった警察官の顔がよぎった。あの日、ヴェリタス探偵事務所から逃げ帰って以来、彼は警察署にも戻らず、完全に消息を絶っていた。

だが、ニーアはすぐにその考えを打ち消した。

まさか。

あの誇り高き、小綺麗な身なりを好んでいたビリーが、こんな正体不明の汚物のような姿になるはずがない。

きっと、制服をどこかで拾った浮浪者に違いない。

ニーアは、ほんの数秒だけその不審者に注意を払った後、再び前を向き、華やかなプレミア会場の入り口へと足を踏み入れた。


その数秒の躊躇いが、永遠の取り返しのつかない惨劇の幕開けとなることを、彼女はまだ知らなかった。


会場内は、むせ返るような熱気と、高級な香水の匂い、そして数百人の招待客のざわめきに満ちていた。

ニーアは後方の壁際に立ち、壇上のユカリを見つめた。偶然にも、ユカリの視線がニーアの姿を捉えた。ユカリは、この狐獣人の探偵を覚えていたのだろう。彼女はふっと表情を和らげ、ニーアに向けて小さく、友好的な微笑みを投げかけた。

ニーアも、ドーナツの箱を持ち上げて小さく手を振り返そうとした。


だが、その時である。


会場の入り口付近で、招待客たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように道を開けた。

割れた人波の中心を、先ほどの悪臭を放つ汚らしい男が、ゆらゆらと、しかし、一直線に、壇上のユカリに向かって歩みを進めていた。

男の濁りきった目は、周囲の人間など一切認識していない。ただ一点、壇上で微笑むユカリの「美しい黒髪」だけを、狂気に染まった瞳孔で執拗に捉えていた。

会場の空気が一変した。警備員たちが慌てて駆け寄ろうとするが、男の全身から放たれる常軌を逸した異常な雰囲気に圧され、足が止まっている。

壇上のユカリも、異変に気付いて視線を落とした。

そして、彼女の持ち前の善良さと、ゼランディア人特有の他者への慈悲の精神が、最悪の形で裏目に出た。

ユカリは、その汚らしい泥人形のような男の顔の輪郭に、かつて自分の護衛についてくれた警察官の面影を見出したのだ。


「……ビリーさん?」


ユカリが、マイクを通してその名を呼んだ。

戸惑いと、心配を含んだ優しい声。

その声が、男の脳内に張り巡らされた狂気のトリガーを完全に引いた。


「き?……ア……ああああッ!クロイよ?、なの?……!髪ッ!!……殺すッ!!」


男……ビリーの喉の奥から、獣のような絶叫が響き渡った。

彼は懐から、黒ずんだガラスのフラスコを引き抜いた。

その瞬間。

ニーアの狐獣人としての野生の直感が、全身の毛を逆立たせるほどの致死量の殺気を受信した。


「逃げてッ!」


ニーアの喉が裂けるような絶叫が、会場の静寂を切り裂いた。

しかし、遅すぎた。

ビリーの右腕が異常な速度で振り抜かれ、フラスコからドロドロとした黒紫色の液体が、弧を描いて壇上のユカリの顔面へと放たれた。


「え……?」


ユカリの美しい顔が、戸惑いに固まったまま、その液体を正面から浴びた。

直後。

物理法則を無視した、悍ましい魔導反応が発動した。

肉が爆発的に沸騰するような音がマイクを通して大音量で響き渡る。


「あれ……?ぁ……わああああああああああああああああああああああっ!」


ユカリの口から、この世のものとは思えない、文字通り魂が引き裂かれるような凄まじい絶叫が上がった。

彼女の純白のドレスが、瞬く間に黒紫色の泥に染まっていく。

そして、数千人の観衆と、世界中に生中継されている何十台ものカメラの目の前で、絶望の光景が展開された。

ユカリの美しい顔の皮膚が、まるで蝋燭のようにドロドロと溶け落ち、その下の筋肉組織が異常な膨張と収縮を繰り返し始めたのだ。眼球が沸騰して白濁し、頬骨がゴムのように歪み、顎の骨が外れて胸の辺りまで垂れ下がる。

魔導処理が施された呪詛融解液は、彼女を即死させることは許さなかった。脳の痛覚神経を限界まで活性化させたまま、内臓の隅々までをゆっくりと、しかし確実に液状化させていく。


「痛いぃぃぃっ!助けて!溶ける!私が、溶け……あぎゃああああああああッ!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて助けて助けて助けて!わあああああああああッッッッッッ!」


ユカリは自身の溶け落ちる顔面を両手で掻きむしりながら、壇上をのたうち回った。掻きむしるたびに、彼女の指先からゼリー状になった肉の塊がボトボトと床に落ちていく。

それは、まさしく、地獄であった。

そして、呪詛融解液の真の恐怖が、会場全体に牙を剥いた。

ユカリの放つ絶望の思念波が、半径十メートル以内の空間に伝播したのだ。


「ぎゃあああああああッ!」


「目が!顔が溶けるぅぅぅぅッ!」


最前列にいたカメラマンや記者、そして警備員たちが、次々と顔を押さえて床に転げ回り始めた。彼らの肉体には一滴の液体も触れておらず、傷一つない。しかし、彼らの脳髄は、ユカリが今まさに味わっている「内側から肉体がドロドロに溶け落ちる」という絶対的な激痛を、全く同じ強度で感じ取っていたのだ。幻覚の痛みが、屈強な男たちを次々と発狂させ、泡を吹いて失神させていく。

地獄絵図と化した会場内で、唯一その魔の手から逃れた者がいた。

ニーアは、ビリーがフラスコを投げた瞬間に着装し、自らの限界を超えた速度で黄金の闘気を全身に纏っていた。狐火を宿した強固な魔力障壁が、呪詛融解液の思念波を間一髪で弾き返したのだ。ドーナツの箱は床に散乱し、砂糖が血塗られた絨毯に吸い込まれていく。


「ビリー!貴様はぁああああああっ!」


ニーアは、黄金の弾丸となって宙を舞い、歓喜の奇声を上げながら次なる標的を探そうとしていたビリーの身体に、上空から猛烈な勢いで飛びかかった。

凄まじい衝撃と共に、ニーアの膝がビリーの胸郭を無慈悲に粉砕した。

倒れ込んだビリーの両腕と両足の関節を、ニーアは容赦なく、完全に原型を留めないほどにへし折り、踏み砕いた。

骨が砕ける音が、阿鼻叫喚のホールに響く。

もはやビリーには、反撃する力も、逃げる力も残されていなかった。四肢を失った虫のように床に這いつくばり、それでもなお、濁った目で宙を見つめながら譫言を繰り返している。彼は痛みすら感じていなかった。

彼の精神は、とっくの昔に死んでいたのだ。

壇上では、ユカリの絶叫が徐々に小さくなり、やがてゴボゴボという水音へと変わり、最後には完全に沈黙した。

新王都とゼランディアの平和の象徴であった美しき女優は、その原型を一切留めない、悪臭を放つ黒紫色の肉の泥と化して、純白のドレスの残骸の上に広がっていた。


静寂。


後方で難を逃れた招待客たちの、すすり泣く声と嘔吐する音だけが、広大なホールに虚しく響いていた。ニーアは黄金の闘気を解き、血まみれの拳を見つめながら、ただ、呆然と、その惨劇の中心に立ち尽くしていた。

あまりにも凄惨な、個人の狂気が引き起こした悲劇。


だが。


この事件の真の恐怖は、血と肉が飛び散る物理的な残虐性にあるのではなかった。


事件発生から数時間後。

新王都警察の地下牢に収監されたビリーは、取り調べも、精神鑑定も受けることなく、その日の夜に、秘密裏に処刑された。

公式発表は「拘置所内での服毒自殺」。遺体は即座に焼却され、灰となった。


そして翌朝。世界中の情報網は、この前代未聞の暗殺事件の報道で完全に埋め尽くされた。


しかし、その報道のどこにも、真実に繋がる「枝葉末節」は記されていなかった。

ビリーが、怪異ユリカという呪いに直面して精神を破壊されていたこと。

彼がユリカへの異常な恐怖から、黒髪の女だけを狙う「硫酸男」と化していたこと。

その怪異ユリカを生み出し、狂わせた元凶が、宗教法人「墓守教」の非道な実験であったこと。

そして、被害者である女優ユカリの親族が、実は新王都の裏社会を牛耳る指定暴力団「ニルヴァーナ」の幹部であるという事実。

これらの、事件の深層を構成する極めて重要なピースは、見えない巨大な手によって、情報空間から完全に、そして徹底的に消去されていた。

世界に提示された「事実」は、あまりにもシンプルなものだった。


『ゼランディア出身の平和の象徴である若き女優が、公衆の面前で無残に虐殺された。』


『犯人は、新王都警察の現役警部であった。』


『使用された凶器は、旧王都軍の、非人道的な禁止兵器であった。』


これらが意味するものは何か。

誰の目から見ても明らかな、一つの結論。


「新王都という国家が、警察機構と軍の兵器を用いて、ゼランディア人の影響力を排除するために、組織的な見せしめの暗殺を行った」


……という構図である。

真実がどうであったかなど、もはや誰の興味も惹かなかった。大衆が求めたのは、複雑に絡み合った怪異やマフィアや宗教の相関図ではなく、わかりやすい「巨悪」と「悲劇のヒロイン」の物語だったのだ。


国際社会は即座に反応した。


ゼランディアの暫定政府は、新王都に対して強烈な非難声明を発表し、国境付近への軍備の集結を開始した。各国の大使館は次々と新王都から撤退し、経済制裁の発動が可決された。

街では、ゼランディア系の住民たちによる大規模な暴動が発生し、それを新王都の治安維持軍が武力で鎮圧するという、あの地獄の再来を思わせる光景が日常と化した。


ニルヴァーナと墓守教という、新王都の底なしの闇で抗争を繰り広げていた真のプレイヤーたちは、この巨大な政治的うねりの中で、完全にメディアの表舞台から姿を消した。彼らは語られなくなり、存在しないものとして扱われた。

残されたのは、ゼランディア人を不当に搾取し、迫害し、ついには白昼堂々と虐殺を行った悪逆非道な国家「新王都」という、強固に作り上げられた『ナラティブ(物語)』だけであった。


真実は、ただ一人の狂った警官の悲劇だったかもしれない。

だが、政治という名の巨大な怪物は、その小さな悲劇を飲み込み、消化し、世界を巻き込む大規模な戦争への正当な理由として排泄したのだ。


個人の力ではどうすることもできない、真実が書き換えられていく恐怖。

本当の地獄とは、怪異に肉体を切り裂かれることではない。

自分の現実が、誰かの都合の良いシナリオによって上書きされ、それに気づきながらも何も言えずに、引きずり込まれていくことだ。


ユリカ──「白紙化」の影響によりエラーラ・ヴェリタスと出会わなかったナラティブ・ヴェリタスの成れの果て──の怪談から始まった一連の事件により、新王都は、後戻りのできない絶望の渦中へと、ついにその足を踏み入れたのである。

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